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小人閑居為不善日記|京都アニメーションは歩み続ける|noirse

京都アニメーションは歩み続ける
Kyoto Animation keeps going

text by noirse

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斯界の大物が世を去ると、必ずといっていいほど「ひとつの時代が終わった」という声が上がる。決まり文句にケチをつけてもしょうがないが、この言い廻しにはずっと違和感があった。

自殺でもない限り、死はコントロールできない。彼らは時代に殉じるために死んだわけではない。不可避な死をもって時代を定義するのは、いささか粗雑ではあるまいか。

今回は京都アニメーションについて書いておきたい。例の事件に関しては既にご存じだろう。わたしも京アニの作品を楽しんで見てきたひとりだ。当然、事件や犯人について、色々思うところはある。だが進行形の事件に関して門外漢が言うべきことは何もないし、京アニという優れたスタジオの功績についても、わたしよりもずっと詳しく、語るにふさわしい人たちがたくさんいる。 ここではあくまでもいち視聴者の個人的な感想を綴っておきたい。

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わたしは特別熱心なアニメファンではない。京都アニメーションという会社を区別化するようになったのは《けいおん!》(2009)からだった。

ファンには失笑ものだろう。既にその時には《涼宮ハルヒの憂鬱》(2006)や《らき☆すた》(2007)によって、京アニの名は全国区に知れ渡っていたからだ。また《AIR》(2005)や《Kanon》(2007)など、美少女ゲーム原作の「セカイ系」と呼ばれる作品がオタク層からの信頼を勝ち得ていて、十分にブランド名を確立していた。

わたしも《ハルヒ》や《らき☆すた》は一応見ていたが、驚いたのは《けいおん!》だ。全編通して軽音部の女子高生が過ごす学校生活を描くだけで、目立ったストーリーは特にない。その何もなさに驚いた。

このような物語性の後退を特徴とする作風は「日常系」とか「空気系」と呼ばれ、ひとつのモードを形成していた。《らき☆すた》も同傾向の作品で、こちらのほうが早かったが、《けいおん!》がよりしっくりきたのは、さらなる細やかな描写や情景の積み重ねによって、ストーリー以上の何かを語ることをいっそう重視し、成功していたからだ。

波乱万丈で緊張感のある作品もいいが、そればかりでは疲れてしまう。《けいおん!》が与えてくれる時間は、多忙な現実の中で、ひとときの休息をもたらしてくれた。そうした効能をサプリと批判する向きもあったが、人間には逃避が必要だ。《けいおん!》は嵐からの隠れ場所だった。

同じように感じた視聴者も多かったのだろう、《けいおん!》はたちまち話題となったが、支持者はどんどん拡大し、オタク層の圏外に飛び火していった。かつての深夜アニメはどことなく後ろめたい趣味であって、大っぴらにひけらかすものではなかったが、この頃から誰が見ていても不思議ではないものに変貌していった。

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京アニはその後、さらに何本かの日常系の作品を手掛け、セカイ系から離脱していった。だが変化はそれだけに留まらない。

日常系の作品は小さなコミュニティで完結することが大半だ。クラブの部室とか教室の中だけで充足することも少なくない。けれど《氷菓》(2012)や《たまこまーけっと》(2013)辺りから、徐々に居場所を変えていく。

両作とも主人公は高校生で、日常系の範疇に入る作品だが、彼らの行動は学外にまで及んでいく。学校で平凡な日常を送れるのは、周りの人々が積み上げてきた歴史あってのもので、その連続性の中に今がある。そうした発見や学びを得ていくのだ。

その後の京アニ作品は、日常系の延長線上にある作品も作りつつも、ふたつの方向を指し示していく。ひとつは《甘城ブリリアントパーク》(2014)や《ヴァイオレット・エヴァーガーデン》(2018)など、労働や仕事を描く作品だ。これらの主人公は、優れた能力を持ってはいるが、他人とのコミュニケーション能力に欠けている。それがテーマパーク経営や代筆業などの仕事に関わることで自分の価値を発見し、周囲に受け入れられ、コミュニティの一員となっていく。

もうひとつは《響け!ユーフォニアム》(2015)や《ツルネ -風舞高校弓道部-》(2018-2019)に代表される方向だ。これらも高校生の部活動を描いているが、闘争心とは縁のなかった《けいおん!》と比べ、《ユーフォ》や《ツルネ》の生徒たちは確固たる目的を持ち、それに向けて邁進する。

