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Books|ジャニ研!Twenty Twenty|西村紗知

ジャニ研!Twenty Twenty ジャニーズ研究部

大谷能生、速水健朗、矢野利裕 著
原書房
2020年6月出版
1800円(税別)

Text by 西村紗知(Sachi Nishimura)

ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川がこの世を去ったのはおおよそ一年前のこと。その時真っ先に脳裏に浮かんだのは、「これからもジャニーズ事務所のタレントたちは、互いを『くん』付けで呼び合うのだろうか」という疑問だった。
戦後日本の芸能界で存在感を発揮し続けてきたジャニーズタレントと、他の事務所のイケメン俳優とで、一体何が違うというのか。一つ一つのディテールを思い出してみる。衣装、顔のタイプ、髪型、バラエティ番組での振る舞い――見た目上のディテールは、流行に応じて相互でいくらでも模倣ができそうなもので、あまり決定的な要因とはなるまい。それよりも、あの「くん」付けである。いわゆる若手イケメン俳優は事務所の先輩俳優を「くん」付けで呼ばない。10代20代ならまだありうるが、中年になっても互いを「くん」付けで呼び合うのは、ジャニーズタレントくらいだろう。
なぜ彼らは「くん」付けで呼び合うのか。かねてから私は、あの「くん」付けは外ならぬジャニー喜多川のために実行されているのではないかと思っていた。そして、「くん」付けで呼び合うことは、父と子の関係性を子の間で内面化させることに通じているのではなかろうかと思うのだ。
「くん」付けで呼び合うたびに、ジャニーズタレントは「我々はジャニー喜多川の子供である」と表明しているようなものだ。子の間には、もちろん芸歴の差による上下関係はあるにせよ、これは飽くまでも兄弟関係くらいのもので、子の間に別の親子関係が生まれてはならない。つまり、ジャニー喜多川とは別の権威がそこにあってはならない。そうすればすぐに分断が生まれ、子供らのアイデンティティも失われ、帝国は瓦解するだろう。彼らジャニーズタレントはこうして、アイドルの条件である若さを、自らが父にならない組織構造に身を置くことで維持している。
そうして、ジャニーズタレントにまつわる諸々のディテールは、ジャニー喜多川の彼ら「子供たち」に対する独特の支配構造の現れでもあろう、とも思う。どれほど自発的な行動でも、そもそもその子供たちはジャニー喜多川によって選ばれたのだから。……戦争に負けて、あらゆる権威的なものが疑わしくなるなかで、父と子の関係もまた宙づり状態になった日本の戦後社会において、日本とアメリカ二つの祖国(敗戦国と戦勝国!)を持つジャニー喜多川は、少年たちを前にし、さまざまに変容した。時に野球を教え、時に掃除人に変装してオーディションを見守り、時にホタテの貝柱の干物を与え……しかしなによりも、少年たちの人生を左右する敏腕プロデューサーだった。
硬直しない、柔らかな権威。少年たちの商品/人間という二重性格を受け入れる権威。そして日本とアメリカ、男性と女性といった、常に複眼的な権威……戦後日本社会にとって、ジャニー喜多川の存在意義はそうしたところにあっただろう。権威をめぐる問題点と共にあるがゆえに、ジャニーズは流行に左右されにくく、どこか謎めいていて、魅力的なのだ。しかしながら結局のところ、あの誠にプライベートな少年愛の世界!

