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鈴木治行 室内楽パノラマ~誤作動する記憶~|西村紗知

鈴木治行 室内楽パノラマ~誤作動する記憶~
Haruyuki Suzuki \ Chamber Music PANORAMA – Memory to malfunction –

2020年12月16日 東京オペラシティ リサイタルホール
2020/12/16  Tokyo Opera City Recital Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 石塚潤一

<演奏>        →foreign language
梶原一紘(フルート)
岩瀬龍太(クラリネット)
大田智美(アコーディオン)
川村恵里佳(ピアノ)
亀井庸州(ヴァイオリン)
北嶋愛季(チェロ)
佐藤洋嗣(コントラバス)
山田岳(ギター、指揮)

<プログラム>
鈴木治行
:Is This C’s Song?(2006)*編曲作品
:浸透―浮遊(1998)
:Elastic(2015)*東京初演
:Orbital(2005/2020)*改訂初演
:沈殿―漂着(2003)
:Astorotsa(2001)
:句読点X(2015)
:Seagram(2020)*世界初演

※アンコール
鈴木治行
:PANORAMA
:H/STORY

 

まずは、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの三重奏。
〈Is This C’s Song?〉は、チャップリンの楽曲〈This Is My Song〉の編曲作品。ただし、原曲を奏でるその合間に、急にチューンの違う断片が挿入される。次第に、その断片はだんだん長くなり、テンポやアンサンブルの関係性が変わっていく。ヴァイオリンが主旋律を奏でチェロがピチカートで伴奏する、しかし間もなくピアノの唐突なカットインによって音楽は妨げられる、といったように。反対に、ヴァイオリンとチェロがピアノに対し妨害を行うこともある。その妨害に、演奏者3人とも、不快感を示すなどして演劇的になることはない。それはこの新たなノイズ交じりの持続にとって外的なものだからだろうか。
3人とも型通りの表現Ausdruckを実現すればよいのである。表現の標本をつくるが如く。
あるいはまた、作品全体が、息の長い、巨大でプンクトの訪れない構文のようであった。「;」はあるだろう。演奏者の身振り全体が、構文を構成する要素となって、作品に組み込まれていく。

筋道だった語りを伴いつつも、感情移入は禁じられている。随所に「~してはならない」という但し書きが耳から入ってくる。夢見ることを幾度禁じられても、どこまでも夢である。
〈浸透―浮遊〉。環境音、フルート、ギター、コントラバス、ピアノ、そして作曲家本人による語り。鳥のさざめく環境音と楽器の繊細で妙なるアンサンブル。気だるい表現主義。まもなく語りが始まる。「あの日……」。前景の楽器はすぐに交代する。いずれも断片的で、その交代もあいまって、光彩の揺らぎのようである。間もなく、環境音のなかに電車の音が混じる。「あの日、私はひとり、列車の中にいた。この世界に入り込めない」。そして、演奏者4人による演劇パートが挿入される。「Cからもう一度」など、リハーサルのようなことをはじめ、作品内部の緊張は一旦解かれる。「誰かが車窓を叩き、その向こうにぼんやりと、大きく一つの顔が浮かんだ。この男は誰なのか」。次は、楽器なしで独白、「あの日、私は街角に佇んでいた……」。語りの背後で、4人の縦の線のきっちり揃った、合奏らしい合奏がはじまる。この長い合奏が一段落すると、演奏者はまたチューニングからはじめる。「今、私の前の扉の向こうに、男がいる。あの人のことなど、少しも愛していません、と私は言った。……私の手足を切断した」。このあと、踏切の音が入る。この踏切の音に、演奏者がそれぞれ嬰ハ音を重ねる。これらは加速したり歪んだりする。たちまち音量は小さく、環境音は虫の声。「お願い、あなた、出て行ってください、と私は言った……今、音楽がはじまる」。そうして始まる「音楽」は、おぼつかない同音連打である。おもむろに幕引き。
妙な感想だが、プルーストだったらこういう事柄をどう記述するのだろう。

壊れそうなことが良いことである。〈Elastic〉。はじめヴァイオリンとアコーディオンの和音との交代が反復。フルートのフラッターの低めの音も混じる。3人のこれらの長音の組み合わせは次第に変わっていく。唐突な3人のユニゾンでカットイン。すると、最初と同じように長音を重ねて和音をつくったりするものの、音が変わる。こんな次第で、銘々長音ではない、アコーディオンならずいぶんメロディアスな断片などを挟み込んだりするが、油断すると全体のコード感が変わっていたりする。ヴァイオリンとフルートがメインになる。アコーディオンはクラスター。またユニゾンのメロディアスで能天気なカットイン……。最後は松葉形のクレッシェンド・ディミニエンドでおしまい。

〈Orbital〉。演奏者3人が絶えずすれ違うアンサンブルで、これまでのなかだと最も複雑に聞こえる。GisからH辺りの音をチェロとクラリネットが飛び飛びに発する。クラリネットのHかBの幅の広いビブラートが印象的。ピアノの断片が入ると音楽が急に前にドライブし出して、スラーのかかった跳ねた音型が目立ってくる。またクラリネットのビブラートに戻る。チェロが駒近く弾いたりもする。これが呼び水となってピアノもまたヒステリックにffで和音。
動機労作のようなものに感じた。ただし、その順序はきわめて可変的で、動機のつながりがストーリーを紡ぐことはない。組み合わせと順番は、予想されることはない。音楽の時間はどんどん経過していくのに、自分の過去の音響がひたすら更新されていき、新たな記憶ができあがっていくのではなく、記憶がどんどん改竄されていく。時間は過去へ過去へと進んでいく。
だが、記憶の改変されていく体験が大事なのだと思っていても、セリエルな感じに聞こえたり、ロンド形式のように思えてしまうものだ。別に古い聴取を頼りたいわけでもない。耳が勝手にそうなってしまうから、もっと記憶が改変されたいのにと欲しても、如何ともならず、もどかしい。

