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音楽にかまけている|シュトゥットガルトの新体制とヘンツェ《ホンブルクの公子》|長木誠司

シュトゥットガルトの新体制とヘンツェ《ホンブルクの公子》

text by 長木誠司(Seiji Choki)

ドイツ中央部の街シュトゥットガルトの王宮に近いバーデン州立歌劇場は、広く美しい公園内の立地といい、そのいかにも昔ながらの新古典的な劇場建築といい、ドイツのなかでもとりわけ雰囲気のよい劇場だ。1階のパルケット席は左側から奇数番号、右側から偶数番号の席が並び、これも昔ながらで慣れないと自分の席が見つからない。入り口を間違えるとたどり着くのがたいへんだ。扉の段階ですでに客の差別化が行われる、その意味でも社会に序列と格差のある時代の配置なのだが、ここは1960年代よりジョン・クランコの指導による優秀なバレエ団を持ち、その伝統を護りながら、同時に非常に新しいオペラ演出のプロダクションを目指してきたところでもある。80年代にはフィリップ・グラスの(ドイツにしては意外な)ミニマル・オペラ《アクナトン》を世界初演するなど、オペラハウスとしては作品制作にも時代を先導する役割を担ってきた。ベルリンやミュンヒェンやハンブルクの陰になりがちであるが、地味ながらその実ドイツ、あるいはウィーンやチューリヒを含めたドイツ語圏を超えて国際的なレヴェルの活動をしてきた劇場とも言える。
日本にとっては、昨シーズンまでシルヴァン・カンブルランがGMDの任にあったことで、もう少し身近に感じてもよさそうな存在であるし、同じく昨シーズンまでインテンダントの地位にあった演出チームのヨッシ・ヴィーラーとセルジョ・モラビトのコンビが、最後に新制作したのが細川俊夫の新作《地震、夢》であるという点でも、もっと親しみを持ってもよいはずの劇場だ。一般のひとにとってはベンツやポルシェの街であるものの、街の規模が小さく、観光名所もほとんどないというのが、街の印象を地味にしているわけであるけれど、その分落ち着いてものを作ることができる街でもあり、文化水準はかなり高度である。
インテンダントが替わり、またGMDも日本に少しだけ馴染みのある、しかしまったく本領を発揮できていない若手のコルネリウス・マイスターに替わった今シーズンは、開けてみると20世紀オペラの新制作が意外に多く並ぶラインナップになった。ヴィーラー/モラビト時代も、それで鳴らしていた劇場であり、カンブルランも同様の方針であったはずだが、その伝統を受け継いだというか、ちょっとばかり先へと駒を進めた印象である。シーズン中のプレミエとなった8作品のうち5作品までが20世紀もので、そのなかのバランスも多岐にわたっていてよいと思う――バルトーク《青ひげ公の城》、プロコフィエフ《3つのオレンヂへの恋》、ブレヒト/ヴァイル《7つの大罪》、ヘンツェ《ホンブルクの公子》、アダムズ《中国のニクソン》。これに《ローエングリン》、《トーリードのイフィジェニー》、《メフィストーフェレ》が加わる。
基本的にレパートリー制を採っている劇場であるため毎日演目が替わり、プレミエ以外の演目はある程度年間にわたって散りばめられていることもあって、ヴィーラー/モラビトによるプロダクションがすぐになくなるという風でもなかった。2018年内は《アリオダンテ》をはじめ3演目、19年にも3演目ともっとも多く、ある程度前任者への配慮が見られる。もっとも、細川の新作の再演は期待できないであろうし、これらも少しずつ減らされて、新たなプロダクションに入れ替えられていくのではないかと思われる。とはいえ、コンヴィチュニー演出の《メデア》やデッカー演出の《トスカ》、マルターラー演出の《ホフマン物語》、ビエイト演出のワーグナーのなかでも《オランダ人》が再演されており、話題になったプロダクションは折を見て再演されている。
というわけで、昨年の11月から毎月ほぼひとつずつ、20世紀オペラを新制作してきた劇場だが(手間を考えるだけで気が遠くなる)、シーズン幕切れには、息切れしそうなひと(制作側・聴き手側双方で)のために古典作をふたつ続ける。なかなか洒落たはからいではないか。20世紀もののトリを取ったのは《ホンブルクの公子》と《中国のニクソン》であるが、このふたつもまったく性格を違えた作品で、その意味でも憎い配慮が覗かれよう。
さて、たまたま2作が連日上演される日があったので(5月3日、4日)、新インテンダントのお手並み拝見という気持ちで出かけてみた。作品の性格も異なるが、演出もどちらも実験的とはいえ、かなり異なった視点からのアプローチであった。ことに、《中国のニクソン》の方は、初演のピーター・セラーズ(作品そのものの制作にも監修的に参加)の演出で(ヒューストンとニューヨーク)見慣れていると、まったく訳の分からない世界に連れ込まれてしまう。

