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音楽にかまけている|ベルリンの「バロック週間」と《サムソンとデリラ》のプレミエ|長木誠司

ベルリンの「バロック週間」と《サムソンとデリラ》のプレミエ
“Barock Tage” und die Premiere von Samson et Dalila in Berlin

Text by 長木誠司(Seiji Choki)

11月のベルリンはバロックものの公演が多く行われた。州立劇場が「バロック週間」であったためである。これは州立劇場とピエール・ブーレーズ・ザールの空間を用いながらの催しで、またそれとは別途にフィルハーモニーにも多くのバロック・アンサンブルがやって来たため、1ヶ月間古楽に存分に浸った印象がある。もともとブーレーズ・ザールは州立劇場のマガザン(大道具倉庫)であったので、両者の結びつきは強いが(バレンボイムつながりだ)、例えばサバールとル・コンセール・デ・ナシオン(3日)、あるいはRIAS室内合唱団(5日)、タリス・スコラーズ(9日)、ダントーネとアカデミア・ビザンティナ(10日)の演奏などは、800席くらいの客席が舞台をぐるり取り囲むブーレーズ・ザールの空間で行われた方が、バロック的な身近さが感じられてすこぶるよい。目の前で演奏が行われている鮮烈さがある。ベルリン古楽アカデミーのように、アレッサンドロ・スカルラッティの大がかりなオラトリオとは言え、州立歌劇場の大舞台にかけるのは、音の拡散があって辛い気がする。州立劇場には、ふだんプレトークや休憩時間の会食に用いているアポロザールという小さな空間があり、ブロックフレーテのドロテー・オーバーリンガーとB’Rockアンサンブルの演奏などはここで行われたが(4日)、これもなかなか音楽に見合った寸法の会場だった。

フィルハーモニーの室内楽ホールにはエマニュエル・アイムとコンセール・ダストレ(27日)やヴェネツィア・バロック(12月3日)が訪れた。所を替え品を替えて、さまざまに優秀なバロック演奏、それも国によって異なるスタイルのそれに集中して触れられるのはベルリンならではかも知れない。

ベルリン古楽アカデミーが演奏したスカルラッティの作品は《哀しみの聖母La vergine addolarata》であったが、今回の「バロック週間」のテーマ作曲家はこのアレッサンドロ・スカルラッティとヘンリー・パーセルであった。後者に関しては、6日に音楽劇の《アーサー王》が州立歌劇場で再演されたし、タリス・スコラーズのプログラムもこの作曲家にちなんでいた。

《最初の殺人》第1幕より
(C) Monika Rittershaus

アレッサンドロ・スカルラッティの作品は、ことに近年再評価され始めており、膨大な数作曲されたオペラやオラトリオ、カンタータも、遺されているものがさかんに蘇演されるようになっているのが、ヨーロッパのバロック演奏界の現在と言ってよいだろう。今回の「バロック週間」ももちろんその路線上にある。

州立劇場で「バロック週間」の初日である11月1日にプレミエを迎えたのは、スカルラッティのオラトリオ《カインによる最初の殺人Il primo omicido》の舞台付き上演であった。ピエトロ・オットボーニの台本によるこの作品は1707年に書かれているが、その後ほかのスカルラッティ作品同様に長らく忘れられ、1964年にスコアが発見されて知られるようになったもの。今回は鬼才ロメオ・カステルッチによる舞台演出が加わっているが、実はすでに共同制作のパリ・オペラ座の舞台には2月にかかっており、評判は伝え聞いていた(指揮とアンサンブルは今回と同じルネ・ヤーコプスとB’Rock)。

《最初の殺人》第2幕より
(C) Monika Rittershaus

旧約聖書にある、カインによる最初の殺人(弟のアベルを)にほぼ忠実に従った物語は、前半がカインとアベルの供物のうち、神がアベルのものだけを認めるまで。後半が殺人の場面となる。カステルッチは本来のオラトリオの形態を意識したのか、前半は祭壇画をうしろに吊しながらも、ほぼ照明変化だけに託しただけの非常に動きの少ない象徴的な舞台にしていたが、後半はがらりと様相を変えた。カインがアベルを誘い出す草むらを装置として、演じるのは両親のアダムとイヴを含めてすべて10歳以下程度の子供たちである。歌は舞台上やピット内でもちろん歌手が歌うが、子供たちはイタリア語の歌詞を絶妙に口パクしながら、舞台上でリアルな演技に撤する。アベルを何度も何度も刺して殺す子供の姿は、大人が演じたときよりも鮮烈な残酷さがあり、神の産み出した人間たちの、本来は純真であるべき姿が歪んでいくさまを象徴的に表したと言えるだろうが、舞台はやや冗長であったのではないだろうか。もちろん、本来は動きのないオラトリオであるが、これでは広い舞台空間をどうしても使い切れていない感が残ってしまう。ただ、だからといって普通の舞台作りでこの非常に残忍な物語が映えたかどうかは疑問でもあろう。その後のオペラへの影響力の大きかったスカルラッティの優しくも雄弁な音楽は、大人のリアルな残忍さよりも、子供をクッションにしたそれこそ神話的な世界に落ち着かせた方が、たしかにしっくり来るのかも知れない。いずれにしても賛否が分かれることを想定済みの舞台であった。

