Menu

カデンツァ|リズムと「人・間(人間)」|丘山万里子

リズムと「人・間(人間)」
Rhythm & Human nature

Text & Photos by 丘山万里子( Mariko Okayama)

小一の孫がリズム音痴だという。どうにかならないか、と親が言ってきた。集団での「せーの!」に合わない。ずれる。みんなでダンスする時も身体がしゃっちょこばって音楽にノレない。先生に注意されるし、浮く。このままでは先が心配、というのだ。
ちょっとぐらいずれたって、別にいいじゃない。本人が気にしてないなら、ほっとけば(本人は気にしてない様子)。それでいじめにでもあったら、その時はみんなで守ればいいでしょ、とそっけなく答えた。

とはいうものの。先生に怒られるのはなんだか嫌だなあ。どの程度音痴なのか見るだけ見てみようか、と本人を呼んだ。
私は音感もリズム感も決して良い方ではない。だがまあ、音大には行ったし、学生時代から子供達にリトミックやピアノを教えて稼いでいたし、我が子のレッスンに同伴、先生方の教授法も逐一見てきたから、何も無いわけではないが、そんな経験など時代遅れ、くらいはわかっている。さてどうしたものか。
まずは、脱力だ。はい、力を抜いて、両手をだらーん。
など言っても彼の脱力状況がどの程度かなど、見たって私が把握できるわけがない。
で、向き合って両手をとり、振り上げ、ぱっと放してみた。
上げる時は大きく息を吸い(大げさに)、落とす時は吐く、の繰り返し。
ヨガでは「吐く」がキモだが….はて。
「いち(目を合わせ)、に(吸う)、さーん(吐く)!」
すると、何となくわかってくるではないか、相手の力の入り加減、抜き加減が。
はい、じゃ、今度は君が私にそうやって。力を抜いた手を彼に預けた。
ちょうど前日だかにM・ジャクソンの TVを観て、その身体反応、反射神経のすごさに驚嘆したばかりであったから、昔の彼のCDを引っ張り出し(ミュンヘンはオリンピックスタジアムでの公演には子ら二人を連れ大興奮したのだ)、それを大音量で鳴らしつつ。
じゃあ、音楽に「のる」には? 音が鳴ると自然にくいくい身体が動く今どきの子とこの子は明らかに違う。騎馬でなく農耕タイプなんだろう。タイミングをどうつかむか、だ。
今度は手つなぎのまま音楽に集中しながらその波に乗って行くタイミングを計る。耳を傾け、小さく、あったかく、柔らかな手を握っていると、なんだかじんわり、染み入ってくるものがある。久しく忘れていたこの感じ。
触れる、つながる、伝わる…,。
10分にも満たないそんなことを、ほぼ毎夕続けて数日、音楽と一緒に彼の身体が微妙に揺れるのに気づく。血流が音楽に合わせどくどくと巡り始め、握った手のひらにその波が届いてくるのだ。
するうち、全身の神経がじんじんと手を通して私に信号を送ってくるではないか、「行くよ!」と。見つめ合い「今だ!」、大きく吸って吐く。息と手が一致、宙を舞ったその瞬間。
「おおおぉ、ぴったりあったね!」
私たちは飛び上がって喜び、叫んだ。
この感じさえつかめば、大丈夫!リズム音痴なんてどうでもいい。音楽の波動に一緒にのることの楽しさをこの子は確実に感じとった。それが一番大事なことだ。
3週間、彼は階下の私の部屋にタッタカ来て、手を握り合い、踊った。どころか、やがてどんどこ一人で飛び跳ね、身体をくねらせ、即興「表現」「創作」するに及んで、私はリズム音痴卒業証書を大好きレッドメロンとともに授与したのであった。

そんなさなか、山極寿一『科学季評〜文化の力奪うオンライン』(2/11朝日新聞)が目に止まった。曰く、人類は長い進化の過程でゴリラの3倍の脳を持つに至ったが、その大きさになったのは言葉以前のこと。では何が脳を大きくしたのか。
「それは身体の動きを他者に同調させ、リズムに乗りながら全体を調和させる音楽的なコミュニケーションだ。」
コンサートやスポーツで見知らぬ人と一緒に心身を震わせることができるのは、人間だけが持つ不思議な同調能力のおかげだという。山崎正和の「社交は文化そのものだ」という言葉とともに、社交の場としての音楽ホール、舞踏場、レストラン、酒場などの空間が持つ意味を説く。
「参加者は表情も発言も内面の感情も、その起伏に合わせ協力してリズムを盛り上げねばならない。行動の全体を音楽のように一つの緊張感で貫くことが必要なのだ。オンラインではこのリズムを作ることができない。」「リズムが社交を作り、社交の積み重ねが文化として人が共感する社会の通奏低音になる。であれば、やはり人々は集まりリズムを共有する試みを怠ってはいけない。」
私は重ねて思った。本来、生きものは、身体の接触が不可欠なのだ、と。小さな手から流れ込む命の脈動は、はっきりそのことを私に思い出させた。コロナにあって、集うことすら禁じられた私たちが、どれほど今、「触れる」ことに飢えているか。文化は、人間が人間らしく生きるための必須の土台を支えるものなのだ。そうして音楽は、リズムと調べ、そして協和で、最も直裁にそれを伝える。
昨冬、久しぶり顔を合わせた隣席の知人評論家が「マスクをしていると音楽と一緒に呼吸できない」とこぼすのに、私は大きく頷いたのだが、いつまでこんな遮断に耐えねばならないのか。この状況を生んだのは、経済至上の流通を追い、自然を侮った私たち自身であることは確かだけれど。

