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B→C バッハからコンテンポラリーへ 210 佐藤彦大(ピアノ)|西村紗知

B→C バッハからコンテンポラリーへ 210 佐藤彦大(ピアノ)

2019年3月19日 オペラシティ リサイタルホール
Reviewed by 西村紗知 (Sachi Nishimura)
Photos by 大窪道治/写真提供:東京オペラシティ文化財団

<演奏>
ピアノ:佐藤彦大

<曲目>
J.S.バッハ:パルティータ第4番 ニ長調 BWV828
デュティユー:ピアノ・ソナタ(1946〜48)
ミュライユ:別離の鐘、微笑み… ─ オリヴィエ・メシアンの想い出に(1992)
武満 徹:雨の樹 素描Ⅱ ─ オリヴィエ・メシアンの追憶に(1992)
西村 朗:神秘の鐘(2006)
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.36
(アンコール)
西村 朗:星の鏡

 

このコンサートと関係のない話から始めるのを、どうかお許し願いたい。
昔、とあるフランス料理店に行ってコース料理を食べていると、食べながら不思議に思うことがあった。料理ごとの色彩感、具材の配置、ソースの質感などがずいぶん可愛らしく、フランス菓子のように思えたからで、実際後で確認したら、そのシェフは長らくフランス菓子をつくっていたのであって、そこに本懐があると自覚している人物である、ということだった。そのシェフのつくる料理を、なによりデザートから伝わる作り手の幸福を、今でもたまに思い出す。
コンサートが終わった後真っ先に連想したのが、そのシェフのことだ。プログラム最後のラフマニノフのソナタを、観客の拍手が鳴り終わるよりも先に弾き始めたピアニスト・佐藤彦大から醸し出される迫力、そしてその音の濃密さを感じたとき、最初のバッハから不思議に思っていた諸々のことが、一気に解消していくようであった。
真に彼の本懐は、ラフマニノフにあり。プログラムの最後に据えられたラフマニノフのソナタに対する想いが、コース料理の随所に菓子製作のエスプリを効かせるシェフのように、他の作品にも滲みだしていた。佐藤のラフマニノフもまた、忘れることができないものとなるだろう。

他の作品にラフマニノフ的な音が存在する。この事態はコンサートが始まる前に予見されることではあった。今回のプログラム冊子の2頁目に、演奏者からのメッセージとして「『僕のB→C』ではラフマニノフの鐘の音を軸に、更に『鐘』というものをより自由に解釈してみようという発想になりました」とある。さらに、「バッハからデュティユー、現代作品を経由しラフマニノフというプログラム構成には、全く異なる作品たちを、演奏会を通して一つの大きな作品にしてみたいという思いもあります」とも記されている。
つまりこれは、「鐘の音」の名の下に作品を包摂し、あたかもそれらが一つの作品であるかのようにして、演奏会プログラムを成立させるという試みである。
さて、佐藤が奏でる鐘の音はどういうものであったか。

まず、彼の鐘の音の見立ては、コラール的な書法に適用される。幾重にもかさねられた、ダンパーペダルでたっぷり保持される和音のことである。それだから細かいパッセージは、鐘の音とは一見無関係だ。しかしながら佐藤の演奏の姿勢、その極めて安定感のある強靭なタッチからキラキラした音が無尽蔵に繰り出される演奏能力にかかれば、鐘の音の見立てを直接与えられていない音もなお、鐘の音であった。ピアノという楽器自体が、カリヨンであるかのように。
佐藤が受け止めた、ラフマニノフの鐘の音。揺るがしがたく重厚で、仰々しいほど壮麗で、人間を突き動かす、神々しい音響。
しかしこうした鐘の音の性質こそ、その存在の強さゆえに、他の作品の個別性を制圧してしまう。聞きながら違和感を覚えたのはそこだ。
鐘の音は久遠を指し示し、儚さを通り過ぎてゆく。それだから、線で作品の構造を描出すること、音相互の横のつながり故に音楽がドライブすること、こうした音の動きの彫琢に対して、鐘の音は分が悪い。よって、バッハのパルティータ、華やかなフランス序曲風付きの組曲は、一つ一つの音から広がる響きで埋もれる。デュティユーのピアノ・ソナタの第一楽章では、必然的に生じる濁りが、排除されてしまう。
そしてその鐘の音は、明朗であって、病気を知らない。だから陰りやあわいの表現にも、相性が良くない。ミュライユの「別離の鐘」ならまだ、硬質でスタティックな作品であるからよいのだが、武満の「雨の樹」ではどうか。雨の樹の揺らぎに手が届き切らない。
だが、西村の「神秘の鐘」の場合、最後の三番目の楽章である「霧の河」における、クライマックスのアッチェレランドは圧巻であった。左右の手で異なるセットの音型を素早く鳴らし続けるとき、鐘の音が無限に増殖していくようであった。

それにつけても、最後のラフマニノフの美しさ、作品の細部への沈潜、これは鐘の音の明朗な響きのみで語れるものではない。ラフマニノフの作品に対する愛である。作品をいかに演奏するかということについて、人は何か注文をつけることができよう。バッハのパルティータなどは、もっと軽やかに演奏する可能性があったはずだ、などというように。しかし演奏者の抱く、およそ作品に対する愛というものに、口を挟むのは憚られよう。
そこに、「解釈」を拒絶して動じないようなものがあったからだろうか。鐘の音の音響の美しさなどではない、鐘の音の存在の美しさに、ピアニストは本当に触れあっていたのかもしれない。

(2019/4/15)


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西村紗知(Sachi Nishimura)
鳥取県出身。2013年、東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻ピアノ科卒業。のち2016年、東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻美学研究領域修了。修士論文のテーマは、「1960年代を中心としたTh. W・アドルノの音楽美学研究」。研究発表実績に、「音楽作品の「力動性」と「静止性」をめぐるTh. W・アドルノの理論について —— A. ベルク《クラリネットとピアノのための四つの小品》を具体例に——」(第66回美学会全国大会若手研究者フォーラム)、「Th. W・アドルノ『新音楽の哲学』における時間概念の位相 音楽作品における経験と歴史に関して」(2014 年度 美学・藝術論研究会 研究発表会)がある。現在、音楽系の企画編集会社に勤務。