《けいおん!》と《ユーフォ》を比べてみよう。ロックとブラスバンド、どちらも音楽系の部活を描いた作品だ。主人公も初期設定は似ていて、《けいおん!》の唯も《ユーフォ》の久美子もハードな練習は好まず、適度に活動していければいいと考えている。

《けいおん!》はそのまま進行し、唯も目立った成長や変化のないまま最終回を迎える。これも物語の定石を外しており、当初は驚いたが、もともと視聴者が求めていたのは変わらない日常であり、成長しない主人公だった。この時点ではそれでよかったのだろう。

だが《ユーフォ》は違う。久美子は顧問や友人に促されて奮起し、大会優勝を目指して熱心に練習に励むようになる。その過程で顧問や部員たちと衝突し、葛藤し、彼女は成長していく。

これらの作品は同じことを物語っている。日常は社会の繋がりの中にある。閉じこもっていたくても、いつかは出ていかなくてはいけない。その先に苦難があろうとも、それに向き合うことで成長し、社会参加を実現していくのだと。

京アニが初期に手掛けたセカイ系作品は、しばしば社会性の欠如が指摘されていた。個人的な情動が世界規模の事件に直結していく、閉じこもった全能性。規模は違えど、社会性の欠如や、小世界のモラトリアムを描いている点では日常系も変わらない。

それまでの京アニは、このような小さな世界を描くことに長けていた。このままの路線を続けていくこともできただろう。だが彼らは、そこから抜け出していくことを選択したのだ。

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このような路線変更は京アニだけの話ではない。たとえば《天気の子》がヒット中のアニメ監督、新海誠だ。新海も《ほしのこえ》(2002)などでセカイ系を代表する存在としてオタクたちに支持されたが、《君の名は。》(2016)からより広い層へ受け入れられるようにギアチェンジした。一部のファンからは失望を買ったが、結果はご存じの通りだ。

触れておきたいのは舞台となる東京の扱い方だ。それまでアニメにおける東京は、《AKIRA》(1988)や《機動警察パトレイバー the Movie 》(1989)など、破壊や呪詛の対象になることが多かった。けれど《君の名は。》ではとても美化されており、主人公は東京の未来に寄与していくことが示唆される。ずいぶん前向きな変化だ。

新海や京アニの近作は、旧来のファンにフォローはしつつも、明らかにセカイ系や日常系とは異なる方向を見据えている。一言でいえば、それは「責任」という言葉に集約されるだろう。

キッズアニメを見ていると、子供たちに正しいメッセージを送らなくてはいけないという、作り手の責任感が垣間見られる。その問題に関して悩み抜いた先人として、現在東京国立近代美術館で大規模な回顧展が行われている高畑勲が挙げられる。

高畑は《アルプスの少女ハイジ》(1974)や《赤毛のアン》(1979)などの作品を通し、ふたつのメッセージを問いかけていった。ひとつは日常系と同様に、日々の生活の大切さを描くこと。もうひとつは、それを通して現実の重要さを説き、アニメという小世界からの脱却を促すことだ。高畑は日本アニメ界の功労者でありながら、アニメだけに夢中になってしまう子供が増えてしまうことを危惧していた。

多少違いはあるが、京アニの近作にも同じ視座が伺える。アニメ産業は2013年以降成長し続け、 Netflixの参入や中国市場の規制緩和により海外展開の増加も見込まれている。それに際して、セカイ系や日常系のように小さな世界にのみ没入するのではなく、現実への一歩を選択すること。ここから、京アニが社会的責任を自覚して制作に向き合い、高畑から連なるアニメの歴史を継承しようという意思を見て取るのは行き過ぎだろうか。

本音を言おう。わたしは近年の京アニ作品が苦手だ。京アニが大きな目的を持ち、素晴らしい達成を果たしているのは分かる。だがわたしが京アニに求めていたのは、相変わらず平凡で小さな日常の世界、嵐からの隠れ場所だったのだ。

だがそれこそ京アニが前進している証だろう。逆に、未だに京アニが閉じた日常系作品を作り続けていたら、それはそれでズレを感じていたはずだ(面倒くさい人間で申し訳ない)。京アニは変化を恐れず、常に前を見据えて歩み続けている。わたしのような過去に留まる者には想像もつかないような場所まで辿り着くかもしれない、そういう数少ないスタジオだ。

京アニのこれからについては分からない。だがあえてわたしは、過去形ではなく、進行形で京アニについて記したかった。それこそが常に変化し、進み続ける京都アニメーションというスタジオにふさわしいはずだから。

(2019/8/15)

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noirse
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