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Books|オールド・ファッション 普通の会話|藤原聡

オールド・ファッション 普通の会話

江藤淳 蓮實重彦
講談社文芸文庫

Text by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)

1988年の中公文庫での初出以来久しく絶版であったが、この度講談社文芸文庫で復刊されたのが江藤淳と蓮實重彦の対談集である本書である。20世紀後半の日本を代表する大批評家であるこの2名。しかしその持ち味は違い、守備範囲も重なるところはあるにせよかなり異なっていよう。しかも両者が邂逅した記録もない。だからこれは「世紀の対談」といった大げさな冠が冠せられても不思議ではないところだが、しかしまるでそんな風情ではない。バブル期前夜の昭和60年4月8日から9日にかけての東京ステーションホテルの食堂で、あるいは客室で、ディナーや食後のコーヒーを嗜みつつそれこそ肩の力の抜けた、普通の、他愛ない会話を収録したのが本書である。
つまり、編集者は敢えてこのような体裁にしたということだ。何をどう考えたのかの筋道は知らないが、この巨人2名を普通に対談させてもつまらない。そこで一計を案じ、寛いだ中でのざっくばらんな「雑談」(?)を引き出すことを狙ったのだろうか。章立ては6つ、それぞれ「食堂にて」「食後のコーヒー(グリルで)」「ブランデーを飲みながら(205号室)」「チョコレートの時間(205号室)」「朝の食堂」「朝の対話(205号室)」とある。
しかも、それぞれの章の冒頭そして合間にはまるで芝居のト書きのような状況説明の文章が置かれている。最初はこんな具合、「黄昏時の食堂。明るさの残る窓外は、電車の発着する様子がよくみえる。時間が早いせいか、お客の姿はまだない。両氏、中央奥の席に。BGMは、「碧空」等、コンチネンタル・タンゴの数々」。

確かに楽しそうだ。この2人の批評文から感じ取れる攻撃的あるいは挑発的なトーンはほとんど感じられず、極めて上品かつアダルトな、タイトル通りの「普通の会話」が粛々と進められていく。東京駅というトポスから話は鉄道、そして海外生活、映画、美術、もちろん文学など多岐に渡るが、しかし次第にこれらの肩肘張らないお話の中から浮かび上がってくるのは「問題」という問題である。
第1章初めの方で江藤がラファエル前派の絵画を見て歩いた時のことを語る折、「ご承知のとおり、ちょうど蓮實さんのご本に触れられている<問題>の時代になってからの絵ですからね」との言葉が出て来るのだが、この「ご本」とは蓮實の『物語批判序説』のことであり、そしてこの『問題』についてのやりとりが大きく前面に浮上してくるのが「ブランデーを飲みながら」と「朝の対話」の章である。この括弧付の<問題>は蓮實重彦の著書にある程度親しんでいる読者であればご存知ではあろうが、問題とされているもの自体の虚構性あるいは制度性、そしてその制度を制度たらしめている時代的な枠組みである(尚、音楽批評誌ということで例示するが、オペラ『椿姫』におけるヴィオレッタ――デュマ・フィスの原作ではマルグリット・ゴーティエ――の好きな男から身を引く振る舞いは明らかに第二帝政期の物語的要請――要は<問題>だ――である。この後の第三共和制ではもっと猛々しい女性像となるだろう。また、蓮實がこの対話の時期に<問題>と<物語>を巡って書き進めていた『凡庸な芸術家の肖像―マクシム・デュ・カン論』における時代も第二帝政期のパリであり、20世紀に繋がる<問題>や<言説>がこの時代に形作られたと『物語批判序説』で書く)。

本書の読者は「オールド・ファッション」であるべきこのリラックスした「普通の会話」が、やはりというべきか蓮實にあっては<問題>という問題、そして江藤にあってはあの衝撃的な23歳時のデビュー作『夏目漱石』で展開したほとんどマニフェストのような偶像破壊における攻撃性をうっすら孕んでいることに気が付く。ありきたりな<問題>(設定)からいかに逃れうるか。但し、蓮實における<問題>の回避とはいくらこの批評家の文体が特有かつ個人的なものに見えたとしてもあくまで個人の「私(わたくし)性」を消し去ろうとしているように見えるのに対し、江藤の場合は逆に個人的なルサンチマンがその根底にある(江藤の著作の題名に『~と私』というものが多いことに注視しよう)。

批評的著作ではないかような企画的対話にもそれらと通底する批評性が露呈しているのはまさに根っからの「批評家」である。まあ当たり前のことかも知れないが、しかし魅力的な本であり、江藤淳と蓮實重彦の批評の読み手にも本書はさほど知られていない気もするのでこれを機に是非読まれたい。

(2020/3/15)