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小人閑居為不善日記|家族というコンテンツ〜スター・ウォーズとドクター・スリープ|noirse

家族というコンテンツ〜スター・ウォーズとドクター・スリープ
STAR WARS & DOCTOR SLEEP

Text by noirse

※《スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け》の結末に触れている箇所があります

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暮れに大きい風邪にやられてしまい、正月明けまで寝込んでいた。ようやくよくなり、TVを点けたらイランの事件である。

それからは隙あらば海外ニュースを見続けているが、元来年末年始は、師走や元旦の雰囲気を味わいながらのんびり過ごすタチだ。調子は悪かったが紅白だけは布団を抜け出してちゃんと見たし、『ゆく年くる年』までがんばって起きていた。賑わしい紅白が終わったあとに聞く除夜の鐘はなかなかオツなものだ。除夜の鐘に反対する地域住民の話など聞くと、何をどうするかは地域の判断だと分かりつつも、思わず反発したくなる。

しきたりや因習が苦手な質で、年賀状も嫌いなら年始の挨拶も苦手だ。一定以下の年代の人間には、わたしのようなタイプは多いと思う。しかし一方では、年末らしい雰囲気を楽しんだり、除夜の鐘をなくすなんてとんでもないという旧弊なところもあるのである。

2

昨日やっと調子がよくなり、ショッピングモールへ買い出しついでに、映画《スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け》(2019)を見てきた。スター・ウォーズ・シリーズ九部作の完結編だ。

スター・ウォーズに関してはシリーズを一応見ている程度で、特段思い入れはない。年末年始恒例のお祭りを覗きに行って、それなりに楽しめたというくらいのものだ。2015年以降スター・ウォーズ関連の作品は、《ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー》(2018)を除いてすべて12月中旬に公開しており、「年末はスター・ウォーズ」という雰囲気が醸造されていた。
言葉を変えれば、伝統行事のようなものだ。第一作《スター・ウォーズ》(1977)から42年。当時高校生だったファンは、今では還暦を迎えるくらいの年月だ。

これだけの息の長いコンテンツなのだから、耐性年数に問題が生じてしまうのも無理はない。ツイッターで見かけたバズ案件に、「最近の映画を見慣れた目にはスター・ウォーズはつまらない」というものがあった。
首肯する人も多い一方、批判する者ももちろんいた。けれども、こういう感想に目くじらを立ててもしかたがないだろう。文脈や流行、技術面での条件など、状況が異なる作品を現在の目から公平に評価すること自体の困難さももちろんあるが、わたしは次のように理解することにしている。スター・ウォーズのような「伝統芸能」は、(特に初期作品に関しては)おもしろいとかつまらないという個人的な好悪を越えたところに価値があるのだ、と。

それは最新作でも同じだ。ファンからすれば細微な点が気になるのは当然だろう。けれども「今年もスター・ウォーズを楽しめてよかった」というレベルの人間からすれば、ある程度以上のハードルを維持できていれば満足である。《スカイウォーカーの夜明け》は、横紙破りもなく、きちんと「幕を引く」ことができた。それだけで十分ではないか。

だがひとつだけ言及しておきたい点がある。血統の問題だ。「続三部作」と呼ばれるディズニー発のスター・ウォーズ・シリーズでも、活発に議論されている点だ。

もともとのスター・ウォーズ第一作は、辺境の星に住む平凡な青年ルーク・スカイウォーカーが、フォースという特別な力で帝国軍を打ち負かすところが重要だった。当時の特に若い観客に、「何者でもない自分の未来にも、無限の可能性が広がっている」と自信をつけてくれたからだ。

しかし初期三部作の最後、ルークが元来フォースの力を持つ血統の末裔だったことが分かる。これが 続三部作の重要なテーマとなっていく。今回の主人公レイは孤児で、やはり辺境の星にて屑拾いで生計を立てていたが、軍との戦いに巻き込まれ、フォースの持ち主だったことが分かる。しかし《スター・ウォーズ/最後のジェダイ》(2017)で、彼女はルークと違い、スカイウォーカーの末裔ではないことが明らかになった。

これに一部のファンが猛反発した。彼らにとってスター・ウォーズとは「スカイウォーカー一族の物語」であって、他人が土足で上がり込んでくる領域ではなかったからだ。
けれど、この「脱スカイウォーカー」化に好感を持った向きも少なくない。とりわけ昨今の白人純血主義的な一部の言説を見ていると、血統に縛られない価値観は力強く感じられる。

では《スカイウォーカーの夜明け》はどうだったか。詳細は伏せるが、血統主義的な理屈を通し、その上でレイにどう生きていくか選択させるという、実にうまい着地を見せてくれた。
それでも批判している人はいるのだろうが、そこまでわたしは追いかけていない。付き合いきれないというのもあるが、「血統」をコンテンツにすること、それ自体に限界を感じるからだ。