だが、ジャニー喜多川は亡くなってしまった。父はもういない。

――と、始めから通読後の個人的な所感を述べるかたちとなってしまい恐縮だが、本書『ジャニ研!Twenty Twenty ジャニーズ研究部』は、大谷能生、速水健朗、矢野利裕ら3人の批評家によるジャニーズ研究本である。トークイベントの書き起こし原稿が本文の大半を占めており、本書は2012年の第1版の増補改訂版とのこと。第1版発売以降に起きた出来事をフォローする鼎談とコラムが加えられ、この間ジャニーズ事務所は揺れに揺れているが、大きなところで言うと中居正広退所くらいまでの出来事が追補されている(ちょうどこの原稿に取り組んでいる間に、長瀬智也も退所してしまった!まだ手越祐也の退所についても胸のざわつきが収まらないうちに……)。とにかく、ジャニー喜多川逝去という一大事を彼らは見逃すことができない。この本の詳らかにしようとするのが、ジャニーズタレントそれぞれの人物像ではなく、ジャニー喜多川の創作史だからだ。もちろんジャニーズ事務所は続いていくが、ジャニー喜多川の活動は一旦幕を閉じたのであるから、この本は増補版というより完全版といったほうが適切かもしれない。
本書の目的は、章ごとで観点が切り替わるものの、基本的にはジャニー喜多川の創作活動を実現する者としてのタレントたち、そしてその活動(CD、ドラマ、コンサート、ミュージカルなど)の、洋楽史上、芸能史上の位置づけを探ることにあるだろう。そうした位置づけ作業の動機となるのは、ときに「トンチキ感」と称される、何から霊感を得たかわからない、ジャニー喜多川のセンスであり(例えば、シブがき隊の衣装をネット上の画像検索で見ると今更ながら驚く)、つまるところ本書は、ジャニー喜多川のセンスの謎を解明する目的をもつものといってもよさそうだ。これはそのまま、ジャニー喜多川の複雑なアイデンティティの問題である。戦前・戦後の日本とアメリカを股にかけ、いずれの芸能・音楽にも親しむことができた人間の、その霊感の元を探り当てるのは並大抵のことではない。ジャニー喜多川の生きた時代の芸能・音楽の知識を必要とする作業であるというだけでなく、日本が戦後になって抑圧した戦前の音楽、諸々のイデオロギーに向き合う作業をも必要とするであろう。例えば、GHQによって大量に破棄されたと言われる、軍歌たち……(この例は本書では登場しないが、実に初代ジャニーズのデビュー曲「若い涙」はマーチ調で、NHKのラジオ歌謡の中にあっても不自然でない、唱歌の趣である)。
さらに、洋楽史・芸能史における位置づけを見定める考察から派生して、ジャニーズ内部の伝統継承の問題(副社長となった滝沢秀明はジャニー喜多川のセンスを継承できるのかという、どこの会社にもありそうな2代目経営者の問題でもある)、世相を反映する存在としてのジャニーズ、といった具合に、日本社会への視座を取り出そうとしている。これは主に、SMAPと嵐の問題として捉えられているようだ(特に、本書284~294頁)。SMAPが図らずも切り開いた、ドレスダウンしたアイドルの在り方は(羽飾りやスパンコールがたっぷりついたナポレオンジャケットを、SMAPが着ているところなど想像できない。その衣装に見合ったダンスをやっているところなんて見たことがないのだから!)、彼らに日常の労働者の視点からなる表現を獲得させ(キムタクの演じた役の影響で美容師になった人がどれだけたくさんいることだろう!)、そしてその路線は嵐へと継承されていく。しかしそれは、どこまでいっても彼らはアイドルであって実際の労働者とは異なるという現実の上にあった。実際、SMAPは空中分解のように解散した。だが、嵐は活動休止を発表することに成功する。会社員とは違って替えの利かない芸能従事者であっても、普通の労働者のように休職の道を選ぶことができたというのは、昨今の働き方改革の風潮の中でも一層インパクトのある出来事だった。
こうして本書の関心は、日本社会全体への広い射程をもつ。しかし何分ジャニーズの専門家によるものではないので、読者の目を引く記述となると、やはり各々の批評家の専門性が発揮されている箇所であろう。であるからして、やはりポピュラー音楽研究の書、といった読後感が強い。

第1章「ジャニーズとデビュー」では、歴代ジャニーズタレントのデビューシングルを一挙に紹介。そこで、作品の概観やフレーズを思い出せるのは大抵、馬飼野康二の作品だと気付かされた。King&Princeの優れたダンススキルを言語化する際の、LDH(EXILEなどが所属する芸能事務所)式のダンス・スタイルに対してジャニーズはショー・ダンスの伝統を統合させて応答しているという指摘には、大いに共感した。

第2章「ジャニーズとコンサート」は、ジャニーズのコンサートビジネスの変遷、実際のコンサートの演出史を概観し、LDHや秋元康プロデュースなどの他のコンサートビジネスと比較している。

第3章「ジャニーズとディスコ」。ディスコ・カルチャーとジャニーズの音楽との関連性に触れられていて、影響関係の指摘、音楽の言語化の機微には舌を巻く。「あの時の○○くん、かっこよかったなぁ」くらいにしか言語化しない己を恥じることとなる。

第4章「ジャニーズとタイアップ・ビジネス」では、ジャニーズのタイアップ・ビジネスを日本の広告業界の歴史に照らし合わせ振り返り、ジャニーズタレントがいかに世相を反映してきたかを確認する。オリンピック開会式の話題では、ジャニー喜多川と「日本」との距離感も浮き彫りに。

第5章「ジャニーズとミュージカル」。ジャニーズの本質はマスメディアでの活動ではなく、ミュージカル制作にあるのではないか、という切り口から実に独創的な議論が進む。宝塚との関係を考察し、大正童心主義についても触れられており、学会論文になってもおかしくない内容だ。

そして第6章「ジャニーなき後の13月を生きる」。ジャニー喜多川が亡くなった後の、現在のジャニーズタレントの動向が押さえられている。公式Youtubeチャンネル開設や、相次ぐ有力タレントの退所など。

