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《ゴルトベルク変奏曲》2017 ピーター・ゼルキン|谷口昭弘

トリフォニーホール グレイト・ピアニスト・シリーズ2017/18
《ゴルトベルク変奏曲》2017
ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル

2017年8月1日 すみだトリフォニーホール
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
ピーター・ゼルキン(ピアノ)

<曲目>
モーツァルト:アダージョ ロ短調 K. 540
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17 (16) 番 変ロ長調 K. 570
(休憩)
バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988

 

今回の公演はすみだトリフォニーホールの《ゴルトベルク変奏曲》シリーズの一貫であるが、ゼルキンもこの鍵盤楽器の名曲を幾度となく録音し、近々新録音も発売予定ときいた。彼にとってのライフワークともいえる作品をメインに据えたという意味でも、注目したくなるコンサートではなかっただろうか。

そんなコンサートの前半はモーツアルト作品2つ。異様な緊張感が舞台にあった。しっとりとした雫が落ちる冒頭、そして重い重量感から始まるロ短調のアダージョは、ソナタ形式の構築性よりも、調の移り変わりから作品の性格を決定づけるドラマが生み出され、一音一音の方向性を聴き手も追体験するように聴き入った。そしてゼルキンは、自問する音符のジェスチャーそのものの意味を確かめるように進め、沈黙の中へと聴衆を誘っていった。
曲の終わりに立たず、そのまま次のソナタへ。ここで前作品と性格の異なるソナタに気持ちをどのように切り替えていくのか注目していたのだが、結局ゼルキンは、息を呑むような静寂のまま、ゆっくりと第1楽章を弾き始めていった。テンポも柔軟に、豊かな残響の中で戯れがそこから展開されていく。第2楽章に至っては、緩徐楽章の安らぎに浸る瞬間よりも、音が少なくむき出しになっている作品のテクスチュアに恐ろしさを感ずる時間が長く感じられた。しかし後半部分には、ゆったりとしたアルペジオに乗せて切々と旋律を紡いでいく時間も確かにあった。第3楽章もそうだが、ゼルキンのこのソナタの演奏には、その場で作り上げられている臨場感があり、彼の音楽づくりにとことん向き合っていきたい、付いて行きたい、それがここまでのできごとだった。またとにかく眼前に生まれる音に立ち向かっていったゼルキンの姿も記憶に残った。

前半の緊迫感から後半のプログラムはどうなるのかと心配していたが、《ゴルトベルク変奏曲》のアリアに聴く優しい音の動きに自然な呼吸を感じ、即興的な装飾に安堵感を持った。続く変奏についても、繰り返しをする・しないは一貫させず、自由なアクセント付けやアゴーギクなど、何が起こるか予知できないところがかえって面白かった。例えば第2変奏は、左手のかっちとしたリズムを基調として、ゼルキンが自らの感覚で様々なフレーズを取り上げて聴かせ、第10 変奏では、やはり確かな拍節感の中で新しく入る声部を明確にし、光を加えながら積み上がる音の楽しみを演出する。一方第3変奏・第6変奏は流れ出る音感覚を前面に出し、第6変奏ではそれによって生まれる単音のぶつかり合いを表面化していた。前半の最後となる第15変奏では、センチメンタルに陥らず、複雑に絡み合う線と線を縫い合わせ、パンチの効いたフランス序曲の第16変奏と対比させていた。その第16変奏だが、力強く気品ある対位法を優雅に展開し、物語の次の章の始まりを感じさせた。その後は、迷いの世界に紛れ込んだ半音階を優雅に味わい深く、内面にぐっと入り込んでいく第25変奏から、すこしずつ聴き手を前向きな音の世界へと運ぶ第26変奏、エネルギーを増しながらピアノのオーケストレーションが豊かになる第28変奏、さらにファンファーレから大団円の第30変奏へという流れがひとつづきになり、ゼルキンの弾くピアノへと体が思わず乗り出す感覚さえあった。
そして宴の終わりの余韻を奏でるアリア・ダ・カーポが弾き終えられた後、ホール全体は長い静寂に包み込まれた。ああ、なんと素晴らしく心に響く静寂だっただろう! ゼルキンの音楽世界を、かくも多くの人が内面化していたのか。その後に少しずつ膨れていった万雷の拍手とともに、この夏、他に類がない演奏家に出会ったことを記憶にとどめた。

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