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カデンツァ|音楽の未来って (7) 〜希望の灯火〜再び|丘山万里子

音楽の未来って (7) 〜希望の灯火〜再び 12月の3公演をめぐって
“Where does Music come from? What is Music? Where is Music going?”
“ D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?”
(7)Candle of hope~Again

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール (郷古廉)
Photos by 藤本史昭/写真提供/横浜みなとみらいホール(公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)(山根一仁)
Photos by 藤本史昭/写真提供:王子ホール(ステラ・トリオ)

謹賀新年。

昨年の新春号コラムで『音楽の未来って (1) 〜希望の灯火〜』を書いた時、それからわずか2ヶ月後に緊急事態宣言が出され、生の音楽が消える、など予想だにしなかった。『音楽の未来って』で考えようと思ったのは、ここ数年やたら未来を語る事が増えてきて、そのいずれもが「音楽(芸術)の素晴らしさを理解してもらうには」的、相も変わらぬクラシック教伝道精神・布教活動に思え、違和感があったから。「わかりやすさ」を入り口に「本物の感動を」など言うレクチャーとかアウトリーチとかの発想にある「間口を広く、敷居を低く」は裏返せば「間口は狭く敷居は高い本物芸術クラシック」という自認では? とある音楽の未来推進シンポジウムで大企業要職者が言うに。米国に暮らした時、クラシック音楽の話題が社交の一つと身を以て知り、もっと自分の生活に取り入れ子供達にもこの豊かさを、と思うに至った、と。その「豊かさ」って何? 派手な冠コンサート、そこらじゅうにホール林立のバブル期が去って久しいのに未だ社交ツール感覚とは…。
人類の歴史の端緒250万年前、火の日常的使用30万年前、意思疎通としての言語使用7万年前(Y・N・ハラリ『サピエンス全史 上』参照)という尺を持つならクラシックはどこらに位置するか。西暦上の「近現代」の覇者によって特定のローカル文化が伝播拡大流通しただけの現象で(キリスト教布教活動と植民地化に続く2つの世界大戦を思うまでもなく)、そのわずかな一時期を対象にのみ「人と音楽」の過去だの未来だのを語るってどうなのか。
経済原理が文化を載せて世界中を走り回っている現在区は(より速くより多く)、チャップリン『モダンタイムス』(1936)がとっくに描いた景色。18世紀半ばの産業革命から今日に至るまで、大小歯車の一つとして周り続けている私たち、であろう。
それを悠久の時空間軸に置いてみる。せめて言語使用7万年前くらいから。西洋音楽の聖典のごとき楽譜の歴史などたかだか1200年ほどだ。
そんな古今東西を往還往来しながら音楽の未来を考えてみようと思った。
そこにコロナ。
せわしなく疾走回転していた誰もが立ち止まり、考える時間が突然、降って来た。

現在、感染拡大は第1波の比ではない。
それでも、マスクに、検温に、市松模様席に慣れた私たちは三密を避けつつ集まり共に「友愛」を歌う第九演奏に大いにエールを送り、出かけもする。そこで常に語られるのが「音楽の力」であり、その讃美。それは、コロナ禍にあり不要不急対象として演奏の場を失った音楽人のいわば護符のような役目を果たすことになった。

私は首都圏で生音演奏会がポツポツ開かれるようになってから、それなりに通っている。
そうして、今語るべきは「音楽の力」ではなく「人間の力」ではないか、と思うに至った。
それを教えてくれた12月の3公演に触れたい。

まず、16日の郷古廉ヴァイオリン・リサイタル。戻って、13日Just Composed 2020 Winter in Yokohama「時代を超える革新」、その翌日14日ステラ・トリオの順だ。
この4日間を遡る形で、音楽を音楽にするのは人でしかない、という当たり前のことを私はつくづく学んだのだ。

まず、郷古。
彼の公演については、コンサートレビューに書いたのでそちらをご覧いただければと思う。ただ、ここで考えたいのは上記3公演の流れ、つまり「人の力」だ。
3年前、彼のバルトーク『ソナタ1、2番』を聴いた時、その桁外れな音楽動体視力に私は驚嘆した。だが、今回の無伴奏ソナタは全く別世界のもの。「場」を奪われた表現者の凄まじい気迫が音楽を自らを追い込み、鬼気迫る演奏を生んだ。確かにバッハを軸に精神の変奏のような形で組み立てたものだが、その知性とは別に、日々孤独と向き合う刻苦の末に手にした音たちを真正面からぶつけてきて、ビーバーからバルトークまで270年の音と人の歴史をこの2ヶ月で自分は生き切った、その音を聴いてくれ、と迫る。
彼の音楽動体視力は、道元いうところの「永遠の今」*)を撃ち抜いたのだ、と私は思った。
聴くこちらも集中疲弊の帰路、同じホールでやはり3年前に聴いた山根一仁の無伴奏リサイタルを思った。イザイ『第2番』、レーガー『8つの前奏曲とフーガ』より<シャコンヌ>、バッハ『ソナタ第2番』、バルトーク『ソナタ Sz117』、アンコールはバッハ<シャコンヌ>と非常に似た組み立て。特にバルトーク第3楽章のppppp世界の異様な静けさに「生と死の狭間に横たわる薄明と幽暗」と書いたが、そこにはさえずりや湧き水があった。郷古のそれはそういう私の幻視を拒むものだった。
一気にいうなら、山根のpppppの底にあった「傷み」の感触は郷古にあっては、そのものの剥き出しだった気がする。過剰表出は一切削いだところでの静謐な露出。
郷古は3年前のステージで去り際不敵な笑みを浮かべ私をうならせたが、この夜はただ独り、そこに立ち尽くすようだった。3年前の山根に似て。