3

スター・ウォーズの熱心なファンが血統にこだわる光景は、ファン以外には不思議に映るかもしれない。さきほどの「伝統芸能」に倣って言えば、歌舞伎役者のお家騒動などに近いのかもしれない。ワイドショーなどでの女系天皇議論や、英国王室の芸能化も連想してしまう。

もちろんスター・ウォーズは血統だけの映画ではない。しかしこのシリーズが「血統」という主題で物語をドライブさせ、何がしかの社会的メッセージを伝えようとしていることは間違いない。けれどわたしは、そうしたすべてに飽き始めている。

家族や血統というテーマは、コンテンツ上の「伝統」だ。お決まりの手法というやつだ。だがそれについてあまり苦言を呈する人を見かけることはない。たとえば、音楽や映画において恋愛が頻繁にテーマになることに批判的な人はよく見かける。しかし家族というテーマについて、そういう場面に出くわすことはない。

ここで、年末最後に見た映画、《ドクター・スリープ》(2019)を紹介しよう。原作はホラーの大家スティーブン・キングで、代表作《シャイニング》(1977)の続編に当たる。主人公ダニーの父親ジャックは小説家だったが、《シャイニング》で悪霊に魅入られ、家族を危険に追いやり、自らも死んでしまった。ダニーは特殊な能力によって生き延びたが、過去が苛み、アルコールに溺れてしまう。

映画は超能力者同士の対決を描いていくが、それ以上に重要なテーマは、ダニーの救済である。父親への複雑な心情が、彼を一層追い詰めていく。映画は最後ダニーに救いを与えるが、一口にハッピーエンドとは言い切れない、苦みのある結末を迎える。

この映画には、さらに複雑なトピックがある。前作《シャイニング》が、巨匠スタンリー・キューブリックによって映画化(1980)されている点だ。映画は成功したが、原作者キングはこの作品を許していない。原作のジャックは悪霊に魅入られてしまうものの、本人は善良で平凡な父親だ。しかし映画版ではジャックの懊悩や軋轢は排除されており、自らモンスターへの道を突き進む、一種異様な人間となっていた。

《ドクター・スリープ》の監督マイク・フラナガンは一計を案じ、原作にはなかった《シャイニング》の舞台オーバールックホテルでの対決を最後に据え、キングも納得できる結末を用意した(原作ではホテルは焼け落ちていて存在していないが、映画版では廃墟化しつつも残っている)。巨匠の名作の続編となるとかなりのプレッシャーだったはずだが、これと真正面から対峙し、前作の弱点をも乗り越えることで、フラナガンは《ドクター・スリープ》を無事着地させた。

お気付きの通り、《ドクター・スリープ》も《スカイウォーカーの夜明け》と同じく人気作品の続編で、家族や血統をテーマとしている。そういう意味では同傾向の作品と言えよう。
だが家族の捉え方は《ドクター・スリープ》のほうが遥かに重い。《スカイウォーカーの夜明け》は血統からの解放を楽観的に提示して終わるが、《ドクター・スリープ》では、最後までそれらが一生ついて回ることの苦しみをえぐり出す。

先ほど述べた通り、わたしは安易な「家族」テーマに倦んでいる。《ドクター・スリープ》も初めはそういった傾向の作品かと思ったが、しっかりと家族という鎖の重さを描いていた点で、むしろ好感を持った。家族や血統は病理に成り得る。そういったテーマを安易に選択してしまうことの重さについて、《ドクター・スリープ》は自覚的だ。キューブリックがホラー的な意匠を優先するあまり、「家族」というテーマを安易に描き過ぎてしまったことを直視し、それへの反省が込められているからだ。

家族や血統を描くなというわけではない。冬休みシーズンのディズニー資本の大作映画が、結局家族の話になるのは分かるし、スター・ウォーズのような「伝統」の作品がそうなりやすいのも理解できる。
しかしそうした「伝統」、そろそろやめにできないのだろうか。レイは過去から解放され、自らの道を選び取った。それはスター・ウォーズ第一作の精神そのものだ。その精神そのものを、率直に作品化できないものなのか。

因習やしきたりは好きではないが、年末年始の雰囲気は嫌いではない。除夜の鐘を撤廃しろとまでは思わないし、好ましい習わしもある。それと同じように、スター・ウォーズの如き「伝統」も是非続けてほしいと思う。しかし伝統芸能であろうと、中身は一新できるはずだ。安易な「家族のコンテンツ化」に楔を打つこと。《ドクター・スリープ》を見れば、それが不可能でないことが分かるはずだ。

(2020/1/15)

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noirse
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