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folios critiques③|隠れ家の看板|船山隆

folios critiques③

隠れ家の看板

text by 船山隆(Takashi Funayama)

皆様ご存じのように、ピエール・ブーレーズの逝去に伴い、丘山万里子編集長からの依頼で急遽第2回をブーレーズの追悼文に変えました。
考えてみますと、友人の作曲家たちが次々とこの世を去っていきます。私は体調の不良から告別式にも偲ぶ会にも出席できず、いわんや追悼文を執筆することがほとんど叶わないのが現状です。今年没後20年を迎える柴田南雄、武満徹などについては追悼文を執筆できました。しかし、三善晃、諸井誠、黛敏郎、芥川也寸志、團 伊玖磨など、多くの教えを受けた人々については、ほとんど何も書くことができませんでした。私はこれらの作曲家からいくつかの貴重な私信もいただいており、山形の書斎でそれらの書簡を見る度に心が痛みます。
石井眞木(1936年~2003年)は、私が<東京の夏音楽祭>などを江戸京子とともに創始した友人というよりも、盟友でありました。石井の葬儀には出ることができましたが、追悼文の執筆はかないませんでした。
昨年11月22日オーケストラ・ニッポニカのレクチャーコンサート<芥川也寸志を語る会>でアマチュア・オーケストラの人々と、親しく語り合う機会がありました。メンバーの奥平一氏や加藤のぞみ女史によると、私はオーケストラ・ニッポニカが主催した石井眞木の没後10年のメモリアルコンサート(2013年7月14日、紀尾井ホール)のために、追悼文を執筆したといいます。私は大腿骨頭部骨折のために演奏会には出席できず、そのことを忘れていました。年末にオーケストラから当時のパンフレットが送られてきて、大変立派なコンサートであったことがわかりました。プログラムは、石井の『交響的協奏曲』、陳明志の『御風飛舞』、石井の『ブラック・インテンションⅠ』、伊福部昭の『交響譚詩』、石井の『打楽器とオーケストラのためのアフロ・コンチェルト』という意欲的なものです。
石井眞木の長男Kei Ishiiは、プログラムに次のような文章を寄せています。
「10年前、私の父の死のすぐ後に、私はオーケストラ・ニッポニカと出会いました。その時私は、中国でそのオーケストラが父と一緒にコンサートを行うという父の計画を知りました。このオーケストラが私の父のコンサートの計画を実行しようとしていることに、私は驚きました。北京で2004年10月に行われたコンサートは大成功でした。オーケストラ・ニッポニカと関わった音楽家の皆様に大変感謝しています。」
なんという素晴らしい演奏会の企画だったでしょうか。プロのオーケストラ集団は、ことあるごとに財政難について口を酸っぱくして語るのが常ですが、アマチュアの音楽家たちは手弁当で極めて意欲的な企画に取り組んでいるわけですね。私は今アマチュア問題にも興味をもち、いくつかのアマチュアの合唱団の水準の高い音楽会にも出かけており、近日中に音楽界におけるプロ・アマ問題について論じてみたいと思っています。
今回は、親友石井眞木への追悼の意味を込めて、このアマチュア・オーケストラのパンフレットに寄稿した「男の隠れ家」という短文を再掲載しておきたいと思います。石井が岐阜県郡上郡八幡町に隠れ家を持っていたことは、あまり知られていないと思います。

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kaguyahime『輝夜姫(かぐやひめ)』は、後期の石井眞木の代表作である。まず1984年に邦楽器のための交響的組曲として発表され、バレエ・ヴァージョンは、1985年にスター・ダンサーズ・バレエ団によって、1988年にネザーランド・ダンス・テアター・バレエ団によって再演され、以後オランダ、ドイツ、フランス、日本で何度も上演され続けた。東京での公演をみそこなった私は、石井に話すと、名古屋での公演を見にくるようにとのお誘い。ステージは、評判とおりにすばらしいものだった。

終演後は、素敵なプリマに会いに行こうということで、名古屋の駅前でレンタカーを借り、ダンサーの待つホテルに向かう。しかしホテルはとても遠く、石井の運転は、見知らない町を走るのとは、まったく異なり、馴染みの道を猛スピードで走り抜けていく。そう、石井は人を騙すのが大好きな人間だった。2時間後に到着したのは、ダンサーとまったく無関係な、岐阜県郡上郡八幡町であった。石井は、この町中に水路の張り巡らされた美しい水の町に、ベルリンと東京の間の時差をとるために、ひそかに男の隠れ家を造っていたのである。

日本家屋の正面玄関入り口には、大きな看板が掲げられ、そこには、「流響」の二文字がくっきりと彫り込まれていた。石井は、この水と郡上踊の町の総合文化センターのこけら落としのために、交響的祝典曲『流響』を作曲していたのである。

「流れゆく響き」というのは、石井眞木の音楽詩学の核心に他ならない。石井の作品表のなかで、「響」という漢字を使っているのは、『響応』『響層』『紫響』『失われた響き』『テトラトーンの響き』『音響詩』『響きの表象』など多数にのぼっている。もともと漢字の「響」は、「空気と風にのって流れる音」を意味していたという。

石井の「流響」の音楽は、ある時は静かな高原の秋のかすかな風にのり、またある時はたけり狂う暴風のなかで、繰りひろげられるのである。大胆さと繊細さが、矛盾無く同居している。男の隠れ家の「流響」の二文字は、石井の美学の本質を露呈していると言ってよいだろう。石井が裏の畑で丹精こめて作った野菜を中心にした朝食も、繊細にして豪快な男の料理だった。

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船山隆(Takashi Funayama)
福島県郡山生まれ。東京藝大卒、パリ第8大学博士コース中退。1984年より東京藝大教授、2009年同名誉教授。2014年より郡山フロンティア大使。1985年『ストラヴィンスキー』でサントリー学芸賞受賞。1986年芸術選奨文部大臣新人賞受賞。1988年仏の芸術文化勲章シュヴァリエ受賞。1991年有馬賞受賞。東京の夏音楽祭、津山国際総合音楽祭、武満徹パリ響きの海音楽祭などの音楽監督をつとめる。日本フィルハーモニー交響楽団理事、サントリー音楽財団理事、京都賞選考委員、高松宮妃殿下世界文化賞選考委員を歴任。