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自由が丘クラシック音楽祭2019 A-1~A-3|西村紗知

自由が丘クラシック音楽祭2019 A-1~A-3
Jiyugaoka classical music festival 2019, A-1~A-3

2019年11月2日  ACTサロン entracte
2019/11/2 ACT Salon entracte
Reviewed by 西村紗知 (Sachi Nishimura)
写真提供:自由が丘クラシック音楽祭事務局

<演奏>        →foreign language
A-1:強制収容所に消えた天才作曲家I
小藤洋平(バリトン)、井出德彦(ピアノ)
A-2:強制収容所に消えた天才作曲家II
志村泉(ピアノ)
A-3:強制収容所に消えた天才作曲家III 「シュルホフの世界」
荒井英治(ヴァイオリン)、松本望(ピアノ)

<曲目>
A-1:強制収容所に消えた天才作曲家I
フランツ・シュレーカー:
  「庭で、菩提樹の下」(1896)
  「暗闇は重く鉛のように」(1909)
  「朝のざわめき」Op.2-2(1904)
ヴィクトール・ウルマン:
  「定め」Op.30-1(1940)
  「抗いがたき美しさ」Op.30-3(1940)
  ヘルダーリン歌曲集(1943-1944)「日没」「春」「夕べの幻想」

A-2:強制収容所に消えた天才作曲家II
ズデニェク・フィビヒ:「気分、印象と思い出」 より(1892-1898)
第355曲, 第217曲, 第179曲, 第81曲, 第19曲, 第139曲, 第196曲 ,第94曲,
第368曲, 第8曲

ギデオン・クライン:ピアノのためのソナタ(1943)
ヴィクトール・ウルマン:ピアノ・ソナタ第7番より(1944)
  第5楽章「ヘブライ民謡による変奏曲とフーガ」

A-3:強制収容所に消えた天才作曲家III 「シュルホフの世界」
エルヴィン・シュルホフ:
組曲~ヴァイオリンとピアノのための~ WV18=Op.1(1911)
ソナタ~ヴァイオリンとピアノのための~WV24=Op.7(1913)
ソナタ~ヴァイオリンのための~WV83(1927)
ジャズ舞踊組曲~ピアノのための~WV98=Op.74より(1931)
II.ストレート
III.ワルツ
IV.タンゴ
VI.フォックス・トロット
6つの皮肉~4手のピアノのための~WV55=Op.34より(1920)
III.“行進曲風”(軍楽隊調の)
VI.フォックスのテンポで
ソナタ~ヴァイオリンとピアノのための~WV91(1927)
【アンコール曲】
エルヴィン・シュルホフ:スージー(フォックス・ソング)(1937)

 

今年で3回目、特色ある企画内容が魅力的な「自由が丘クラシック音楽祭」。このサロン・コンサートは今年、40分、ものによっては1時間40分ほどのサイズのコンサートを2日間にわたって7つ実施した。今回は「退廃音楽」をテーマに、ナチスから迫害を受け、強制収容所に送られ、あるいは亡命を余儀なくされた作曲家の作品を多く取り扱った。筆者が足を運んだ1日目は強制収容所関連の方で、この日にとりわけ演奏機会の少ない作品が集中したように思い、期待を抱きつつ会場に向かったのである。

最初に全体の所感を言うと、筆者の中の19世紀半ばから20世紀中頃までの音楽史上の空白地点が埋まっていく感覚があった。ヴァーグナー《トリスタンとイゾルデ》の甘ったるさから新ウィーン楽派の苛烈な音響体に至るまでの間に一体どんなつながりがあるのか、少し腑に落ちたような感慨がある。
というより、自分の思い違いに気付いたといったほうが正しい。無調、とりわけ自由な無調から十二音技法に至るまでの時代様式が、もっぱら甘ったるい音楽を愛好する保守的な聴衆に不快感を抱かせるようなものとして実行されたのだと勝手に思っていたが、この日の「退廃音楽」からは、確かに新ウィーン楽派の1910年頃の作品と共有するものが多く聞き取れたものの、全体として聞きやすくヴァーグナーより甘ったるい。甘ったるさが不快感なのである。思えば当然のことかもしれない。ヴァーグナーに感化されてさらにその方向に進んだ結果が無調なのであれば、ヴァーグナーよりも甘美なものをそこでやっているというのは何ら不思議ではない。むしろ、無調にとって奇特な存在は、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの方なのかもしれない。この日の演奏会すべてを通じてずっと、シェーンベルクが嫌悪して書きたがらなかったもの、ウェーベルンが徹底的に省いたもの、ベルクが取り入れてはいたが距離を置こうとしたもの――こうしたものを聞かされていると感じていた。アドルノの『新音楽の哲学』だと、彼ら新ウィーン楽派の敵対者は新古典主義であるという見立てが与えられていたけれども(もちろんこの見立て自体にも大分見当の余地はあるが)、むしろ本当の敵対者は「退廃音楽」だったのではなかろうか。

