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井上道義×森山開次「ドン・ジョヴァンニ」|丘山万里子   

東京芸術劇場シアターオペラvol.12 全国共同制作プロジェクト
モーツァルト/歌劇『ドン・ジョヴァンニ』全幕
(新演出・英語/日本語字幕付・日本語上演)

 2019年1月26日 東京芸術劇場
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama) 
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi) 

総監督・指揮:井上道義
演出・振付:森山開次 

<演奏>
管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:東響コーラス
チェンバロ:服部容子
マンドリン:青山涼 
 

<キャスト>
ドン・ジョヴァンニ:ヴィタリ・ユシュマノフ
レポレッロ:三戸大久
ドンナ・アンナ:髙橋絵理
騎士長:デニス・ビシュニャ
ドンナ・エルヴィーラ:鷲尾麻衣
ドン・オッターヴィオ:金山京介
ツェルリーナ:小林沙羅(1/26)
マゼット:近藤圭 

 ダンサー:浅沼圭 碓井菜央 梶田留以 庄野早冴子 中村里彩 引間文佳 水谷彩乃 
南帆乃佳 山本晴美 脇坂優海香 

 

このオペラ、ヨーゼフ2世が「素晴らしい、『フィガロ』よりさらに美しい、でも我がウィーン人の口には合わないね」とのたまい、応じてモーツァルト「口に合うまで噛ませておけ」。この小話が筆者は好き。  

地獄がぱっくり口を開けるような序曲冒頭の一撃にはいつもゾクッとするが、それはエロスとタナトスの赤と黒の炎火がそこに燃え立つからだろう。その燠火が全編をくすぶらせ、あるいは火照らせてゆくのだが、ダンスと音楽でこれをどう見せ、聴かせるか。
加えて日本語上演での革新モデル、これを世界へ発信しようじゃないか、との井上道義&森山開次『ドン・ジョヴァンニ』。その意気込み、大いに買う。
のだが、諸手を挙げて、に至らなかったのは致し方あるまい。 

まず、舞台。
ステージ前に一段低いオケピット、それをぐるり囲むスペースで、出入り、ダンスその他可能。
メインステージの後方テラスに左右の階段、中央階段下にも出入口、コンパクトかつオケ・歌唱のいずれにも過不足ない空間設定で響のバランスは非常に良好。
中央に白い大ぶりなソファ1つ(森山は本作に女性の胎内のイメージを持ったとかで、意味深形状)、これが第2幕では半分に割れ、二手に置かれる。
第2幕終盤、各人が掲げるランタンが動きにつれ揺らめく美しさも印象的だ。

ダンス。
女性10名、場面に合わせ適宜な人数と増減で現れる。
この「適宜」がよく吟味されており、不要なところに出しゃばらず、過剰な説明に陥らず、物語と歌唱の邪魔をしない。
クラシックはチュチュ、モダンはレオタードで2タイプの舞踊を適度に使い分け、赤、黒の衣装配色による暗喩も効く。主要キャストの周囲の動きを彼女らに割り振り無駄がない。
音楽ともマッチしているが、コンテンポラリー系を好む筆者としてはいささか振付が常套(くねくね官能とか)に思え、もっと抽象性が欲しかった感。
が、後で述べるが、歌唱が平板で人物造型がのっぺらぼうになっていたので、それを補う役目を果たしていたと思う(本誌で「奥行きを生む」とツイートしたが、これはその意味)。
ダンス導入効果てきめんは、第1幕幕切れドン・ジョヴァンニ追い詰めシーンでの音楽と振付の同期。取り囲む全員同じ振付でびしばしフレーズを決めて行くからその緊迫感、昂揚感はいや増すばかり。見ているこちらも、たびごと拳に力が入る大迫力であった。
もう一つ、オッターヴィオの切々アリア<彼女の心の平穏に>の背後で白い花を一つ胸に抱いたダンサーが静かに一歩一歩後ずさりして中央暗部へ消えてゆくシーン。これは、キャスト中、最も役柄と歌唱を消化、ただ声を張り上げるばかりでなく凹凸ある表現をしていた金山京介の健闘とともに印象深い。
こういう舞踊によるメリハリがなければ、全体の歌唱の掘り下げ不足は拭えなかったろう。
そうそう、もう一つ。これも前景一人でのアリアに背後の群舞シーン、いまどきエグザイル風で、クスリと笑えた。 