ポピュラー音楽研究の書という読後感から、これはアイドル研究の書ではないのではないか、と疑問を抱くに至る。この印象を精査すると、以下の2つの点に起因するように思う。
一つは、ソロアイドルの系譜についての言及があまりなかったこと。本書に、山下智久や中山優馬について集中的に書かれた箇所がないということは、アイドル研究における客観性獲得の可能性に鑑み、重大である。確かに郷ひろみ、田原俊彦、近藤真彦についての言及はあったが、それも音楽作品としてみたときの面白さや、当時の若者像の反映された姿についての考察、または後のジャニーズタレントへの影響関係についての考察であって(郷ひろみの眉毛が濃くて中性的な面立ち、近藤真彦の憂えた不良少年の瞳は、その後何度もジャニーズタレントの典型的な属性として回帰することとなる)、そのような考察は、アイドルへ向けた問いとしては副次的な域を出ない。より重要なのは、ジャニー喜多川の恩寵の純度がどれほどか、ということだ。つまり、純粋な、ジャニー喜多川の好みの領域。言うなれば、ソロアイドルの系譜は性癖の系譜である(これほどプロデューサーの好みが見え透いたソロアイドルなど、他の事務所にいるだろうか!大抵どこも、世間の需要に応じたアイドルを送り出すだけだ……)。いくら説得力のある仕方で系譜付けができようと、音楽の元ネタを看破できようと、この領域に足を踏み入れることはできない。
もう一つの点は、ファンとアイドルとの関係性についてである。ここにはあまり焦点が当てられていないと感じた。しかし、他の事務所のアイドルを引き合いに出しつつ、重要な指摘がされている。
それは、「AKB48とはシステムであり、LDHはリーダーを社長に置く企業体であり、ジャニーズは家族共同体である」(103頁)というもの。展開の余地も含め非常に有意義な診断であるように思う。
その3つを比べれば、ジャニーズが最も、ファンの意向がどのように反映されるかが見えないという意味では、確かに自律性が高い(長年本当に危ないファンとやり合ってきたからかもしれない)。AKBグループのやり方は、どうもやっぱりパブリックな売春であるし(握手券が流通しさえすれば、その握手券がどこのだれが買おうと運営側にとっての価値は一緒だ)、LDHもまた、マイルドヤンキーの購買意欲に合致し、ファッションの提案をすることで彼らのライフスタイルに溶け込んでいるような感じがある。特にAKBグループのシステムが、ファンを代替可能な消費者として扱わざるをえないのに比べ(もちろん、「あなたのアイドルの愛し方は消費活動です」と言われて、怒らないファンなどいないだろう)、ジャニーズタレントはファンとの距離が妙に遠い。
だから、ジャニーズのファンは売上を上げるシステムを回す消費者という感じがしない。だが、家族共同体だろうか。なるほどファンの間では、親子2代そろってファンというのは本当に多いだろうし、世襲制のファンというのは流行に応じるだけの消費的態度とは一線を画すと言えるだろう。しかしファンとジャニーズタレントとの間の家族関係とは?ファンもまた、ジャニー喜多川の子供たち、なのか?
「家族であれ」という要請がジャニー喜多川からファンに向けて発せられたものだとすれば、それはむしろ、ファンとジャニーズタレントとの間にしっかりと、接触しないように、なおかつ囲い込むように線引きをするものだ。家族なんだから、性的な関係などあってはならないし、でも家族なんだから、何があっても一緒にいなさい、と。個人の欲求を組織の側に引き寄せていく、柔らかな(あるいはダブルスタンダードな?)権威が、機能しているのではないかと思えてならない。
だから、ジャニーズをめぐる問題は、やはり家族の問題だ。私は、この辺りに問題意識があると思いつつも、今はこれ以上書き進めることができない。
だが、ファンにとってもまた、ジャニー喜多川の不在は、これから強く実感されるべきではなかろうか、と思うばかりなのだ。

最後にひとつ。これは全くの余談だが、ジャニーズにおける父と子の関係を克服するポテンシャルを最も強く持つタレントは誰か。退所し「新しい地図」で音楽活動をはじめ、いわゆるアーティスティックな活動をやる香取慎吾?それとも、相も変わらず「キムタク」の偶像を背負う木村拓哉?
おそらく、中居正広だろう。ガラスの小瓶に入ったジャニー喜多川の遺骨を、「これはタッキー(滝沢秀明)がとっといてくれたもの」と言い、退所会見で報道陣の前に置いてみせた中居は、やはり相当な切れ者である。中居ほどに予見できているタレントは他にいない。父と子の関係は、一度終焉しても、いずれ再び何らかのかたちで、その都度回帰するだろう。

(2020/8/15)