A-1ブロックでは声楽作品が披露された。最初のフランツ・シュレーカーの3作品には調性感が強い。「庭で、菩提樹の下」は程良く夢見がちで快活な(heiter)リート。「暗闇は重く鉛のように」は内容通り深く低音部に沈んだピアノの音型が特徴的。3作品とも、まさに後期ロマン派といった感じだ。これに対してヴィクトール・ウルマンの「定め」はいくらかクルト・ヴァイルのソングを想起させる作風。「抗いがたき美しさ」は、たどたどしいピアノの右手のメロディがシニカルな印象を抱かせる。
このブロックでもっとも強い表現をもつ作品は、最後のウルマンのヘルダーリン歌曲集だったように思う。これは歌曲を超越している。聴衆一人一人の内に枯渇しているが故に欲される類の何かだ。作品は無調ではあってもその内実はプッチーニのオペラにおけるあの情動に近い。感覚的な快をしっかり聴衆に送り込んでいるのだから。不快な響きがあったとしても、せいぜい爛熟した果実の苦みや酸味くらいのものだ。けれどもこの歌曲は、趣味の良いものをやろうという志向のせいで生み出されたのでもないだろう。というのも、それとなく爛熟以降の出来事を見据えているようなのだ。つまり、破局を。音楽史と社会、ひいては作曲家自身のこと、諸々の運命をこの爛熟した果実は含んでいる。

A-2ブロックはピアノソロ作品。最初のズデニェク・フィビヒは今回のテーマからは外れる作曲家であるが、彼の作品もまたウルマンのヘルダーリン歌曲集とは別の種類の、感覚的な快や情動に根を持っているとわかる。言うなれば、音楽を介して共に時間を過ごす喜び。「気分、印象と思い出」はどれも、この作品を弾く者とのプライベートな関係性を前提にしたような、つまりは傍らで聞く音楽だ。少なくとも、ピアニストが舞台上で披露するのに向けて必死に磨きたてる類のものではない。一つ一つの小品に、性格はあってもいわゆるメッセージ性というのはない。このプライベートなニュアンスはショパンのマズルカにも通ずるように思う。もちろんこうしたプライベートな作品において、特にフィビヒやショパンの生きた頃の東欧情勢を思い出せばなお、民族意識の強さを度外視することはできまい。
ギデオン・クラインのソナタは、どうしても戦争ソナタのように思えて仕方がなかった。帰って調べたらたまたまちょうど同時期の作品のようなのだが、プロコフィエフの7番の1楽章の方が野蛮で、和音の短さはいかにも行進曲といったあしらいだが、クラインの方はなにかじっとりとして、乾きが足りない。前者は行進曲風の箇所とロマンティックな箇所両方が交互に訪れるが、後者は場面の切り替えというのもなく、その二つの対立するニュアンスを同時にやっているので、ひたすら異形の物体のうねりが続く。どちらが不気味かと言えば、後者クラインの方だ。
このブロックの最後、ウルマンの「ヘブライ民謡による変奏曲とフーガ」の民族意識の強さは、言うに及ばないだろう。ヘブライ民謡の変奏曲の後、歴史的に敵対していた宗派のそれぞれの賛美歌が、フーガを編んで光あふれるクライマックスを迎えなくてはならないのだから。

