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日本音楽集団第232回定期演奏会 現代に生きる私たちの音楽|齋藤俊夫

日本音楽集団第232回定期演奏会 現代に生きる私たちの音楽
PRO MUSICA NIPPONIA The 232th Regular Concert “Our music living in the present day”

2021年2月15日豊洲シビックセンターホール
2021/2/15 Toyosu Civic Center Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 佃良次郎(Tsukuda Yoshijiro)/写真提供:日本音楽集団

<曲目>        →foreign language
夏田昌和:『啓蟄の音』二十絃箏ソロと四面の箏のための(2010)
 二十絃箏独奏:三宅礼子、箏:伊藤麻衣子、石井香奈、渡辺正子、喜羽美帆
 指揮:苫米地英一
細川俊夫:『断章 I』尺八、箏、三絃のための(1998)
 尺八:元永拓、箏:久本桂子、三味線:蓑田弘大
川島素晴:『ASPL II』(委嘱初演)
 笙:新保有生、尺八:大賀悠司、笙:三浦はな、
 三味線:守啓伊子、篳篥:三浦元則、琵琶:藤高理恵子
北爪裕道『Game of Clouds』(委嘱初演)
 尺八:田野村聡、大賀悠司、箏:桜井智永、三宅礼子、十七絃:久本桂子
 琵琶:久保田晶子、藤高理恵子、打楽器:山内利一、多田恵子
 指揮:北爪裕道
権代敦彦:『une place sur la terre―地上にひとつの場を―』Op.136(2013/2020)
 龍笛:あかる潤、篠笛:芝有維、能管:竹井誠、笙:三浦はな
 尺八:原郷隆、川俣夜山、饗庭凱山、三味線:長井麻江
 琵琶:久保田晶子、箏:久東寿子、二十絃:石井香奈、森真理子、
 十七絃:久本桂子、打楽器:盧慶順、多田恵子、山内利一
 指揮:苫米地英一

 

筆者は何を期待してホールにおもむいたのだろうか?
古い邦楽器によるアンサンブルの……?
日本伝統音楽と西洋現代音楽の……?

人間はタブラ・ラサの状態で生まれても、生まれた時点から周囲の環境・社会に影響され、教育を受けて〈色〉がつく。さらに自分で学ぶことにより〈自分の色〉を変えることができる。
日本人が書けばその作品が即「日本的」になるわけではなく(1)、外国人には「日本的ならざる」音楽しか書けないわけでもない(2)。日本の伝統音階や邦楽器の使用は決して「日本的音楽」の十分条件ではなく、日本人の血統に「日本的」が由来するわけでもない。
難しいのは、ここ現代日本では、「日本伝統音楽」の感覚を身に付ける機会があまりにも少なく、対して西洋音楽(クラシックでもポピュラーでも)が支配的な音楽だということである。「日本伝統音楽」の表層だけをかすめ取った音楽は非常にきまりが悪く、どこか〈嘘〉すら混じってしまう。嘘の混じった音楽を書く・聴くよりは、嘘のない、作曲家が自らの血肉としたもののみで書かれた音楽を、とは思うのだが……。

夏田昌和『啓蟄の音』、微分音を含んだ独自の調弦で、二十絃箏が言葉少なにソロを歌い、伴奏の十三絃箏がその影となって付かず離れずの距離で後を追う。次第に音多く華やかになってゆくが、微分音による合奏はポリフォニーというより、音空間にふわふわと漂う音の塊を作り出す。5人で和音(微分音も混じっていたかもしれない)を次第に小さい音量で繰り返しての終曲まで、不可思議な音響が会場を満たした。

細川俊夫『断章I』は尺八の「むらいき」、箏の絃を擦る音、三絃の絃をバチで縦に擦る音など、噪音を多分に含む、ザラついた音を3者が同時に「シャアァッ……」と奏して、しばし無音を挟んで、また「シャアァッ……」と奏し、この音が変奏されていく。人声が入ったり、紙や棒で擦ったり叩いたり、奏するようで空振りしたり、だが何故か滑稽には感じられない。緊張感に満ちた静寂の中で、生まれまたかき消えていく音をしみじみと味わうという豊かな音楽体験であった。

