三つ目の日記(2022年12月)|言水ヘリオ
三つ目の日記(2022年12月)
Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
明日のパンを買うために夜中コンビニへ。8枚切りの食パンを2枚ずつ4日かけて食べる。店には先客がひとり、お菓子の棚の前でスマホを見ていた。8枚切りはいつもあるわけではないのだがその夜はふたつ陳列されていた。帰り道、西の空に月が出ていた。街灯や看板の光がまばらになると星も見えるようになる。資源ごみのボックスが道端に置かれている。
2022年12月9日(金)
DVDでワン・シャオシュアイ監督の『在りし日の歌』を見る。ネットでこのタイトルを検索すると、この映画のこととともに中原中也の詩集のことが出てくる。原題は『地久天長』であり、日本語タイトルを考えた際、中原の詩集のことも意識されただろう。映画のなかで、長いあいだ放置したであろう、なくしたこどもの墓へ夫婦でまいる場面がある。墓石のまわりの草を抜きながら、ぽつりとひとことこどもに話しかける。その声は、どこにむかって発せられたのか。声の行き場。見ていて、声は届いたようにも思えたが、どうだろう。客体の不在に「声が届く」ということが起こりうるか考える。それは、曇った昼間の、なんでもない日常のなかのごく短い時間の出来事かもしれない。そのあとは無言で空の白さを眺めてるだけ。
12月14日(水)
朝、高速バスで大阪に着く。梅田駅付近らしいが方向がわからない。体力が奪われしんどい状態で美術館まで歩き展示をふたつ見る。昼、館のレストランが閉まっていたので、次の場所へと歩く途中にあった店でカレーライスを食べる。二種類のソースを皿の真ん中で黄色いライスがせき止めている。見た目はきれいでおいしいのだが食べづらい。
その後夕方までギャラリーを何軒かめぐる。
同日
布を張ったパネルの平面上に絵具の小さな白い点が無数に置かれている。その左側には、10の目が10列並んだ原稿用紙のようなフォーマットが16個または9個ある紙に「正」の字が途中まで書き込まれ、額装された作品。点が無数、と言ったが、それは数えられている。「正」ひとつで500の点を示していることが、キリのいいところで小さく記されている数字から推測できた。ひとつの作品で10万をゆうに超える数。また、「正」の字はまるで活字で印刷されたかのように整っており、終筆まで含め、鉛筆でフリーハンドで記されたとすぐには思えなかった。作者の意識はこういうところにまで及んでいるのだ、と気が張りつめる。そして、小さな点の作品。点といっていいのか、小さな円というべきなのかわからない。大きさ不定の小さな点。作品と接近しようと試みて、ひとつひとつ目で追っていくが途方に暮れる。離れるとなんらかのイメージが現れるわけでもない。ただ、モノクロームの微細な点描の作品、とは思えず、別のものとして見ていた。作者が作品に行ったことにより作品自体が現出しているのだろうか。
入口脇の棚にはガラス瓶に入った小さな作品が数点。ひとつは100メートルの糸を編んだもの、そのほかは、はさみでチラシを細かく切り集めたものという。単色の粉のようにも見えるチラシの作品をひとつ手にとって斜めにすると、中身は砂粒のようにさらさらと動いた。
contour map 森本絵利
サイギャラリー
2022年12月6日〜12月24日
http://saigallery.sblo.jp/article/189952452.html
●左から「contour map # air (B1-③)-memo」「contour map # air (B1-②)-memo」「contour map # air (B1-④)-memo」いずれも2022 紙に鉛筆、額 515×728mm、および「contour map # air (B1-③)」「contour map # air (B1-②)」「contour map # air (B1-④)」いずれも2022 パネルに綿布、アクリル絵具 728×1030mm(上)
●「白トリュフ」 2011(2021 bottled) 100mの銀糸、ガラス瓶(写真上左)、および「紙片瓶」 2021(bottled) SSサイズ〜Lサイズ 紙(チラシ)、ガラス瓶(下)
同日
