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3月の3つ目の日記 |言水ヘリオ

3月の3つ目の日記

Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)

 

2021年3月6日(土)

ⓒ2021 上田和彦

高田馬場。駅前の広場にはアウンサンスーチーの顔を手にした大勢の人々。列になって、人さし指、中指、薬指の三本を立て厳しい面持ちで一方を見つめている。立ち止まってしばらく声に耳を傾ける。

新井薬師前駅下車。20年以上前、この駅を最寄駅として利用していたことがあり、かなり変化はしているがそれでも懐かしい。駅からさほど遠くない住宅街にある土日画廊に着く。入り口で猫が番をしている。展示スペースである2階へと登り、「上田和彦展」を見る。何が描かれているのだろう。絵の具を含んだ筆先をキャンバスの上で滑らせて、その調子を試しているような筆致が繰り返されている。始点から筆の先が離れるまでの一回の移動。それがときには、文字のかたちを希求することばの元のようにも見えたりする。

 

3月8日(月)

新宿三丁目から歩いて新宿御苑前駅近くにあるギャラリー蒼穹舎へ「椿の島 門井幸子写真展」を見に行く。椿の島というのは、東京都の大島のこと。門井はそこへ16年間通っているそうだ。家などの建物を含む風景、道、草木、海、地面。そして、人々の参加する祭。それらが写っている、大島で撮影した白黒の写真が展示されている。2013年の台風による土砂災害では多くの人が亡くなった。写真のなかのかつて訪れた場所はいまは姿を変えてしまっていたりする。2017年、8年ぶりに行われた吉谷神社正月祭の写真がある。この正月祭は、噴火する島の山をなだめ、災害で亡くなった方々を鎮魂するためのもの。写っている人々の表情を繰り返し見て、秘めた深い思いと決意を感じる。喜びにあふれているようでも、悲しみにくれているようでもない。静かに目を開いている。

 

3月13日(土)

藤井繭子 詩布「1908年の手紙」(2020年)
写真:平地勲

激しい雨。基準雨量超過を知らせるメールが何通も携帯電話に届く。何日か前、ネット検索をしていてたまたまみつけた展示へと、麻布十番駅から高速道路沿いを歩く。初めて通る道に足跡をつけて、時の止まったような静かな一角に迷い込む。ギャラリーの扉を開いて中に入るとすぐ、春の雷が鳴った。

Gallery SUでの「藤井繭子 詩布」。墨で文を書いた和紙を細く裂いて糸にし、絹糸と織って布にする。読むことのできない文が布に織り込まれる。作者はそれを詩布と名づけた。「しふ」というふたつの音でいいあらわされたこの世界は果てしない。見る前からそんな予感がしていた。細い枠の額におさめられた布の作品が壁に並んでいる。整然としている布の織り目。いつまでもそこにいたくなるような草木の命の淡い色。読めない詩を布に探す。言葉は通じることがない。だがここにある。大切なことがしまってある。

 

3月17日(水)

触覚性絵画 NO.7 布・油絵具・コラージュ 970×1303mm 2020年

夕方、地下鉄で京橋駅に着く。いくつかの会場をめぐり、19時を過ぎた。ファストフードの店で食事する。注文したハンバーガーができるまで、入手した印刷物を読む。ギャラリー檜e・Fでいまさっき見たばかりの「石村実展 ─触覚性絵画─」に関しての作者の文章が載っている。この展示の絵を夢中になって見たのはどうしてだったのだろう。画面には絵の具や色鉛筆とちぎったり切ったりした色紙。何らかの対象が描かれているのか、そうではないのか、何もわからず、それでも見たいものをみつけたような気持ちになり、凝視したり、目を閉じたりした。「触覚性」というのは、手を使って絵に直接触れるというようなことではないだろう。視覚は距離を必要とする。触れるには距離を縮めなければならない。見ることは絵に触れているのであり、絵は触れている。視覚に回収されず、触覚性絵画を見ることを、自分は体験したのだろうか?

