Menu

現代の音楽展2018第1夜 世界に開く窓 岡静代クラリネットリサイタル|齋藤俊夫

現代の音楽展2018第1夜
世界で活躍する日本人音楽家シリーズvol.4 世界に開く窓
岡静代クラリネットリサイタル

2018年1月12日 東京オペラシティリサイタルホール
Reviewed by 齋藤俊夫 (Toshio Saito)
写真提供:日本現代音楽協会

<演奏>
クラリネット、バス・クラリネット(+):岡静代(全曲を演奏)
ヴァイオリン:ヨハネス・ブルーメンルーター(*)
ピアノ:宮路なつの(**)

<曲目>
ヘルムート・ラッヘンマン:『Dal niente』(1970)
ヨハネス:シェルホルン:『a self-same-song』(2010、日本初演)(+)
近藤譲:『”接骨木(にわとこ)の新芽”からの3つの歌』(1992、日本初演)
山本裕之:『楔を打てど、霧は晴れず』(2006年、東京初演)(**)
アルベルト・ポサダス:『Sínolon』(2000、日本初演)
渡辺俊哉:『あわいの色彩I』(2017、世界初演)(*)(**)
福井とも子:『doublet~vn,bass cl version』(2010/改訂2017、改訂版初演)(+)(*)
(アンコール)
ヨハネス・ブルーメンルーター:『ア・ラッキー・デイ・イン・トーキョータウン』(+)(*)
ヨハネス・シェルホルン:『ラヴェルへのオマージュ』(*)(**)

 

今回の「現代の音楽展2018第1夜」は、1998年からドイツの現代音楽集団アンサンブル・ルシェルシュのクラリネット奏者として世界的に活躍し続けている岡静代を招いて、日本初演、世界初演作品を並べるという意欲的な企画。未知なる出会いを期待して足を運んだ。

プログラム始めは岡が厚い信頼を得ている音楽的異化の巨匠ラッヘンマンのクラリネットソロ作品であったが、これがどこをどう切っても実にラッヘンマンらしい作品。
アンブシュアを弱めて吹くサブ・トーン、キーを強打する、重音奏法、リードを震わせずに楽器に息を吹き込む、楽器をくわえたまま大きく息を吸う、子音を同時に発音しながら奏する、強烈な「パチッ」という破裂音を出す(これはどうやって出したのかわからなかった)、まだ他にもあったかもしれないが、少なくともこれだけの特殊奏法が延々と続く。クラリネットにクラリネットでないような音を出させしむる、すなわちラッヘンマン的異化を目の当たりにできた。
しかしさらにラッヘンマンならではなのは、このように特殊奏法のオンパレードでありながら、その音の連続が音楽作品としての構築性を持ち合わせていたことである。

シェルホルンは1962年ドイツ出身の作曲家。本作はガーシュウィンの『a Foggy Day』を元にしているそうだが、その本歌は聴いていてわからなかった。しかし、バス・クラリネットをバリトン・サックスのように割れた音やグリッサンドで猛々しく吹き鳴らし、アクセント有りとアクセント無しの音の差を著しく強調して超高速で駆け巡る音楽は実にグルーヴィー。一気に終曲まで突っ走ってくれた。

日本人作曲家1人目は近藤譲。もともとソプラノのための3曲からなる歌曲をクラリネットソロに編曲したものである。普通の奏法による太い音と、サブ・トーンの細い音を細かく吹き分け、複数の旋律を幾重にも重ね合わせたかのような不思議、あるいは不気味な音楽。フォルテでのグリッサンドや、声を出しながらの重音奏法なども用いられるのだが、音楽が動いているのか止まっているのかわからなくなる、これも実に近藤らしい作品であった。

山本裕之作品は4分音のクラリネットと普通の調律のピアノを合奏させると何故かピアノの調律が狂って聴こえてくるという現象を発見・利用した作品。イントロの時点で2つの楽器のユニゾンにならないユニゾンの「ずれ」がたまらなく刺激的である。序盤は反復を主とした単純な音組織であるが、この「ずれ」を堪能するためにはそれでよい。むしろ、曲が進んで音型や奏法が複雑になっていくにつれて、「ずれ」がはっきりしなくなってきて音楽的個性は薄まってしまった感があった。しかし、現在まで続いている山本の「輪郭主義」シリーズの端緒を開いた作品だけあって、非凡な音楽的楽しみに満ちていた。

ポサダスは1967年スペイン生まれの作曲家。プログラムに「演奏家にたいへん高度な技巧と、頑強な精神、体力を求める作品です」と自身で書いているが、演奏家への負担は「たいへん高度」どころのものではなかった。重音奏法と微分音とグリッサンドとトレモロを「同時に」吹き鳴らし、旋律(らしき波状の音型)を奏でるのである。どうしてこんな超絶技巧が可能なのか、と唖然としてしまった。岡静代改めて恐るべし。

渡辺俊哉作品には目立つ特殊奏法や超絶技巧はなかったが、良い「耳」を要求するという点では今回屈指の作品。クラリネット、ピアノ、ヴァイオリンが静かな合奏をするときの、その音と音の「あわい」になにかがあり、そこに耳をそばだてさせられる。また「音の距離」の繊細なニュアンスにも感じ入った。3人の音がそれぞれ近づき、遠ざかり、また演奏者と聴衆との距離もまた近づき、遠ざかる。奇を衒うところは全く無い、豊かな音楽であった。

プログラム最後は今回の演奏会の制作も担当した福井とも子の作品。イントロの音をあえて擬音で表現すれば「ギョ!ギェ!ギョ!ギェ!」バスクラリネットとヴァイオリンが尋常ではない割れた轟音を同時に奏したのにのけぞった。そして2人が丁々発止のやり取りを繰り広げる。フリージャズの即興のような部分もあれば、ロングトーンの呼び交わしを聴かせる部分もあれば、イントロと同じくギュイギュイと轟音を響かせる部分もある。最後は2人で静かに消えていったが、実に自由な音楽。
筆者はこの作品は非クラシック音楽に学んだ所が大きいのではないかと推測したが、しかし凡百の「ポピュラー音楽と前衛音楽を融合した」などと喧伝している音楽とは全く異なった、「真の現代音楽」であった。

そしていたずら心に満ちたアンコール小品2曲で終演。現代にこれほどの超絶技巧の持ち主と、その技巧を十全に生かせることができる作曲家たちがまだこれだけいることが確認できて真に嬉しかった。

 (2018/2/15)