〈沈殿―漂着〉。この日の前半の〈浸透―浮遊〉よりも、一層禁止事項が増える。感情移入や音楽への没入はよりストイックに禁止されている。それは、語りが随伴する音楽に対して言及するから。
フルートのGis-D-Cis-Fのソロから始まる。すぐにギターも従う。語りもはじまる。また表現主義的なテクストが読み上げられていくのかと思っていたら、「上下する音階が、交互に受け継がれていく」と、共に鳴っている器楽音を実況し始める。しかし、これが心情の比喩なのか、音楽の説明なのか、わからなくなっていく。あるいは、器楽音の方が、語りの説明なのか、と。こうして、音楽作品という概念は消える。作品を構成する出来事が、音と心情の両端へと分裂するようだからだ。フルートのフラッター音の持続が続く。ここに電子音の持続も加わってくる。「陽光は遠く、世界は更に遠い」。アタッカで、波の音とギターのソロに接続される。しかしここでもまた語りは音楽を説明しようとする「……ではこのギターは、一体どんな海のイメージを提示しているのか」。のち、またチューニング。せわしないアンサンブル。語りのソロ。キーンとする電子音。パウゼ。単音ずつ同音のフルートとギターの掛け合い。語りは予言する「フルートは電子音に同調し、ロングトーンを吹き始める……」。ギターと語りが同期する。その後予言通りに電子音とフルートがクレッシェンドを始める。波の音を背後に語りが説明する「言葉を注釈として捉えると、いつか、音と註との間のずれに、はぐらかされる」。フルートソロと電子音。語りののち、電子音が虚空に消えていって終わり。

〈Astorotsa〉。ピアソラの語法がバグを来す。回線の遅いインターネットのようで、ユーモラスかつグロテスクなピアソラ。下降線を辿るような、たどたどしい3人の合奏からはじまる。このままどんどん3人はたどたどしくなっていく。コントラバスは側面を叩くが、音頭を取るというのでもなく、宙に浮いてしまっている。その間、ヴァイオリンとアコーディオン2人で旋律を跡形もなく解体していく。万事こうした具合で、調子よくアッチェラランドがかかったのは、本当に最後だけだった。

 

〈句読点X〉。この日唯一のソロ。Gisからはじまる長いトリル。高音Fisの挿入。この繰り返しでところどころに即興的な断片が入る。ところで演奏者の横の椅子の上にはタイマーが置いてあり、演奏途中で鳴ってしまう。これを止めて、また演奏が始まる。指をパカパカさせる音。ハーモニクスもやる。またタイマーが鳴る。息の音も。ソロだと、記憶の改竄がうまく生じない。手順的に思えてしまうからだ。やっていないことをやるようにして順に音を鳴らしていく、というように聞こえる。

 

〈Seagram〉。狭い音域からなる和音、これと同じものが繰り返し鳴り響くが、繰り返されるそのたびに、どの楽器が同時に鳴るかは変更されている。こうしたずれが作品全体の形式になっていく。つまり、同時が契機的になっていく。最初は一つの和音だったものが、3つの群に分かれ、コントラバスのピチカートが単独で刻み始める。作品の部分部分が、それぞれ終止形でできているような感覚。分かれた和音はまた同時に戻る。するとフルートの高音のFが目立つ別のフェーズに突入する。ここではアコーディオンのビブラートが独立している。ヴァイオリンのピチカートが離脱する。また油断していると全体の音調が変わっている。トゥッティでクレッシェンド。するとまた別フェーズに切り替わり、これが終盤にふさわしく最も劇的な響き。フルートの高音はB。ピアノとクラリネットのトリルが耳に残る。弦は幅の広いビブラート。アコーディオンとフルートの息の音も加わる。
最後はa-mollの主和音に似た響きが聞こえてきて終わり。

 

本編はここまで。アンコールは来場者にのみ、鈴木が手掛けた映画音楽2作品が披露された。
なんて素敵な音楽なんだろう、と素直に聞き入ってしまった。いや、それでなにも間違いないはずなのだが、聞き入ってしまった、と思い、はっとした。
一度、音楽的時間を疑う経験をした耳は、元の耳に戻ることはない。
どうやら、かなりおそろしい経験をしたようである。

(2021/1/15)

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<Artists>
Kazuhiro Kajihara(fl)
Ryuta Iwase(cl)
Tomomi Ota(acc)
Erika Kawamura(pf)
Yoshu Kamei (vn)
Aki Kitajima(vc)
Yoji Sato (cb)
Gaku Yamada(gt, cond)

<Program>
Haruyuki Suzuki
:Is This C’s Song?(2006)* arrangement
: Osmosis – floating (1998)
:Elastic(2015)*Tokyo Premiere
:Orbital(2005/2020)* revised ver.
: Precipitation – wreckage (2003)
:Astorotsa(2001)
: Punctuation X(2015)
:Seagram(2020)* World Premiere

※Encore
Haruyuki Suzuki
:PANORAMA
:H/STORY