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評論|被爆ピアノと記憶の継承(1)|能登原由美

被爆ピアノと記憶の継承(1)
Hibaku „Atomic“ Piano and War Memoirs

Text by 能登原由美 (Yumi Notohara)
写真提供:広島交響楽団

2020年8月6日。原爆投下から75年という節目の年を迎えたにもかかわらず、世界中がコロナ禍に見舞われた今年は、平和記念式典も例年にないほど規模を縮小しての開催となった。通常なら会場の一角を賑わすはずの、市内の中高生からなる合同吹奏楽団や合唱団も、今年はいない。厳粛な式典の背後で鳴り響く楽の音は、あらかじめ録音されたものであろう。ただ、式典の最後に歌われる《ひろしま平和の歌》だけは生演奏であった。選抜された市内の女子高生4名による歌唱とピアノ。この時に使用されたピアノが、2017年に「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞した際、その授賞式でも使用された「被爆ピアノ」であることは、すでにメディアなどでも紹介されていたi)

この夏、広島ではこの「被爆ピアノ」がいつになく注目を集めた。式典で使用されたピアノだけではない。以前から「明子のピアノ」として広く紹介されてきた被爆ピアノ、その名を冠したピアノ協奏曲の新作初演も話題の一つだ。そして、これら一連のピアノを題材にした映画やドラマの製作、本の出版などが今年に入って相次いでいる。そればかりか、「被爆ギター」の絵本も登場した。数年前に「被爆ヴァイオリン」が一躍話題となったが、今度はギターである。

何故、これほどまでに被爆した楽器が注目を集めるようになったのか。この事実だけを見ても不思議に感じていたが、これらにまつわる話や表現を見聞きするにつれ、そこには被爆から半世紀以上の時の流れとともに、音楽のもつある種の「危うさ」を感じずにはいられなかった。そこで、今月から2回にわたって、この「被爆ピアノ」を取り巻く状況を改めて考えてみたい。

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実は、「被爆ピアノ」に目が向けられるようになったのは、2000年代に入ってからのことだ。ただし、広島平和記念資料館が作成する「平和データベース」ii)を見る限り、1961年にはすでに1台のピアノが「被爆資料」iii)として登録されている。決してここ20年ほどの話ではない。もちろん、毎年様々な被爆資料が持ち込まれる中で、ピアノのような大型の遺品の受け入れが簡単でないことは想像に難くない。他にも、持ち主が資料館への寄贈を希望しながら実現せず、廃棄されたピアノは数多くあっただろう。幸い、こうしたピアノに対して「被爆資料」としての価値、それも単なる展示品としてだけではなく、実際に音を通してその当時の記憶を伝える「伝承者」としての価値を見いだす人々が現れ始めた。それが、今世紀に入ってからのことであったわけだ。もちろんそこには、時間の経過とともに、原爆・戦争体験の風化と継承が問題となっていたことも、何かしら関係があったに違いない。

平和記念式典のあったその日の夜、私はあの「明子のピアノ」を主題にしたというピアノ協奏曲の世界初演を聴きに行った。イギリス在住の作曲家、藤倉大の《ピアノ協奏曲第4番「Akiko’s Piano」》である。広島交響楽団が毎年原爆忌の時期に開催している「平和の夕べ」コンサートがその舞台で、被爆75年目となる今年は、5日と6日の2日間にわたって行われた。同楽団の音楽総監督、下野竜也によるタクトで、ピアノ独奏を務めるのは広島出身のピアニスト、萩原麻未。彼女自身、被爆3世という。同楽団の「平和音楽大使」でもあるマルタ・アルゲリッチのために書かれた曲であることから、当初は彼女がその初演を果たすはずであったが、折からの新型ウィルス流行のために来日できなくなり、代役として萩原に白羽の矢が立ったのだ。

他に、今年生誕250年を迎えたベートーヴェンの「第9」が演奏される予定であったが、こちらも曲目変更となった。代わりに演奏されたのは、ペンデレツキの《ポーランド・レクイム》から〈シャコンヌ〉、そしてマーラーの《亡き子をしのぶ歌》(独唱:藤村実穂子)など。まさに、死者を悼む内容である。