日独英の“Asobi”, ”spiel”, “play”、つまり「遊ぶ」「演奏」を意味する単語の頭文字2つを取って繋げた川島素晴『ASPL II』は、舞台上手に譜面を載せた譜面台が列に並べられ、6人の奏者はまずは1人ずつソロで並べられた譜面台を渡り歩きつつ演奏し、奏し終わると他の奏者の後ろに並ぶ。これを琵琶、篳篥、尺八、三味線、笙、笛の順で行って第1ターン終了。控えていた黒子が譜面をめくる。
第2ターン以降、動きの流れは同じものの、奏者と奏者との感覚が狭まり、独奏ではなく合奏になる。黒子が譜面をめくるのがえらく早くなっていく。
何ターン目かで、舞台下手に円環状に譜面台が並べてある場所に(黒子含む)全員移動。譜面台を見て演奏しつつ全員でぐるぐるぐるぐる回り、合っているような、合っていないような合奏を繰り広げ、黒子はてんてこ舞いで譜面をめくりまくる。
何周回ったかわからないが、奏者が円環を抜け出して、舞台上をバラバラに歩きながら演奏し始め、黒子は譜面台を彼らの隙間を縫って片付ける。黒子が譜面台を片付け終わると、何故か全員の音がぴったりと合い、溶暗して終曲。黒子の正体は作曲者であった。
全く不思議なことに、このシアターピース的作品、筆者の耳には非常に「日本的」な音楽に聴こえたのである。「日本的」とは何なのだろうか?

休憩を挟んでの北爪裕道『Game of Clouds』。たくさんの打楽器、「むらいき」よりもさらに息音を強調した尺八の「かざいき」、琵琶の絃をバチで擦る、箏を棒やヴァイオリン属の弓で擦る、などなど、多種多様なノイズの粒子が筆者を包んだ……のだが、筆者には西洋現代音楽の一潮流を邦楽器に適用し、結果として音楽的袋小路に突き当たってしまったように感じた。

この袋小路感は権代敦彦『une place sur la terre』でも味わわざるを得なかった。北爪作品のようにノイズ尽くしではないのだが、作曲者のいう「架空のお祭り広場を作りたかった」というコメント(作者のプログラムノートより引用)にしてはあまりにも肉体性が無く、観念的に過ぎる。大太鼓を乱打しても、その音は虚空に消えてしまい、筆者の血潮を熱くさせることがない。美しいと思える旋律的断片なども瞬間瞬時には現れるのだが、少なくとも筆者の中の「祭り」とはかけ離れた世界であった。
「祭りを終えた「場所」が、何か祓い聖められた「洞」となる。それが僕の音楽を通じた魂鎮め、即ち鎮魂の方法に他ならない」(プログラムノートより)。もとより作曲者は鎮魂の音楽としてこれを書いたのだから、「お祭り」とは二次的な要素に過ぎないのかもしれない。だが、(プログラムノートにもある)「死」とは、さらに「死」に見合う音楽とは観念だけで把捉できるものとは筆者には思えない。「死」に見合った「祭り」「鎮魂」の音楽は聴けなかったと結論づけるしかない。

5人の作曲家は自分の音楽でないものを無理に自分の音楽として書いたわけではない、つまり彼らは嘘は一切ついていないだろう。だが、その結果としての今回の後半2作品には西洋現代音楽界が陥っている陥穽がそのまま日本音楽集団という特異な団体に持ち込まれたように感じられ、筆者はどこか肩身が狭く、後ろめたく、寂しい気持ちを味わってしまったのである。

(2021/3/15)

(1)例えば、三木稔が日本音楽集団のために書いた『〈四季〉ダンス・コンセルタント』は、筆者の耳には根本において西洋音楽のように聴こえる。

(2)例えば、フランチェスカ・レロイ『鍵』をここで挙げることができよう。
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<Players>
PRO MUSICA NIPPONIA
Conductor, Kitazume Hiromichi(*), Tomabechi Eiichi(**)
Page-Turner, Kawashima Motoharu(***)

<Program>
“Sounds of KEICHITSU” 2016, Natsuda Masakazu(**)
“FRAGMENTE Ⅰ”1988, Hosokawa Toshio
“ASPLⅡ” World premier, Kawashima Motoharu(***)
”Game of Clouds” World premier, Kitazume Hiromichi(*)
“une place sur la terre” 2013/2020 Revised premier, Gondai Atsuhiko(**)