夕方ホテルに着きちょっと休んで、近辺の大衆食堂に入る。常連らしき人が数名で飲んでいる。かまわずカツカレーを注文。テレビを横目に待つ。厨房が見えて調理の様子がこちらに伝わってくる。肉に衣をつけカツを揚げている。油からあげて一片を切ったところで、再度油に投入。中まで火が通っていなかったのだろう。カツが揚がり、ライスに載ったらしい。すると手にレトルトのカレーを持っているのが見えた。封を切りそれをかけている。カツカレーが来て、食べる。カツはカリカリに揚がっており食べ応えあり。カレーもおいしい。これはこれでいいじゃんと思った。
12月15日(木)
きのう忘れものをした。会場のオープンを待ち、森本絵利の展示へもう一度行く。写真を撮らせてもらったあとギャラリーの方に作品について尋ねごとをする。そのとき「描く」ということばを発すると、「絵具を置く、ですね」と作者の言い方を教えてくれる。作品の小さな点は、拡大した空気、拡大した蒸気であるという。感覚で絵具を置いているのではないということ。壁の作品にもういちど目をこらす。忘れものは見つかったのかもしれなかったが、そのままにして帰った。
12月23日(金)
自分ではない誰かが、これら作品のことを語るだろう。それは単色の綾の紡ぎ手か、石を彫る際に生じる欠片を拾い集める人か。その語りは、作品の静けさに光を伸ばし、陰日向にひそむかすかな音源を探るだろう。自分のことばを並べてみる。それを蹴散らす。ここにあること、気配、音の実感を、体験として持ち帰ることができればそれでいい。タイトルのなかの「音」「言葉」「鳥」などの文字を見て心を澄ます。ゆるやかに運行が始まる。聞こえているのはスピーカーから微音で流れる音楽のほか、視覚を通して作品と共振しているまたたきだろうか。静けさに満たされているゆえに聞こえてしまう音。石の丹念に彫られた跡。設置された石彫は、こちらの気持ちに寛容だ。だが、いかなる人も踏み込むことのない領域が保たれているようにも思えた。素材の石は、イラン産のゴハレベージュという大理石であるという。
上田亜矢子展「遠くにある音」
Gallery SU
2022年12月10日〜12月25日
https://gallery-su.jp/exhibitions/2022/12/post-159.html
http://kaistudio.info/aya/
●会場風景(上)
●「遠くにある音」 H210×W135×D120mm(下) 2点とも撮影:平地勲
同日
アルミニウムの薄い板を素材に、鳥、樹、矢、十字などがかたちづくられている。表面は刻線による文様で覆われ、フェニックスや龍、手、足、子宮、神的存在なども描かれている。鳥が向かい合っている作品をずーっと見ていたとき、作者から話しかけられた。どうしてそこで立ち止まっていたのか。どうやら私は、鳥というより、向かい合っているその様子を見ていた。矢は、虹の弓で放つ光の矢であるという。突き刺さる矢でもあろうが、祈りを届けるための道具であるようにも思えた。ときおり、カンカンという音とともに小さな台の上で公開制作が行われる。制作時に音が出るということは、あらためて気付かされたことであったし、展示はとどまっているのではなかったのだ。下書きなどはしないでも描けるようになったと作者は言う。そうなのだろうと納得する。さまざまな民族、宗教にくわしい人であれば、そのような話に花が咲いたのだろうが、自分には知識がない。作者の話に耳を傾け、展示されている作品を眺め、未見の光景の淵にいた。それでも、拒まれてはいない。そう思いそこに居続けた。
最後に、クリスマスツリーにも見えるふたつの樹の作品から反射する光の下、備えられた低いソファに腰をかけてときを過ごす。樹の片方はもみの木、片方は菩提樹とキャプションに書かれている。
宇宙民族 As Ono Saboco. 宇宙民族のクリスマス
ルーニィ・247ファインアーツ Room1+2
2022年12月6日〜12月25日
https://www.roonee.jp/exhibition/room1-2/20221110212132
http://onosaboco.com
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言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事を主に、本づくりに携わりながら、『etc.』の発行再開にむけて準備中。