だが、ここでは協奏曲について触れたい。

(筆者撮影)明子のピアノ・側面

舞台中央に設置されたグランド・ピアノの他、上手側に古いアップライト・ピアノ。これが、この協奏曲「Akiko’s Piano」のタイトルにもなっている「明子のピアノ」だ。一見、なんの変哲もないように見えるが、爆風によって突き刺さったガラスの破片など、側面には今なお当時の傷跡が残るiv)。まさに原爆を生き抜いた証として、それらは常に紹介されてきたv)が、その声を聞くには曲末尾のカデンツァまで待たねばならない。

そこに至るまではグランド・ピアノによる演奏である。冒頭から登場するピアノの、ほのかな下降と揺れを伴うフレーズは、明子という存在を暗示しているのであろうか。その音の連なりに何らかのイメージや物語を重ねる必要はないけれども、あまりにも清らかで儚い音の響きに、思わず少女の短い生を見てしまう。とはいえ、生命の終わりを予感させるような描写はここにはない。むしろ、始めから終わりまで、全てが柔らかなベールに覆われた夢の世界にいるようだ。徐々に高まっていくエネルギーの塊に突き動かされるかのごとく、激しい和音がピアノの底を捕らえる。その瞬間だけは、若い命の鼓動に触れたように思えたが…。

オーケストラが徐々に静けさを取り戻すと、萩原が静かに明子のピアノへと移動した。やがて全体が闇に包まれ、スポットライトの当たった明子のピアノと萩原がふわりと浮かび上がった。冒頭とは逆に、上行形のフレーズ。幾分くぐもった音色が時の経過を感じさせるが、萩原の指先がその内部に宿る声の一つ一つの言葉に力を与えていく。次第にそれらは上へ上へと舞い上がり、はるか彼方の上空で溶け出すように消えていった…。

このカデンツァを書くにあたって藤倉は、実際のピアノで音を確かめるべくロンドンからはるばる広島まで足を運び、丸3日間、このピアノと対峙したというvi)。カデンツァで藤倉が描いたのは明子自身の語りであり、あるいは彼女が迎えるはずであった未来の姿であったのかもしれない。

ただ、その美しく透明な響きに心地よさを覚えながらも、どこか虚しさが拭えない。何かが足りない気持ちに私は終始襲われていた。

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持ち主であった河本明子とピアノについては、これまですでに至るところで語られてきた。アメリカで仕事を持っていた両親のもとに生まれ、6歳の時に広島へ移住したこと、その時に持ち帰ったのがこのアメリカのボールドウィン社製のピアノであったこと。そして、19歳の時に広島で被爆し、翌日亡くなったこと…。ピアノだけではなく、彼女が小学校の入学時からつけ始めた膨大な量の日記(広島平和記念資料館所蔵)が、戦時の日常を知るための歴史資料として見いだされたこともある。私自身はこの日記に目を通したわけではないけれども、戦時を生きた少女の日常、とりわけ、ピアノや音楽との関わりを記したその内容が、様々なメディアを通して断片的に紹介され、ドラマにもなっているvii)

(筆者撮影)

主人を失って半世紀以上、静かに眠っていたこのピアノは、被爆の痕跡をとどめたものとして修復され、息を吹き返した。その後、平和活動などで使用されてきたが、ここ数年は、アルゲリッチやピーター・ゼルキンといった世界的巨匠たちによって演奏されたことで、一層注目を浴びるようになった。

藤倉はこの曲を書くにあたり、「明子の個人的な視点に集中して表現した」というviii)。それは、「19歳の普通の少女である明子の視点」であり、「普遍的な主題を伝えるために微視的な視点から進める」のだとも。さらには、世界中で絶え間なく続く戦争や紛争の陰で「この19歳の少女と似た話が起こっている」こと、「どの戦争も『明子』を作り出す」ことに触れている。いわば、原爆や広島といった特定の事象に収斂されない「普遍性」を、明子という存在の中に見いだしたと言えるだろう。もともと、このピアノが「被爆ピアノ」という総称ではなく、「明子のピアノ」という固有名詞で呼ばれていたあたりも、藤倉の心に響いたのかもしれない。

