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デンマーク国立交響楽団 来日公演|藤原聡

デンマーク国立交響楽団 来日公演

2019年3月12日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)撮影日3/19

<演奏>
指揮:ファビオ・ルイージ
ピアノ:横山幸雄

<曲目>
ニールセン:歌劇『仮面舞踏会』序曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73『皇帝』
(ソリストのアンコール)
ショパン:練習曲 作品10-12『革命』
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 Op.64
(アンコール)
ゲーゼ:タンゴ・ジェラシー

 

デンマーク国立交響楽団、初の来日である。ブロムシュテットやセーゲルスタム、ダウスゴーらの録音によってファンにはなかなかに馴染みのあるオケと思うのだが、しかし意外ではある。DR放送交響楽団とも呼ばれる同オケは1925年の創立。デンマークを代表するもう1つのオーケストラであるデンマーク王立管弦楽団が1448年(!)創立という事実を見ると国立響は随分新しいオケに思えるが、しかし同オケはヨーロッパで最も古い放送オーケストラなのだという。
古くはニコライ・マルコやフリッツ・ブッシュ、近年では先に挙げたブロムシュテットやセーゲルスタム、そしてゲルト・アルブレヒトなどを首席指揮者に仰いだ同オケだが、この度の来日公演に同行するファビオ・ルイージは病気によって任期途中で退任したラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスを引き継いで2016年からその任にある。ルイージ自身が素晴らしいオケ! と胸を張るデンマーク国立交響楽団、誠に楽しみな実演である。

1曲目はいわば「お国もの」であるニールセン。冒頭の和音とその後に続くヴァイオリンの走句を聴いただけで、極めて質の高いオーケストラだと分かる。中域が分厚く響きはまろやかだが、洗練されすぎない素朴な音色。各パートにムラがなくバランス極上。フォルテになっても決して刺激的な音は出さない。管楽器群も音色に個性とコクがあってメカニック的にも軒並み上手いが、殊にホルンとクラリネット、ファゴットの独特な音が魅力的。5分ほどのすばしっこく短い曲だが、このニールセンでオケの力量のほどはかなり体感できた。ルイージの指揮は冷静にオケを統御しつつ、要所でこの指揮者特有の熱量ある「あおり」を聴かせて単なる「オードブル」としての演奏という域を超えた演奏を展開させていた。

初来日の素晴らしいオーケストラなのだから、せっかくなら協奏曲など入れずに全てオーケストラのみの曲で構成して頂ければ良かったのだが、しかし次の曲はベートーヴェンの『皇帝』(どうせ協奏曲を演奏するならニールセンのクラリネット協奏曲など演奏して欲しかった、というのは無茶な希望か‐笑)。別にこのオケでなくても、という印象は拭えぬが、演奏が良ければ結果オーライではあろう。しかし全体としては余り頂けない結果となる。その原因は横山幸雄のソロにある。冒頭からとにかくスイスイ弾き飛ばす。表情に深みがなく単調、楽想の掘り下げも浅い。タッチが浅く、楽器を鳴らし切れていない。フレージングも乱暴ではしょり気味。それほど多く聴いて来たとは言えないが、しかし以前幾つか接した横山の見事な演奏からは信じられないような音楽が聴こえて来た。このソロに引きずられたのかは判然とせぬが、オケも無難で平板な付けに終始した印象は拭い難く、残念であった。
アンコールではショパンの『革命』が弾かれたが、これも『皇帝』同様で、余りに先走り過ぎのせっかちな音楽。横山に何か変調でもあったのだろうか。この時はたまたま調子が悪かったのだろうか。ちょっと心配になってしまった。