 

3月19日(金)

新井薬師前の土日画廊へ出かけて「上田和彦展」をもういちど見る。ある絵では絵の具が1色ではなく2色使われているのではないかとか、麻布と思われるキャンバスに描かれていることが多いけれどもそうではない絵が壁を挟んで対称に展示されているのではないかとか、検証するような観察をしたり、ただ眺めたりして小一時間過ごす。書をやっている方がみえて書の観点からいろいろと感想を述べていたのが面白かったと、画廊の方から聞く。ときの経った一軒家の、部屋をそのまま会場としたようなこの画廊。屋外で、ときおり風になにかの揺れる音がする。開いた窓からはそよそよと。風を感じながら絵を見たのは、初めてかもしれない。

 

3月22日(月)

外苑前で地下鉄を下車。かつては駅近くの立ち食いそば屋でなにか食べていくのがお決まりだったが、その店はなくなってしまった。

トキ・アートスペースにて「湖の底を葉で持つには」川西紗実展。ホームページでこの展示に際しての作者のテクストを読んで強く惹かれた。会場に入って最初に目に入った作品の前にしばらく立つ。そして次へと。ちぎったような紙を貼り合わせながら描いたのだろうか。さまざまな色の描画と形状。読んだ内容を直接的に思わせるような作品ではない。テクストは作品として一体になっている。紡がれている作品のひとつひとつが語り始めると、わたしはそれを聞いている。物語はもしかすると悲しげなのかもしれない。でもそれは心に穏やかに響く。物語はもしかすると希望を見出しているのかもしれない。でもそれは心を締めつける。湖の底に沈められた、どうしようもないもの、大切なもの。出現した精霊。作者とすこし話をする。「粒子」という言葉を聞く。みずからの粒子で作品ができているのだな、と思う。

藤本なほ子  「わたしの遺跡を見学する」風景

10分ほど歩く。表参道画廊にて、藤本なほ子作品展「わたしの遺跡を見学する」。目覚めているか夢見ているかという状況の枕元でノートに書きとった夢の記述。ときが経ち、それを開いてみると、そこには「これは誰か ほかの人の記憶ではないのか」(作者の言葉)という、思い出せない内容が書かれていた。ノートから25の夢の記述を暗記して、極小の鏡文字で紙に書きうつす。利き手ではない方の手で目をつむったまま書いたものもある。会場には文字を拡大して見るための単眼鏡が用意されていたのだが、それは、肉眼とは別のひとつの小さな窓を示す役割も果たしていたのかもしれない。覚えのない夢の記述を暗記するということ。そしてそれを読めないような文字で紙に書き記すということ。暗記による記憶は、忘れられた記憶と、からだの中で出会って二重になって記されるのだろうか。そして誰か他の「わたし」が、文字を書く筆記具の先を接点としてその向こう側に存在しているとしたら。考えながら、展示の中を浮いたり沈んだりしていた。

 

3月23日(火)

「ハクモクレンページ」2018–2021年
ⓒNaoyo Fukuda, courtesy Yukiko Koide Presents ⓒ桜井ただひさ

大宮駅からバスに乗り、「歴史的建造物と現代美術 時のきざはし」の会場のひとつ、旧坂東家住宅見沼くらしっく館へ。ここは江戸時代末期に建てられた住宅を復原した建物。現在は公開され、展示や催しが行われている。展示されているのは、大森記詩、岡村桂三郎、塩﨑由美子、福田尚代、和田みつひと、計5名の作品。訪問時、こどもも多くにぎやかだった。急な階段があり、登ると「おんなべや」と呼ばれる、女性の奉公人のための部屋になっている。そこには福田尚代の作品があった。灰の跡のある火鉢の底に、白木蓮の花びらをかたどった白いちいさなものが敷き詰められていて、誕生したばかりの生のように囁く。いくつか、より白い花びらをみつけたのは錯覚だったろうか。屋根裏にもうひとつの作品。壁にあいている穴から眺めると、暗い中、ぼおっと微かな光を集めて、かたまりになった埃のようなものがとどまっている。「山のあなたの雲と幽霊」というタイトルのその作品は、この部屋の様子をそっとうかがっているよう。下に降りて靴を履き、建物の展示物を見ていると、ちいさな男の子が「おんなべやぞくぞくした」と口にして走っていった。

 

3月25日(木)

ギャラリーなつかでの「橋谷勇慈展」。抽象的な絵ではなく、具体的な事物を描いた絵のようであったが、波を描いたと思われる2枚のほかは、何が描かれているのかはわからない。ただ目が見ることを欲する。かたちをあらわにする光のように色が重なっている。鮮やかなようでもあり淡いようでもある。一巡りしてから、作品タイトルの記されている紙を覗きこむと、そこには「蜂之巣風化」「白亜紀堆積」などの文字が並んでいた。絵は、そのような自然の造形を元に描かれていたのだ。自然の驚異。そして作者の、つくるあるいは描くということへの関心。それらが結びついている。人間の描いた絵も自然の造形、ということはできるのだろうか。

No.931 蜂之巣風化 P80号 2020年

(2021/4/15)

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言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。2010年から2011年、『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』の編集。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事を主に、本づくりに携わっている。