けれども、いやだからこそ、ここには明子がいるようでいて実はいないのではないか。美しくも悲哀に満ちた調べに少女の悲劇を感じつつも、最後まで空疎に思えた理由を考えていくうちに、私はそのことに気づいた。

何故なのか。それは、「普遍性」獲得の代償として、「被爆死」という事実が見えなくなってしまったからではないのか。いや、敢えていうなら、むしろ「見えないように」してしまったのではなかったか。あらゆる戦争の犠牲者を彼女の死によって表す、いわばその死において「象徴させる」のであれば、無論「原爆」という特殊性は後景に押しやる方が良いだろう。だが、この協奏曲で描かれたはずの明子の未来を奪ったもの、彼女に与えた酷たらしい死、原爆という核兵器の開発と使用というその不条理を問わなければ、明子の生は決して語られたことにならない。無論、被爆の惨状を描写すればいいという安直な次元の話ではない。が、一人の少女という「個人的な視点」を見るのであれば、その「死」の意味までをも直視するべきではなかったか。

なお、この協奏曲を聴いた後で、私は藤倉が2003年に書いた、まさに原爆を主題にした楽曲を耳にした。 “Poison Mushroom” と題された、フルートとエレクトロニクスのための作品である。タイトルだけではなく彼自身による解説ix)を読めば、それが広島や長崎の原爆を想定していることは明らかだ。一方で、ここには特定の個人に対する言及はない。にも関わらず、胸に迫る力は圧倒的なのだが、それについては、また別の機会に持ち越そう。

こうして、明子とそのピアノは戦争により未来を奪われた一人の少女を象徴するものとして、いよいよ世界に向けて歩き始めたようだ。あるいは、このコンサートのタイトル“Music for Peace”にもあるように、「平和」への希求が込められた存在として、その音はこれからも聴かれ続けるに違いない。けれども、「戦争の犠牲者」、あるいは「平和」という概念は、あらゆるものを包み込むだけに細部を見えなくする。とりわけ、響きが美しければ美しいほど、我々の耳が容易に惑わされてしまうことは、これまでの歴史が教えてくれたではないか。これらの点も含めて、次回は別の事象、視点から改めて考えてみたい。

(2020/9/15)

i) 『毎日新聞』2020年7月23日付。また、今年の広島平和記念式典の様子は、RCCテレビ公式YOU TUBEにて視聴することができる。なお、本稿で示したURLはいずれも、2020年9月7日時点のもの。

ii) http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/search/col_bombed

iii) 同データベースでは、この「被爆資料」について、「原爆の犠牲になった方が身につけていた服や時計、熱線で焼けた瓦、火災で溶けて変形したガラスびんや茶碗、硬貨のかたまりなど、被爆の惨状を伝える資料」と定義している。

iv) 「明子のピアノ」は、通常は広島平和記念公園内にあるレストハウスに展示されている。

v) 以下、河本明子とそのピアノについては、当ピアノを管理するともに、この楽器と明子の生涯などを紹介する活動を続けている一般社団法人「HOPEプロジェクト」のサイトを参照。また、『中国新聞』が2020年4月から8月にかけて計13回にわたって連載した「平和を奏でる明子さんのピアノ」では、彼女の残した日記から音楽との関わりを辿るとともに、藤倉、萩原、下野へのインタビューも掲載している。

vi) 中村真人『明子のピアノ』(岩波書店、2020年)60頁。なお、本書には、明子の生涯のほか、アルゲリッチなど世界的奏者とピアノとの関わりや、この協奏曲の作曲の経緯が詳しく書かれている。

vii) NHK製作《Akiko’s Piano〜被爆したピアノが奏でる和音(おと)〜》(2020年8月15日放送)。この番組では、明子の日記をもとに一部フィクションも交えながら当時を再現するとともに、この協奏曲の初演について、藤倉や萩原へのインタビューとともにその様子を映像化している。

viii) 以下、藤倉の発言については、「広島交響楽団 被爆75年2020『平和の夕べ』コンサート~Music for Peace~」(2020年8月5 ・6日 広島文化学園HBGホール)プログラム・ノートより引用。

ix) 藤倉の公式ウェブサイトの作品リストより。楽曲も、ここで聴くことができる。

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