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アンサンブル・ノマド 第66回定期演奏会 「出会いVol.1〜高橋悠治と」|西村紗知

アンサンブル・ノマド 第66回定期演奏会 「出会いVol.1〜高橋悠治と」
Ensemble NOMAD Regular Concert #66

2019年6月27日 東京オペラシティ リサイタルホール
2019/6/27 Tokyo Opera City Recital Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by Higashi Akitoshi/写真提供:アンサンブル・ノマド

<演奏>         →foreign language
高橋悠治(pf)
アンサンブル・ノマド:
  木ノ脇道元(fl)、菊地秀夫(cl)、野口千代光、花田和加子(vn)
  甲斐史子(vn)、菊地知也(vc)、佐藤洋嗣(cb)
  宮本典子(perc)、中川賢一、稲垣 聡(pf)、佐藤紀雄(gt/cond)

<曲目>
I.クセナキス:モルシマ・アモルシマ(1962)
高橋悠治(pf) 花田和加子(vn) 菊地知也(vc) 佐藤洋嗣(cb) 佐藤紀雄(cond)

高橋悠治:飼いならされたアマリリス(2013)
宮本典子(xyl)

高橋悠治:チッ(ト)(1978)
木ノ脇道元(fl) 稲垣 聡(pf)

I.ストラヴィンスキー:2台ピアノのためのソナタ(1944)
高橋悠治・中川賢一(pf)

C.ペプルス:遊ぶサル(2013)
高橋悠治・稲垣 聡(pf)

高橋悠治:星火(2005)
野口千代光(vn)

高橋悠治:しばられた手の祈り(1976)
佐藤紀雄(gt)

高橋悠治:この歌をきみたちに(1976/1981)
高橋悠治(pf) 菊地秀夫(cl) 甲斐史子(vn) 菊地知也(vc)

アンコール曲
高橋悠治:トロイメライ2012(冒頭部分)

 

今回のアンサンブル・ノマドと高橋悠治の演奏から聞き取られるべきは、「野蛮さの引き受け方」だったように思う。
グローバル資本主義において音楽をやることは、なおもいっそう潜在的に野蛮である。現行の体制に激しく反発する内容をもつ音楽であれ、きちんと商品としてつくられた音楽以上に道徳的であると保証してくれるものはなにもない。現行の体制に対する反発を、実際の社会的惨事を引き合いに出して表現したとして、現行の体制に追従するものと同じ土俵に立つことを拒んだことにはならないのである。なんとなれば、職人芸より素人芸の方が真に商品価値をもつ時代である。スーパーフラットということ。社会的惨事を当てにするという点で、世界のどこかにいる非道徳的な輩と同類かもしれないと、自覚をもつこと。さもなくば、現行の体制以外のものへの夢見もまた、野蛮である。
誰であっても、野蛮さをどこかで分け持たねばならない。アンサンブル・ノマドと高橋悠治はその責任を、あえて生気のない、表情の乏しい音の数々でもって引き受け、しかしながらまた、音楽をやったのである。

クセナキスの〈モルシマ・アモルシマ〉はトータル・セリー調の作品で、確かにアタックは唐突ではあったが、3、6、7度の響きがよく耳に残り、同音を異なる楽器で受け継いだりするようなところで、アンサンブルがきちんと確保されている。音響的に意外にストレスはないものの、決してアニマートに演奏されることはない。各楽器から発せられる音の連なりは、どこか見知らぬ壁に刻まれた多種多様な傷や汚れのようで、もはや冷たさや厳しさといった表情を伴わない。表情というのは現在的なもので、これは過去を流れる音楽なのである。なるほど、非同時代的に振舞うことは一つの抵抗の態度だ。
続く高橋の〈飼いならされたアマリリス〉。誰かに回されるがままのオルゴールのような演奏。ディテールのところでぎりぎりデュナーミクが確保されているものの、演奏表現としての自発性は廃棄される。〈チッ(ト)〉でも同様に、沸き立つような音楽の自発性は禁じられていた。うねるようなフルートとカクカクしたピアノとの組み合わせは、ミスマッチで滑稽だ。
今回ストラヴィンスキーの作品がこれらのプログラムのうちに含まれる理由は、ここまでくると自明に思われた。新古典主義特有の無表情(ausdruckslos)の力を拝借するためだろう。しかし実際演奏が始まった瞬間、はたと気が付く。無表情が表情へと転化している。二人のピアニストは名人に違いないのに、わざとぎりぎりのところで稚拙に弾いていて、それでもって、夕暮れ時の子供のピアノをいっぺんにかき集めたような音楽が実現された。そうするともはや「子供の情景」の世界観なのであり、会場は優しい回想の音楽で充ち足りたのである。