もちろん、州立劇場はバロックものだけ上演していたわけではない。24日には今シーズンのひとつの呼びものであるサン=サーンスのオペラ《サムソンとデリラ》のプレミエがあった。バレンボイムの指揮、ジョヴァノヴィチ、ガランチャ、フォレという強者揃い、鳴り物入りの公演である。

ガランチャのデリラはメトのライブビューイングでもお馴染みだが、いかにも誘惑者デリラに相応しい容姿はともかく、焦点のしっかりした強靱な声と迫真の演技には息を殺して見入ってしまう。対するジョヴァノヴィチは、より抒情的な声のテノールだが、これも強力で、同時に高声のソット・ヴォーチェがたまらない。これが無骨な強者サムソンの声だろうかと思ってしまうほど。そして第2幕後半の二重唱で両者の持ち味と力量が炸裂。そこにフォレが演技力と声量の両面豊かな司祭として暗躍する。3者のタッグで手に汗握る公演であった。

《サムソンとデリラ》の舞台より
(C) Matthias Baus

アルゼンチン生まれのテレビ・映画監督であるダミアン・シフロンがオペラの演出を行うのは今回が初めてだということだが、これもバレンボイムつながりだろう。実舞台としてさして鮮烈な場面こそなかったが、タブローとしての美しさとある程度のどぎつさが前面に出ている。こうした大人しい演出にはドイツ・オペラ評界は沈黙してしまうが、斬新ではないものの、そう悪くもなかったと思う。例えばすうっと風のように現れる巫女たちの動きや、すぐにサムソンの足や手を洗う仕草の触覚的な気持ちよさを客席に共有させる感性など、手際のよいところをいたる箇所に見せたと思うから。

第1幕では、サムソンとデリラ両者が舞台の両端に立って、中央ではそっくりさんのバレリーナがふたり、愛を交わして、すくあとにデリラが妊娠し、またすぐに2名の子供が出来る場面を踊る。デリラの想像上の、そして結局は実現しなかった愛の生活なのだろうが、このバレエ場面の有効な使い方によって、デリラが最後までサムソンを愛していたこと、そして心ならずも裏切ってしまうことが強調される。こうした解釈もありだろう。

第2幕の洞窟の場面はとにかく壮絶だ。弱点を聞きだそうとするダリラに無理やりキスをして頬を張られるサムソン。そのあと彼は彼女を強引に犯し、そのなかで弱点を囁いたのか、突如兵士たちが大勢現れ、山となってサムソンを襲う。そのタイミングの良さ、展開の素早さ、見た目の壮絶さも演出の美点のひとつかも知れない。第3幕では、ガランチャはヒモで吊されているサムソンの縛りを一瞬解いて解放しようとするが、司祭にすぐ見つかってやめる。上半身裸の女性ダンサーに合唱がわんさか混じる、バレエの祭儀の場面は非常にグロテスクだった。ユダヤ人たちに覆面を被せて、子供たちに首を切らせるなど、タリバンやISなど、最近のアラブ過激派のシーンがけっこう出てくる。テレビの見過ぎ、いや監督はテレビのひとだったか――。

第3幕でサムソンにちょっとだけ歌いかけるときの、音楽に登場する愛の二重唱の断片が強く印象に残るが、それが最後、サムソンが柱を倒す直前に司祭をナイフで刺す場面へとつながって、サムソンを愛し、司祭を嫌うダリラの姿が徹底されている。ただ、こうまで分かりやすくすると、少々説明過多かも知れないと思ってしまうが。

バレンボイムの指揮は、克明に音楽をなぞりながらワーグナーばりに煽る。ことに第2幕終場での舞台効果は絶大であった。フランス・ワグネリズムの成果でもあるこのオペラの位置づけを印象づけた舞台と言ってよいだろう。

(2019/12/15)

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長木誠司(Seiji Choki)
1958年福岡県出身。東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。音楽学者・音楽評論家。オペラおよび現代の日本と西洋の音楽を多方面より研究。東京大学文学部、東京藝術大学大学院博士課程修了。著書に『前衛音楽の漂流者たち もうひとつの音楽的近代』、『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』(作品社)、『オペラの20世紀 夢のまた夢へ』(平凡社)。共著に『日本戦後音楽史 上・下』(平凡社)など。