ノーベル文学賞のカズオ・イシグロの新作『クララとお日さま』(早川書房)は、少女ジョジーが親友に選んだ AF(人工親友)クララの話。クララは「観察と学習への意欲が飛び抜け、結果としてどの AFより精緻な理解力を持つ」特性を備え、ジョジーの母親に「感情がないってすばらしいことだと思う。」と言われ、少し考え「わたしにも感情はあると思います」「多くを観察するほど、感情も多くなります。」と答えるようなロボットだ。
ジョジーは「向上処置」の副作用からか、病が重症化しつつある。幼馴染のリックは処置を受けず、学力は高いのに孤立し大学進学もままならない。それぞれの選択をした彼らの母親の苦悩とその後の状況の中で、クララが何を成し得るか、が物語の筋。『私を離さないで』でクローンの愛と哀しみを描いたイシグロの近未来は、今回もロボットの自己犠牲に収斂するが、そこに至るクララの了解は印象的だ。
「どんなにがんばって手を伸ばしても、つねにその先に何かが残されているだろうと思うからです。母親にリックにメラニアさんに父親….あの人々の心にあるジョジーへの思いのすべてには、きっと手が届かなかったでしょう。」
「特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中にではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。——私は決定を誤らずに幸いでした。」
「人」という生身の存在は、完全複製・引き継ぎ可能なものではなく、周囲のすべての愛、関係性の中にこそある、という了解は、人間が「人・間」と表記されることを思えば新しい認識ではない。けれども人は繰り返し繰り返し、そこに立ち戻らねばならない、確かめ合わねばならない、そう、イシグロは言うのだろう。

パンデミック以降、世界は急速なデジタル化にある。同時に、「向上処置」(遺伝子編集)のような国家戦略のもと、世界がさらなる格差社会に暴走しない保証などどこにもない。人間の欲望は結局人間を食いつぶす。私たちはどこで、何をもって、人間にとどまることができるのだろうか。
クララは嗅覚を持たず、ジョジーの匂いを知らない。抱きしめられても、おんぶされてもその感触を知らない(と、イシグロは設定する)。
展示ショップからジョジーの家に迎えられ、寄り添い続けたクララは、元気になった彼女の旅立ちを見送ったのち、廃品置場の硬い地面の一隅に身を置く。

リズム音痴の小一が私に教えたこと。

  1. 機械の打ち込みビートと人の手拍子は異なる。掛け声「せーの」も実は一律ではない。それなら何に「合わせたらいいのか」。何をもって、「合う」というのか。
  2. 人には「ゆらぎ」がある。血流は流動で、一律ではない。触れ合う行為は必ず、その「ゆらぎ」をも伝える。だから、常に注意深くあれ。
  3. 触れ合い、は視線でも声でも可能だ。けれど「肌を合わせる」感覚を失ってはならない。握手にしても頰ずりにしても。それは私たちが生きるに必須の生理だ。
  4. リズムは命の脈動だ。人の波動は引力斥力そのもの。だからリズムは人それぞれの固有の引力斥力だ。握り合う手は一瞬でそれを伝え合う。
  5. リズムの同期同調は「間」の調整、引力斥力の調整で、決してビットに解析可能な合致でも一致でもない。呼吸の微細なゆらぎを必ずそこに含む。だから「合わない」ことを恐れるな。自分固有のリズムは大切にせよ。
  6. かつ、ともに合わせる快感が開く扉こそ、人を豊かに押し拡げる。合わせる喜びにも手を伸ばせ。

子供たちの未来が、互いに触れ、つながり、伝わるものであるよう、私は祈るばかりだ。

♫ 青木十良語録

オケを振ったとき、出だしの棒を横にスーッと流した。そしたら、どこで出たら
いいかわからないって。好きなところで出て欲しいからこう振ります。出たいと
ころで出てくれれば自然にスーッと柔らかく始まる。それがいい。これ、競馬の
馬みたいに、いっぺんに揃って出たらおかしいんですよ。

今の子供達、リズムを知らない。そこの水たまりを飛ぶつもりでパッと飛びな
さい、と言ってもわからない。身体使って遊んでないからですね。日本の先生
は数えて教えますよね、3拍子でもなんでも。でも数字できちっと数えられるも
のじゃないです。リズムってのは、微分した数じゃない。

(2021/4/15)