後半からは、少しずつ名人芸が目立つようになり、徐々に歌らしい歌が聞こえてくるようになる。野蛮さを引き受けた上で、それでも彼らは歌う。それはさながら、アンサンブル・ノマドと高橋悠治が少しずつ歌を思い出す、その軌跡であるかのようだった。

ペプルスの〈遊ぶサル〉で聴衆は、ここにきてようやっと名人芸らしい演奏を聞く。しかしこれは飽くまでも非理性的で、いうなれば徹底的に遊びの範疇に留まろうとする作品だ。名人芸でもどことなく動物的。同じ音型を反復することはあっても脈絡が生れることはない。最後の方で急に拍子感のあるメロディックな部分に突入しても、聴衆は困惑するばかりである。もっともこれは、理性への反発に対する困惑なのだ。
その後の〈星火〉と〈しばられた手の祈り〉は、〈遊ぶサル〉よりもいうなれば不自由な作品で、というのも、それぞれのびやかに歌うことができない。歌は断片的であり、小声でうたわれる。自己陶酔は許されない。誰か声なき者の歌を、かわりに歌うようでなくてはならないのだろう。今回のコンサートの全体に行き渡っていた音の貧しさ、ある種の音楽の破棄は、声なき声を代弁するという重大な役割を果たしていた。
声なき声を代弁する表現は、最後の〈この歌をきみたちに〉において頂点に達する。闘争とは程遠いような、たおやかな歌の数々。つかの間の理想郷。もう少し美しくなってしまったら、某雑貨店のBGMとして流通してしまいそう。だけれど歌は引き渡せない。この歌がどうかどこにもいってしまいませんように。

アンコールになると、高橋悠治だけが舞台に残されて、ひとりピアノに向かって、おもむろにシューマンの《子供の情景》の〈トロイメライ〉を弾き出した。抒情たっぷりに、この日の歌らしさの頂点である。これが高橋の〈トロイメライ2012〉であると知らない聴衆は、その夢見に心奪われ、それからのちトロイメライがグロテスクに変奏され奇怪な音楽に変貌するやいなや、はっと目を覚ます。華麗なる異化作用。
弾き終えて一人すたすたと舞台袖にはける高橋の後ろ姿から、いかなる夢見にも同調しない者の強さとしなやかさが、感じ取られるようであった。

(2019/7/15)

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<Artists >

Yuji Takahashi(Pf)
Ensemble NOMAD :
 Dogen KINOWAKI(fl),Hideo KIKUCHI(cl),Chiyoko NOGUCHI,Wakako HANADA(vn)
 Fumiko KAI(vn),Tomoya KIKUCHI(vc),Yoji SATO(cb)
 Noriko MIYAMOTO(perc),Kenichi NAKAGAWA,Satoshi INAGAKI(pf)
 Norio SATO(gt/cond)

<Program>

Iannis Xenakis:Morsima-Amorsima
Yuji Takahashi:Amarilli Addomesticata
Yuji Takahashi:Ji(t)
Igor Stravinsky:Sonata for 2 Pianos
Craig Pepples:Monkeys at Play
Yuji Takahashi:Seong-Hwa
Yuji Takahashi:Chained Hands in Player
Yuji Takahashi:For You I Sing This Song

(encore)

Yuji Takahashi:Träumerei 2012 (beginning part)