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アンサンブル九条山コンサートVOL. 9 相互浸透|能登原由美

アンサンブル九条山コンサートVOL. 9 相互浸透
Ensemble Kujoyama Concert VOL. 9 RÉCIPROCITÉ

2019年11月27日 ロームシアター京都 ノースホール
2019/11/27 ROHM Theatre Kyoto North Hall
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 来田猛/写真提供:アンサンブル九条山

〈出演〉        →foreign language
アンサンブル九条山
 ソプラノ:太田真紀
 フルート:若林かをり
 クラリネット:上田希
 ヴァイオリン:石上真由子
 チェロ:福富祥子
 打楽器:畑中明香
 ピアノ:森本ゆり

〈曲目〉
カイヤ・サーリアホ:ノクターン ヴァイオリン独奏のための
サルヴァトーレ・シャリーノ:バビロン前のハイウェイ フルート独奏のための
ミカエル・ジャレル:ナッハレーゼ…II ヴァイオリンとチェロのための
ディアナ・ロタル:enter no silence ソプラノ、フルート、クラリネット、ピアノ、打楽器のための
〜〜休憩〜〜
ヴィンコ・グロボカール:楽器にされた声 バス・クラリネット独奏のための
ヘンリク・グレツキ:おやすみ op.63より第3部 ソプラノ、アルト・フルート、ピアノ、3つのタムタムのための
フランソワ・サーハン:ホームワークII 打楽器独奏のための
マルトン・イレーシュ:図面III クラリネット、チェロ、ハイブリッド・ピアノのための

 

音楽とはなんだろう?メロディ、リズム、ハーモニーを伴うもの?いやもっと単純に、一つの音があり、それが複数になれば音楽?「音楽の起源」に関する書物なら幾つもあるけれど、そもそも、「音」自体がこの世界に生じないと「音楽の起源」の話にさえならない。とはいえ、「音」は音楽の存在を規定する、唯一絶対のものなのだろうか…?

今日の舞台はアンサンブル九条山による9回目のコンサート。彼らは京都市に所在するアーティスト・イン・レジデンス「ヴィラ九条山」を拠点に、2010年に設立された現代音楽のアンサンブルだ。現在は、国内外でソリストとして活躍する7名の奏者によって構成されている。

「相互浸透RÉCIPROCITÉ」と題された今回は、ドイツ以外の「周縁」の作曲家に焦点が当てられた。つまり、フィンランド、イタリア、スイス、ルーマニア、スロヴェニア、ポーランド、フランス、ハンガリーに出自を持つ8人の作曲家から8作品。それによって、地域性や相互の影響関係、疎外と融合などを示すことが狙い…だったのかもしれない。が、先の問いに比べれば、それらは私にとっては些細なことでしかなかった。

特に、4つの作品が印象に残る。

まず冒頭の2曲。いずれも音の原始を感じさせるもの。最初はサーリアホによるヴァイオリン独奏のための《ノクターン》。奏者(石上真由子)はひたすら弦を擦る。それも音が発生するかしないかの、微かな動きで。もちろん、ハーモニクスの音も含めて「音高」の変化はある。それらを結べば「旋律」と言えるのかもしれない。が、指板の上の指の動きは、単に弦の振動を変えるための役割しか持たないようにも見えてくる。その音になるかならないかの、弦が空気を揺らす瞬間を聞き逃すまいと必死に耳をそばだてる。

続いてシャリーノによるフルート独奏のための《バビロン前のハイウェイ》。奏者(若林かをり)は吹き込む息を微妙に変えて、音を鳴らしたり鳴らさなかったりする。それを繰り返すうち、音と音でないものの境界が顕になってきた。一体、その境目はどこにあるのだろう。だがよく考えると、実は息にも「音」がある。息だけではない。指先がキイを叩く。キイが穴を塞ぐ。様々なものが、音を発生させている。だから境など、元々無いのかもしれない。

その一方で、息の流れ、勢い、そのうねりが気持ちをザワザワさせることにも気がついた。こうなるともはや、「息」や「音」は単なる自然現象ではなくなってしまう。それは私の「情動」を掻き立てるものだ。あるいは、「情動」がこうした「息」を生み出すのか。ため息や吐息がそうであるように。

この「情動」が執拗に迫ってきたのが、グロボカールの《楽器にされた声》。奏者(上田希)はマウスピースを外したバス・クラリネットに、直接息や声、言葉を送り込む。もちろん、楽器本来の音は鳴らない。様々な発話が管を通してなされるようなものだ。かと言って、その内容=意味を聞き取ることもできない。それだけに、強弱や音高、スピードの変化は「情動」を掻き立て、また「音」の主(あるじ)の「情動」を浮き立たせるようにも思えた。もしかすると、これが「楽器」という皮を剥ぎ取った後に残る「音楽」の軸の部分?

全く違った角度から「音楽」を感じたのは、サーハンによる打楽器独奏のための《ホームワークII》。壇上の椅子に座った一人の奏者(畑中明香)が、声や言葉(英語)を発しながら、自身の体や顔を叩いたり、足を踏み鳴らしたりする。一見、ボディ・パーカッションのようだが、それだけに留まらない。腕を振り上げたり、指で形を作ったり、顔の向きを変えたり。
しかもそれは、奏者の即興というわけではなく、すべて楽譜上に指示されているとのこと。相当なスピードで延々と繰り広げられるその「演奏」は、それだけでも見応えがあった。が、それ以上に惹きつけられたのは、音と音の間に挿入された動作が、無音でありながら「音楽」を感じさせること。音が聞こえないのに音楽が聞こえてくるとは…。どういうことだろう。「音楽」とはなんだろう。改めて思いを馳せた。

…少し根源的な部分ばかりに意識が行き過ぎたかもしれない。これらの作品が、音の素材を最小限に切り詰めているためだろうか。逆に、素材が増えればそれだけ情報も多くなり、刺激も増えるのは確かだ。例えばイレーシュの《図面III》。クラリネットとチェロ、ピアノに加え、四分音高く調律された電子ピアノを用いる。冒頭では分散和音が執拗に反復され、そのうねりが高まったところで電子的に増幅されたピアノの音が現れる。その過程で生じる響きは確かに新鮮だ。けれども、それが私に何かを残すことはなかった。

他の3作品についてはここでは触れない。作品の良し悪しというよりも、先の問いを抱えてしまった今の私には、これらの作品を別の目線で見られそうにはないからだ。それをする前に、もう少しこの問いの答えを探していたいのだ。「音楽とはなんだろう?」

(2019/12/15)

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〈players〉
ENSEMBLE KUJOYAMA
 Maki ÔTA (Soprano)
 Kaori WAKABAYASHI (flute)
 Nozomi UEDA (Clarinet)
 Mayuko ISHIGAMI (Violin)
 Shoko FUKUTOMI (Cello)
 Asuka HATANAKA (Percussion)
 Yuri MORIMOTO (Piano)

〈pieces〉
Kaija Saariaho: Nocturne for violin
Salvatore Sciarrino: Autostrada prima di Babilonia per flauto
Michael Jarrell : …Nachlese… II for violin and violonchello
Diana Rotaru: enter no silence for soprano, flute, clarinet, piano, percussion
Vinko Globokar: Voix Instrumentalisée pour clarinette basse
Henryk Górecki : Good Night op. 63-3. Lento – largo, dolcissimo – cantablissimo for soprano, alto flute, piano and 3 tam-tams
François Sarhan: Home work II pour percussionniste corporel chantant
Márton Illés: RAJZOK III for clarinet, violoncello and hybrid piano