その山根、横浜での演奏(郷古の3日前)は逆に全開放、私はワクワクしっ放しだった。彼のこの3年での変貌ぶりは、いやあ、あの時の青年 (21だった) が素敵な男になったねえ、と言うのが私にはぴったりだ。シュニトケの切れ味やリズムの刻動、祈りに似た瞑目などはそのままだが、何より表情(音だけでなく)の豊かさ。元来のぴしっとした骨に、肉付きと色が加わり、音楽が芳醇になった。ちょっとしたフレーズでの差し色、決め所での微笑や目線、鼻にかかった声音、ある種の色気、以前も書いたがクレーメルに似てきた。挟間美帆との共演(挾間作品)や、稲森安太己新作初演でのエネルギーの奔出爆走ぶりは「突き抜けた」感で、その筋肉質な躍動に目を見張る。アンコールでのシュニトケ『聖夜』で見せた洒脱に、私はクスッと吹き出した。つまり、遊び心、音楽ってこんなに楽しい、をそのまま見せてくれたのだ。付け加えるなら、阪田知樹もやはり成長著しく、稲森作品のダイナミズムも新鮮だった。(Just Composed 2020 Winter in Yokohama ―現代作曲家シリーズ― 時代を超える革新|齋藤俊夫

この2公演に挟まれたステラ・トリオvol.4は、これも3年前結成の初回からずっと聴いてきた若手3人(小林壱成vn、伊東裕vc、入江一雄pf )で、むろん他でのソロやアンサンブルも聴いている。
前回はトリオとしてとか、曲に向き合う姿勢にそれぞれ迷いがあるように感じたが、久々のステージは3者の位置取りや持ち味が明確化され全力全燃焼、胸すく快演を聴かせてくれた。
ベートーヴェン『幽霊』『第6番』、とりわけ『第6番』最終楽章コーダで見せたがんがんアクセル踏みまくりは、これまでの鬱憤(コロナを含め)を一気に晴らすはちきれぶりだ。自らを信じ、臆せず行け!と私は大拍手であった。
情報の海に翻弄されるな、自分の手に直に触れたものだけをつかめ、それを信じろ、そう思った。いや、客席の私たちもまた、まずは彼らを信じ、自分の聴取を信じたい、そう思った。同時代を聴く、生きるとは、そういうことだろう。

ベートーヴェンは、ブラームスは、など基礎学習は大事だ。作品を生んだ歴史や社会、つまり周辺を理解することは大事だ。
ただ、その最初の手がかりは譜面にしかないのだ。まずまっさらでその記号に向き合った時、どんな声が聴こえるか、どんな景色が浮かんでくるか。それを自分の中で温めることをせずに、どこから自分の声が、音楽が生まれようか。
世界に叡智は無数にある。見つけるのは自分で、手を伸ばすのも自分だ。
人間のあらゆる学、先人の言葉、周囲の情報はそのためにだけある。
迷ったら、悩める時は、遠い星を見る。
古代から海路陸路にあって、人を導く動かぬ星が空にはある
私たちはまだそれを、この地球から見ることができるのだから。

3つの公演にあった三者三様。
一つ、孤の凝視、が語るもの。
二つ、誰かと共に、に通うもの。
三つ、仲間と一緒に、に満ちるもの。
ソロ、デュオ、トリオと並べば、それが人と社会の関係性、すなわち人間存在の形そのものであることは明らかだ。
巣ごもりから立ち上がって彼らは言った。
「音楽の力」があるのでなく、「僕ら人間の力」の一つ一つが、「音楽の力」を生むんだ、と。人が生きることの悲喜を根底まで覗く覚悟をもって初めて音楽は現出するのだ、と。
それは、わかりやすい友愛讃歌の集合体たる第九演奏よりはるかに、私に深い何事かを教えてくれたと思う。
未来はこういう小さな場にこそ宿るのではないか。
ともしびを束ね、大きなたいまつに変えるのでなく、何か別の形があるのではないか。

註*)
現代語訳『正法眼蔵』(1)- 11「有時」玉城康四郎 大倉出版
「有時」はハイデガーの『存在と時間』に相当する道元哲学の肝と私は思う。
すなわち「有」は「存在」、「時」は「時間」。
「永遠の今」に相当する道元の原文を一つ拾う。

「三頭八臂は、きのふの時なり、丈六八尺は、けふの時なり。しかあれどもその昨今の道理、ただこれ山の中に直入して千峰万峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂も、すなはちわが有時にて一経す、彼方にあるににたれども而今なり。丈六八尺も、すなはちわが有時にて一経す、彼処にあるににたれども而今なり。」p.273

玉城訳は以下。

「三頭八臂は昨日の時であった。丈六八尺は、今日の時である。しかし、昨日・今日の道理というのは、昨日が過ぎて今日が来ているのではない。たとえば、山の中に入って、千峰万峰を一目にみわたしているような時節である。決して過ぎ去ったわけではない。三頭八臂もあり、丈六八尺もある。三頭八臂も、すなわちわが有時として経過した。かなたにあるようだけれども、永遠の今である。丈六八尺も、すなわちわが有時として同じように経過している。あそこにあるようだけれども、これも永遠の今である。」p.274~275

筆者の解釈としては、有(存在すること)は時(時々刻々の今)の峰々であり、音はその連なり(みわたし)ゆえ「永遠の今」、という感じ。いずれきちんと書く日も来よう。昔、武満徹で書いてみたが稿を紛失した。

(2021/1/15)