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日本オペラ協会 日本オペラシリーズNo.81 ~中村透追悼~ キジムナー 時を翔ける|戸ノ下達也

キジムナー 時を翔ける
KIJIMUNA Fly the time

2021年2月20日 新宿文化センター大ホール
2021/2/20 Shinjuku Bunka Center Large Hall
Reviewed by 戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
カルカリナ 砂川涼子 sop.
オバア 森山京子 mezzo sop.
ミキ 長島由佳 sop.
フミオ 芝野遥香 sop.
マサキ 海道弘昭 ten.
本多/長老 押川浩士 bar.
区長/地頭代 泉良平 bar.
マチー 金城理沙子 sop.
ジラー 照屋篤紀 ten.
アンマー 松村仁美

星出豊 cond.
粟國淳 stage directer
東京フィルハーモニー交響楽団 orch.
大城貴幸 sanshin
入嵩西諭 Okinawa transverse flite
松本康子 synthesizer
日本オペラ協会合唱団 chor.

<曲目>
中村透:キジムナー 時を翔ける

 

北海道出身の作曲家・中村は、1975年から2019年に逝去するまで沖縄に住み、沖縄を見据えた音楽を発信し続けた。中村のオペラ第3作のこの作品は、1990年に作曲され、同年度の文化庁芸術創作奨励特別賞を受賞した。初演は1992年2月で同年10月に再演、1994年5月に東京初演、2001年に東京で再演されている。今回は作曲者の三回忌という追悼公演で、19年振りの再演となる。

「リゾート開発による自然破壊に揺れる現代の沖縄を舞台に、沖縄伝説のガジュマルの木などに棲む妖精“キジムナー”を通じて、過去と未来にタイムトラベルし、今日的テーマである「人と自然のあり方」「伝統の尊さ」を現代に生きる我々に優しく問い掛けるファンタジックオペラ」(公演チラシより)であるこの作品は、オーケストラとシンセサイザー、さらに三線や沖縄笛などの沖縄の楽器を加え、中村独特の音楽語法で物語を彩る。そして10名の登場人物が、沖縄方言を交えた語りや歌唱で、沖縄という風土や歴史を物語ることも見逃せない。

演奏は、キジムナー(木の精)の祭壇を囲んで、合唱と踊りで祭りを描く「プロローグ」で始まる。これは、第1幕への導入という序景だが、その暗示は、特に合唱の言いようのない不思議な響きが際立つ。聴く者には、なぜオーケストラも合唱も、どことなく他人行儀で空虚さを感じさせるのかという、独特の雰囲気に引き込まれる。実はこの場面は、リゾート開発反対運動のデモンストレーションの稽古の場面であることが第1幕で明らかとなるが、オケも合唱も、このストーリーの暗示を的確に演奏で表現している。
第1幕(全2景)は、現在の沖縄を舞台に、リゾート開発で揺れ動くカチンジョーという村の人間模様を描く。この物語の全体を貫くのは、開発計画に反対し自然の恵みを見据えるオバア(森山京子)の思いだ。このオバアの思いに対して、反発する孫娘のミキ(長島由佳)と自然に憧れる孫の少年フミオ(芝野遥香)の思いの吐露、開発推進派の青年・マサキ(海道弘昭)とオバアの相談相手で内地から呼ばれたルポライターの本多(押川浩士)の反目、オバアの説得役の区長(泉良平)といった人々の主張が、セリフと歌唱で展開される。
まず、第1景では、村を二分する開発計画に対する人々葛藤と、オバアが沖縄の心に宿る「キジムナー」の伝説を孫に語り継ぐという物語の全体像が解説される。そこでの森山の絶妙な間合いや言葉の重さは、このオペラ全編に通底するポイントだ。その役割を意識し演じた森山は、言葉の彩りが鮮明。続く第2景では、開発推進派のマサキと区長、反対派のオバアと本多という構図が、セリフや歌唱で明白に描かれる。フミオは、キジムナーのカルカリナ(砂川涼子)に会いたいと歌で問いかけ、カルカリナが17世紀のその土地にフミオをタイムスリップさせる。一方で、論争に激昂したマサキが神木に斧を打ち込んだ途端に、マサキもフミオの後を追って行く。
それぞれの人物の心象風景が描かれる第2景で印象に刻印されたのが、芝野と砂川の透明感のある演唱だ。芝野の演じる少年の純粋さ、砂川演じる精の清らかさが、そのセリフと歌唱に際立つ。また長島が、揺れ動く複雑な心境を、声のみならず巧みな演技でも表現する。第1幕では、これら女声陣を、海道の声高な主張のテノール、押川の落ち着いたバリトン、泉の貫禄のバリトンで引き立てる。