歌唱。
みんなそれぞれの人物描写ができていないから、一様に聴こえる。
これは歌手の責任ではなかろう。明らかに日本語上演にこだわった結果の不首尾だ。
日本の創作オペラでさえほとんどクリアできない日本語と音楽の壁、果敢な挑戦ではあったが、やはり跳ね返されたと言うべきだろう。
とにかく言葉が聞き取れず、字幕頼り(英語と日本語/日本語歌詞監修:渋江陽子)になる。が、その言葉も何か仕掛けや独自の読みがあるわけでない。それなら慣れた原語でのびのび歌わせ、字幕で自由に遊んだ方がずっと伝わるものがあったろう。
この歌手陣に、さあ、私たちは日本人なんだから、日本語でやりましょうよ、と言ったところで、はい、その通りと順応できる歌手がどれだけいようか(このキャストに限らない)。
苦労の挙句、表現彫琢どころでなくなり、ただただ声を頼りに(みんな我が美声張り上げアピールのほかなく、これが平板を生んだ)腕振り回すことになった。
日本語にこだわりたいなら、現況、字幕の日本語で冒険するのが賢明ではないか。
海外組2人については、こんなものだろう。
ドン・ジョヴァンニの胸とろかせる甘いセレナーデを寝そべって歌わせるに至っては、演出も含め、そりゃ無理でしょう、であった。 

演出。
最後の地獄落ちをどう見せるか。
序曲の音の一撃に応えるにふさわしい終結かといえば、これはいささか拍子抜けだ。
レオタードのダンサーたちが白装束のドン・ジョヴァンニの服を剥ぎ、数本の赤い細布を巻きつかせ、おどろおどろしい音楽とともに中央暗渠へと絡め取ってゆくわけだが、これが意外に普通。振付にインパクトがない。
筆者としては、さてどんな趣向?と期待大であったので、せっかく舞踊入りなんだから、もっと大胆な工夫を、と思ったのであった。 

音楽。
井上は、軽快に音楽をドライブし、オケも快調。
ダンスとのコラボに配慮した音運びで、小細工なくすっきり。
井上が唯一羽目を外したのは大広間での舞踏で指揮台を降り、オケへ踊りながら歩み入ったくらいか。
だが、肝心の歌唱の問題、彼が気づかぬはずはない。
それにどう処したのかは筆者にはわからなかった。 

さて、このステージから何を読むか。
エンディング、3組の男女の女がそれぞれの相方に小さな髑髏(ランタンとともにすでにダンサーたちが持っていた)を手渡す。
女たちに取り巻かれ地獄へ落ちるドン・ジョヴァンニであれば、プログラムにあるように、森山の意図は「女を弄んだ」でなく「女に囚われた男の末路」。 

実に筆者は、舞台を見ながら時々思ったのだ。
救いようないファザコンのくせ、オッターヴィオにつけた紐を手離さぬ打算女、ドンナ・アンナ。
男なんてちょろいもんよ、的したたか媚び娘、ツェルリーナ。
女たらしに愛想を尽かし切れぬ、母性の化身?エルヴィーラ。
どれも結構な屈強女たちだ。
冒頭でエロスとタナトスと言ったが、いや、女の本性、欲望の炎に自ら呑まれる男の「超絶快感絶叫姿」がここにある(筆者に男の快感はわからぬが)。
実に筆者は、役のキャラ立ち不足と文句言いつつ、これだけの明確な像を結んだわけだ。それが何に由来するのか、はっきりは言えない。
が、井上×森山のこの上演でこそ受け取り得たもの、とだけは思う。
そうしてランゲの描いたモーツァルトの、善悪の彼方、どこを見るともない深遠な眼差しを思い浮かべ、こうべを垂れたのだった。
ああ、モーツァルト! 

あれこれ不満は述べたが、筆者はこの上演を支持する。
私たちは失敗してもどしどし冒険をすべきだし、それができるところに居る(位置・時)のだ。
「世界の口に合う」まで、噛み続けようではないか。 

 (2019/2/15)