《ホンブルクの公子》より 写真:Wolf Silveri

この作品は、昨年にはヴュルツブルクで日本の新鋭である菅尾友の演出で上演されており、少しずつ異なった制作が行われるようになったアダムズの人気作だが、初演のセラーズ演出が典型であるように、これまではニクソン大統領の訪中という、歴史的にもまだ記憶のさほど古びていない〈事件〉、たくさんの映像資料が残されている事件を〈再現〉して舞台上で見せることが肝心であり、またそこが演出家にとって一種の足枷にもなっていた。
マルコ・ストルマンによる今回の演出は、実際の訪中ではなく、あり得た訪中、もしかするとお互いの無理解のなかで決裂したかも知れないニクソンの政治的パフォーマンスを、メディア世界のなかで描くことを試みていた。詳細は別のところで書こうと思うが、登場人物たちは歴史世界を離れて自由にお互いの意見をぶつけ、体をぶつけ合う。このいわゆる〈CNNオペラ〉の代表作も、レジーテアーターの速度に追いつかれたというところだろう。

《ホンブルクの公子》より 写真:Wolf Silveri

クライストの原作で、インゲボルク・バッハマンとヘンツェの共作とも言える《ホンブルクの公子》は、すでに現代オペラの古典的存在だろう。シュテファン・キンミッヒの演出は、現代世界に移し替えるという意味ではレジーテアーターの手法として古典的ではあるものの、次第に今の社会の問題とリンクさせていくやり方で、挑発性が高かった。もっとも、それもレジーテアーターの古典的方法だろうが。
原作で主題化されているのは、個人の決断と法による判断との齟齬。命令に準じない指令を出して前線で勝利を得たものの、それは上官を危機に陥れるような法規違反であって、その廉で死刑判決を受けるホンブルクの公子を、どのように人間は救えるのかという重いテーマが全体を覆っており、本来は18世紀の窮屈な軍律の世界や戦闘場面が舞台上で描かれていくのだが、キンミッヒはそれを非常に抽象的な、いわばなにもない装置と常にほぼ日常的な服装による、公子の夢と現の世界でのできごとに集約した。もともと夢見る公子の、ナターリエとの現とも分別しがたい経験が〈事件〉を導くわけだが、それがどこまでも日常的な空間のなかで、実にリアルな現実感を伴って生じることになる。戦闘場面は、背後のシャワー室で鮮血のような赤色のシャワーを浴びる将校たちの姿に象徴されるのみ。現場での命令を下すはずの元帥は、なぜかひとり日本の侍の出で立ちで、日本刀を振り回している。すべては夢か幻か?

《ホンブルクの公子》より 写真:Wolf Silveri

命乞いをされるブランデンブルク伯は、やがて「自由Freiheit」とプリントされたTシャツに着替え、最後には人物たちがみな舞台正面に一列に並んで自由や連帯を叫ぶ。その意外な大団円場面が、しかしいまひとつパロディ的なのは、それも一種の偏ったプロパガンダに過ぎぬからだろう。
驚いたのは、両作品とも何回目かの上演であるにもかかわらず、客席はほぼ埋まっていたこと。ことに料金の高い席の埋まり具合は驚異である。現代作品であろうと関係なく、劇場に通う文化が社会的地位の高い人間にも浸透している街である。GMDマイスターの指揮が、作曲年代(1960)としては非常にロマンティックな歌唱部をうまく支えながら、きびきびとした響きを常にオーケストラから導き出していた。こういうマイスターの姿を日本で見られるのはいつの日だろう。

(2019/5/15)

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長木誠司(Seiji Choki)
1958年福岡県出身。東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。音楽学者・音楽評論家。オペラおよび現代の日本と西洋の音楽を多方面より研究。東京大学文学部、東京藝術大学大学院博士課程修了。著書に『前衛音楽の漂流者たち もうひとつの音楽的近代』、『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』(作品社)、『オペラの20世紀 夢のまた夢へ』(平凡社)。共著に『日本戦後音楽史 上・下』(平凡社)など。