後半はチャイコフスキーの『第5』。これは誠にルイージらしい、微に入り細を穿つ、そして独特の没入を聴かせた唯一無二の名演奏と言えるだろう。まず最初からテンポの遅さに驚く。チェロとバスの分厚さに魅了されるが、その表情は沈滞して歩みは遅々としており、休符は極めて意味深いが、この沈鬱さはいかにもチャイコフスキーに相応しい。序奏が終わって主部に入ってからがまた軽くたまげたのだが、序奏以上にスローテンポなのである。ほとんどチェリビダッケを想起させたほどだが、しかし非常に巧みなギアチェンジで最初のトゥッティに至る辺りにはほぼ通常のテンポに落ち着いていた。第1楽章全体にこの緩急の付け方が誠に巧みで自然であるがゆえに、聴いている方に指揮者の作為を感じさせない。これは凄い。

第2楽章はホルン・ソロがすこぶる上手く、表情も濃厚。弦楽器に現れる第2主題も儚げで優しく、そして陰影に富む。それは楽章後半でこの楽章2度目の「運命の主題」が唐突に出現する前、すなわち第2主題が情熱的に高揚するクライマックスの箇所でも同様の印象を与えるのだ。単にパッショネイトなだけでない二面性を感じさせるような複雑な音楽(尚、ここでのfにおけるルイージの指揮ぶりが興味深く、叩かずに柔らかくフワッと落として持ち上げる。これによって鋭い打音ではなくより柔和でしなやかな音響が出現する)。最後の後ろ髪引かれるような表情も忘れ難い。

やはりどことなく憂鬱で白日夢を見るように実体性がなく流れるワルツに次いで、終楽章もまた独特。ここでもテンポは遅く開放的な雰囲気は感じられないが、コーダに至ってそれまでの鬱屈から開放されるかのような高揚がもたらされる。このコントラストなかなかに強烈だったのだが、これはベートーヴェンの『第5交響曲』と同様のこの曲のイデーをより印象付ける演奏だったとも言える。

さらに言えば、チャイコフスキーはこの自身の『交響曲第5番』について「こしらえものの不誠実さがある」「わざとらしい」旨の発言をしたというが、それはベートーヴェンの『第5』からおよそ80年後に作曲されたこの曲に感じられるある種の「とって付けた感」とでも言うべきか、時代が下った必然としてのベートーヴェン的なイデーの不可能性、それに伴う楽曲構成の難しさ、といった側面にまで聴き手に思考を促すような演奏だったと言って差し支えない。繰り返すが、チャイコフスキーの内面性/二面性/鬱屈という本質にまで触れた演奏だったのではないか。
ルイージは2017年にサイトウ・キネン・オーケストラを指揮したマーラーの『第9』でも驚異的な大名演を聴かせたが、もしかするとこのように作曲者の実存性が露となったようなセンシティヴな作品に対するほとんど体質的な「感覚」の共鳴/共振があるのではないか。聞くところによればルイージその人も極めて繊細で複雑なパーソナリティの持ち主であるようだし、安易にそれらを結び付けることはしないけれども、何だか妙に腑に落ちるものがある。ともあれ、実演で接した「チャイ5」では最高レヴェルの演奏だったのは間違いない。

アンコールには意表を突かれたかのようなゲーゼの『タンゴ・ジェラシー』(一応書いておくと、クラシックの作曲家ニルス・ゲーゼとは別人のヤコブ・ゲーゼ。デンマーク人なのだ。だからこそのアンコール)。これは誰が聴いたって耳にしたことがあるだろうタンゴの名曲だが、これをルイージとオケは濃厚かつ妖艶に歌い上げる。クラシック作品で聴かせた抑制と開放のバランスなどもここでは関係なく、ディオニュソス的な欲動に貫かれたこの演奏もまたルイージの本質か。

このように優れた演奏を立て続けに食らっては聴衆もすんなりは帰らない。オケのメンバーが退場した後も鳴り止まぬ喝采に応えてルイージのソロ・カーテンコール、そして殆ど退場したオーケストラのメンバーも再びステージに登場したのだ(これも思い返せばサイトウ・キネンのマラ9と同じだ)。これは誠に感銘深い光景だった。恐らく初めての来日だったデンマーク国立交響楽団のメンバーの方々にもそれは同様であったのではないか。これからもこのオケには定期的に来日して欲しいと思う。

(2019/4/15)