A-3ブロックは、エルヴィン・シュルホフのヴァイオリン作品をほぼ網羅するという、際立って野心的な内容。その都度荒井がシュルホフの生涯や作風についてだいぶ熱っぽく語ったこともあり、演奏は作品の組成を直に肉体で辿るようにして憑依的だった。シュルホフの作品もまた、感覚的な快や情動を絶対に度外視すまいというポリシーに貫かれているのがわかる。むしろ荒井の憑依でそのポリシーは増幅されている。仮にシェーンベルクの作品だったら、憑依型の演奏などすげなくはねつけるのだろうけれども。
最初の組曲は、1910年頃の作曲界の動向を踏まえつつ、可愛らしいサロン音楽の質をも兼ね備えたもの。対して次のWV24のソナタでは、夢見る音調と激しい慟哭とが対立して展開する。WV83は無伴奏曲で、楽師めいた野性味が溢れる作品。実のところ、いずれもそれぞれ既存の形式ジャンルに沿った曲作りになっているのだ。これもまた演奏家の憑依的態度を誘発する要因と言えるだろう。
「ジャズ舞踊組曲」「6つの皮肉」は、シュルホフのジャズ寄りの作風によるもの。ジャズを敢えて取り入れた作品、というのではない。シュルホフは実直にジャズを書いているのであり、そのことと彼の無調方面の作風とは相反することはない。音楽は善きものだと、彼の作品は信じてやまない。そのまっすぐな眼差しを前にすると、いくら娯楽的な音調だとしても、背筋が伸びるような心地になる。
怒りを直情的にぶちまけたかのようなWV91のソナタ。ところどころ冷めた和音をピアノが鳴らしても、ヴァイオリンがすぐに絶唱で音楽を沸点まで戻してしまう。反対に、第2楽章だとヴァイオリンによりもたらされた光は、ピアノの低音部の長音、これが漆黒の闇のようであって、ここに飲み込まれてしまう。迷いのない演奏ではあっても、微妙なバランス感覚を作品から受け取っていたのである。

単にテーマに沿った作品を陳列するに留まらず、聴衆に対し、自らのクラシック音楽にまつわる諸前提への反省を促す演奏会でもあったように思う。来年以降も挑戦的な企画内容を期待したい。

(2019/12/15)

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<Artist>
A-1:Genius composers in concentration camp I
Yohei KOTO(Bariton),Norihiko IDE(Piano)

A-2:Genius composers in concentration camp II
Izumi SHIMURA(Piano)

A-3:Genius composers in concentration camp III“Erwin Schulhoff’s world”
Eiji ARAI(Violin),Nozomi MATSUMOTO(Piano)

<Program>

A-1:Genius composers in concentration camp I
Franz Schreker:
Im Garten unter der Linde(1896)
Die Dunkelheit sinkt schwer wie Blei(1909)
Stimmen des Tages, Op.2-2(1904)

Viktor Ullmann:
Vorausbestimmung, Op.30-1(1940)
Unwiderstehliche Schönheit, Op.30-3(1940)

Hölderlin-Lieder(1943-1944)
Sonnenuntergang
Der Frühling
Abendphantasie

A-2:Genius composers in concentration camp II
Zdeněk Fibich: Nálady, dojmy a upomínky(1892-1898)
No.355,217,179,81,19,139,196,94,368,8

Gideon Klein:Klaviersonate(1943)

Viktor Ullmann : Klaviersonate Nr.7(1944)
Variationen und Fuge über ein hebräisches Volkslied

A-3:Genius composers in concentration camp III “Erwin Schulhoff’s world”
Erwin Schulhoff:
Suite for violin and piano, WV18=Op.1(1911)
Sonata for Violin and Piano, WV24=Op.7(1913)
Sonata for Solo Violin, WV83(1927)
Suite dansante en jazz for Piano, WV98=Op.74(1931)
II.Strait
III.Waltz
IV.Tango
VI.Fox-trot
Ironien for Piano (4 hands), WV55=Op.34(1920)
III. Alla marcia militaristica
VI. Tempo di Fox
Sonata for Violin and Piano,WV91(1927)

<Encore>
Erwin Schulhoff:Susi(Fox-Song) (1937)