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Books|アートートロジー 「芸術」の同語反復|藤原聡

アートートロジー 「芸術」の同語反復

佐々木敦 著
フィルムアート社
2019年2月出版
¥2,500+税

text by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)

例えば「石は石である」、あるいは「チョコレートはチョコレートである」との文章があったとする。この場合、この文章は何も言っていないに等しい。だってそうでしょう、A=Aだと言っているだけなのだから。しかし、この同語反復=トートロジーがその背後に膨大な意味を担ってしまうこともある。それは石なりチョコレートの語の代わりに「アート」なる文言を入れた場合だ。

本書の冒頭でいきなり出て来る佐々木敦の造語「アートートロジー」=アートのトートロジー、つまり「アートはアートである」。以下は補助線としてのエピソードだが(本書に登場する訳ではない)、有名な葛飾北斎による「龍田川の紅葉」。足に朱色の絵の具を付けた鶏を放って「龍田川の紅葉でございます」と徳川家斉に申し上げたというあれである。北斎が描くという事実がある(あるいは事実と思わせることが出来ている)限りにおいて「アート」となる。あるいはゴッホ。この画家は生前絵もろくに売れず、ごく一部の人を除いてまともに評価されなかった。しかし今はその『ひまわり』が53億円で売買される。

この2つのエピソードを見るに、つまるところそれが最大公約数の人間に「アート」と思われているかいないか、という話になり、その結果二束三文で売り払われたり国立西洋美術館に飾られたりする。但し、この例ではまだ表現の内実をめぐる認識が問題とされていた。では「アートはアートである」とは。これはものすごくあっさり言えば「アートと言えばアート」という話であり、あるいは「アートと思われたらなんでもアート」ということだ。これは内実の問題ではない。

その意味で本書の冒頭と末尾に登場する、あのあまねく有名なマルセル・デュシャンの『泉』。周知のように、これはただの男性用小便器である。これを当初「第1回アメリカ独立美術家協会展」にデュシャンが自らを明かさず出品(というよりいきなり送りつけた)際、協会側は展示を拒否する。しかし、ここで説明すると長くなるので詳細/経緯は省くが、この便器である『泉』は今や「アート」になった/なってしまった。

最初に挙げた北斎やゴッホの話であれば、繰り返すが「目利きがその内実に即して評価をする」という行為抜きには考えられない。しかしデュシャン以降、『「認識ではなく「習慣」に、「意味」よりも「制度」に、「真実」よりも「値段」に、いつの間にか「アート」は重心を移動していた」』(本書coda「アフター・アートトロジー」より)。アートにおいてデュシャン以降を現代とするならば、我々はより個々の創作に即して繊細な価値判断(往々にしてそれは状況論ともなるだろう)を行なわなくてはならない。

「アートトロジー」なる佐々木敦の造語は、現代アートのこの同語反復たる状況を端的に表すためのものだが、それを佐々木は自らが観た作品や展示をきっかけとして解き明かして行く。時評から本質論へ。本書登場人物は「小泉明郎、佐藤直樹、横尾忠則、ジョン・ケージ、ゴードン・マッタ=クラーク、奥村雄樹、ミヤギフトシ、大友良英、クリスチャン・マークレー、泉太郎、田中功起、ニコラ・ブリオー、会田誠、小沢剛、アーサー・C・ダントー等々」(佐々木のツイッターを引用)。

本書が提示しているような問題は他のアートにも共通するだろう。ここでは音楽を例に取れば分かりやすいだろうが、音楽では他でもないジョン・ケージの『4分33秒』(本書でも言及される)があり、「交響曲は作曲者が交響曲であると言ったら交響曲なのだ」(池辺晋一郎)などという問題提起もあり(池辺流ジョークが本質を突く—笑)、あるいは近藤譲は「現代音楽はそれに適応した場所で行なわれるから(演奏されるから)現代音楽なのだ」と書いている。

現代アート総体への思考を促す本書、得るものは多い。

(2019/3/15)