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エンヴェロープ弦楽四重奏団 ベートーヴェン2020 第2回公演|小石かつら

エンヴェロープ弦楽四重奏団
ベートーヴェン2020 第2回公演(演奏曲目は第1回プログラム)
Envelope String Quartet
Beethoven 2020 Vol.2 (Program Vol.1)

2020年6月28日(日) 17時 カフェ・モンタージュ
2020/6/28 Cafe Montage
ブロードキャスト配信
Broadcasting

Text by 小石かつら(Katsura KOISHI)
画像は主催者のnoteより引用

〈曲目〉
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第1番 へ長調 op.18-1
ブラームス:弦楽四重奏曲 第1番 ハ短調 op.51-1
Beethoven: String Quartet No.1 F-Dur op.18-1
Brahms: String Quartet No.1 c-moll op. 51-1

 

配信される演奏会を本気で聴くのは、実のところ初めてである。もっと踏み込むと、この日のためにとっておいた。いやもちろん、「本気」でなければ、ある。けれどもそれは、検索していてたまたま引っかかった動画をパソコンの画面で見るとかいう類のものであって、今回のように、日時が決まっている、その時限りの「演奏会」を、(少額とはいえ)お金を払って鑑賞するのは、初めての体験だ。しかも、会場にも鑑賞者がいる「ライヴ配信」である。(厳密には当日に限り追視聴ができる。)
せいいっぱいの環境設定として、パソコンをテレビにつないで画面を拡大し、スピーカーにつないで音響を最適にし、背もたれ付きの大きな椅子を正面に配置して、と、入念に準備をした。待っているあいだずっと、演奏会は「場」があってこそのもので、「場」の無いもの(スピーカーから流れる音響)など、そもそも演奏会で(も音楽でも)ないのだ、という思いが頭を支配する。しかも、実験的とはいえ世間ではもう「演奏会」を再開していて、今、この時点で「配信」など必要ない。それに今日は、会場に行くことだってできるのだ。今回の催しは、京都と隣接する府県からの来場も受け付けている。私が自粛する必要はどこにもないのだ。それなのに何故、私は配信を受けるべく準備しているのか。
好奇心だろうな、とも思う。コロナ後、配信は一般的になるという人もいる。でも私は全身全霊の期待をこめて、「今だけのもの」だと信じている。「この渦中」でなければ体験できないものを体験したい。この動機の不純さには申し訳ない気持ち。

ともあれ、コロナ禍を背景に、配信を体験し批評を書くということになった。筋書きとしては、「いろいろ社会的な制約や問題があるとはいえ、演奏も音質も想像以上に良かった、しかも想定外のすばらしい発見もあった」という予定調和になるのだろう。(実のところ 、正真正銘、その通りだった。)しかし、その、まったくおもしろくもない「筋書き」における、最後の「想定外」が、「想定外」という枠を遥かに超えたものだったのだ。配信が終わってもうずいぶん経つというのに、私の感覚は半ば麻痺して、突きつけられた問題に覆われ続けているのだ。

今回の配信に「仕込まれた問い」について書くために、まず、この催しの概略を記そう。

演奏会は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を1曲ずつ、他の作曲家の作品と組み合わせて上演する全17回のシリーズである。各回の曲目の組み合わせのセンスは極上。厳重な感染症対策に、生命力あふれる空気を送り込んでくる。どんなに厚い雲の上にも太陽が輝いているというような、凛とした力で、存在感を放っているのだ。それが音になる会場(主催)は、カフェ・モンタージュ。京都の御所の近くにある、カフェの体裁をした小さな劇場だ。このシリーズは会員制で、会員費によって運営される。5月下旬に発足し、約2週間で公演の実現が決まった。各回の日時は決定次第会員に通知される仕組みで、公演キャンセルはしない方針とのこと。演奏する「エンヴェロープ四重奏団」は公演のたびに奏者交代が行われ、メンバーは公表されない。公演の模様はストリーミング配信されるが、音声のみで映像の配信は無い。感染対策は万全。会場定員は20人に制限され、演奏者、聴き手とも、京都および隣接府県在住者に限られ、来場のための経路確認もなされる。私語厳禁。

どこをとっても完璧としか言いようがないが、特別なのは、演奏者が公表されないことだ。誰が演奏しているのかわからないのである。しかしここで重要なのは、このシリーズが会員制であり、不特定多数への発信ではないことである。つまり、聴き手側からは「弾いているのが誰か」わからないのに対し、主催者側は、「聴いているのが誰か」わかっている。そして実は、聴き手側も、演奏者が誰だかが、まったくわからないのではなく、「主催者が声をかけそうな範囲の誰か」であることが想像できているのである。(会場に居る聴者は、演奏者が誰だかわかる。)

ここに私は、18世紀末、それまで教会や宮廷を「場」としていた「演奏」が、コンサートホールという専用の「場」でなされるようになった頃、その後の演奏会のモデルとなっていくことになる、ドイツのライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会との類似性を感じる。ゲヴァントハウスの演奏会では長い間、作品名がプログラムに書かれなかった。例えば協奏曲の場合、ソリストと楽器名と作曲者は書かれるが、何の曲かは書かれない。書かずともそこにいる人には自明であったか、なんとなくわかっていたか、もしくは、作品を特定することが関心の対象外だったか、だろう。弦楽四重奏曲の場合は、作曲者名だけが記され、どの曲かも、演奏者も、書かれなかった。乱暴にまとめれば、協奏曲を聴くとき、聴者は演奏者と向き合った。弦楽四重奏曲のときは、作曲家と向き合った。そして同時に、書かれていない事柄たちについても、「なんとなく」共有していた。

今回の配信は、4本の木の絵が画面に映されて、その絵と共に演奏と向き合うスタイルだった。ウィルスや、他人の目や、静かな圧力といった、見えない力にたいする恐怖や不信感、そして無関心に、今、私たちは完全包囲されている。こういった匿名は、暴力となる。人類初の、大量破壊兵器による無差別殺人が実行された第一次世界大戦を経て、ラジオ放送による「不特定多数」に向けた音楽の配信が始まった。そのとき、聴者の側からは演奏者を「情報として」知るが、演奏者の側から聴者を見れば、聴者は匿名の存在(聴衆)となった。YouTubeによる演奏の配信は、「放送」の簡易版、模倣であると言われるが、実は、「完全な匿名ではない」という点で放送とは異なるのだ。

「情報の伝達」ならば、「オンライン」でよいだろう。けれども、小・中・高等学校の学び、大学での講義や実習は「情報の伝達」や「専門知識の教授」だけではない。「場」を共有する人同士が醸し出すものだ。音楽なんか、書くまでもなく、その最たる存在である。

「配信」という「場」は、人と共有しない。ただ1人で画面に向き合う。しかしそれが、自分の内にいる人との「場」の共有を問うとき、そこに必要な「情報」は何か。その問いを受けたとき、「演奏者が誰か」という情報は取り払われたのである。主催者のコンセプトと発信される日時と場所と作曲家と作品名。それらを知った上で、作品と、演奏だけで対峙する。その、豊かな時間。

これは、会員制の配信にしか可能ではない、いまだかつて、誰も経験したことのない仕方。放送とは全く異なる、配信の親密性である。当日、生の演奏を共に生きた人々は、誰が演奏しているかを知った。配信は、生の演奏の代替ではない。音楽を剥き出しにする力となる。

(2020/7/15)