第2幕(インテルメッツォを挟む全5景)は、17世紀のカチンジョーでの出来事が綴られた後、一旦22世紀へタイムスリップした後、現代へと回帰するという、まさに時空を翔け抜ける展開の中で、人々の思いの変化が綴られる。第1景は、17世紀のカチンジョーにタイムスリップしたフミオとマサキが、カルカリナと言葉を交わす中で自然を捉えていく設定だ。そこでは、神木を伐ろうとしたジラー(照屋篤紀)と、止めに入った、いいなずけのマチー(金城理沙子)という、17世紀を生きる若者の行動や思いを中心軸に、物語が進行する。そして、この二人の言葉を聞いたマサキの心の変化が暗示されていく。ここでは、砂川の自然と命を問うアリアが、染み渡る演唱。
第2景では、村人が集められ、木が無断で伐採された嫌疑を地頭代(泉)と長老(海道)が問い詰め、マサキが捕らえられてしまう。
そして第3景では、カルカリナのお告げで、マサキが縄を解かれ、追手から逃れるために、再びタイムスリップする。ここでは、ジラーが罪滅ぼしの気持ちを込めて植える、木への祈りの歌がポイントだが、照屋の心情豊かな表現が秀逸だ。優しい照屋のテノールが、物語の根幹を語り、聴く者に訴求する。その照屋を支える金城は、可憐で純朴な雰囲気を醸し出す。
次のインテルメッツオは、カルカリナ、フミオ、マサキが、現代を通り越して22世紀にオーバー・スリップした場面。環境破壊が進み生物や太陽もない灰色の世界で警鐘を鳴らす。
そして第4景では、再び現代のカチンジョーに戻り、祭りが本番へと誘われていくことと、マサキが伐ろうとした神木が、300年前にジラーが罪滅ぼしで植えた木であることへの気付きが語られて、エンディングの第5景へと繋ぐ。第4景までのこの繋がりは、マサキやミキなどの人々が、リゾート開発ではなく自然に立ち還ることに気付いたことを語るものだ。
そしてその思いは、第5景の沖縄の成り立ちを古謡も交えてうたい踊る人々の祭りとなって表現される。その祭りの最高潮で、カルカリナが人々の前に現れ、土に歌えと語るアリアが人々の間に歌い継がれる。そしてジラーの歌った木の生命への祈りの歌をマサキが歌い、村人全員への祈りの歌となって広がり、さらにカチャーシーの踊りとなって幕を閉じる。
この第2幕でも、砂川の清らかな歌唱が鮮明で、木の精の願いを鮮やかに描く演奏で、高音の伸びも抜群だが、何よりディミネンドや弱音の素晴らしさが光る。また、海道は第1幕とは打って変わり、木の生命への祈りの歌を、それまでの懊悩を断ち切ったかのようにドラマチックに演奏する。同じ楽曲で、照屋の優しいテノールと海道のリリックなテノールを対比させる語法も聴きごたえがある。しかし、何と言ってもこの日の白眉は、全編を通してステージに立つ芝野が、フミオという少年の好奇心や不安、喜びを、セリフ、歌唱、演技で場面ごとに直截に表現して物語を引き立てたことだろう。

このステージ上の声楽陣を支え、協奏し、挑発するオーケストラは、三線や沖縄笛も融合した独特の響きで場面を描く。星出は、エネルギッシュかつ緻密な音作りで、全体を牽引する。特に、オケが過去を回顧するモチーフを反復し三線が現場面を描く、第2幕に度々現れる二つの器楽群の協奏は、それぞれの音が静かな呻きのように反目し、また溶け合う、絶妙な響き。この器楽の音色を引き出すのは、作品を熟知している星出ならではの思い入れだろう。
自然への畏敬、人間の寛容と理解を再考することを問うこの作品から、私たちが学ぶべきことを改めて実感する公演だ。何より、沖縄の現状にも思いを馳せるひと時だった。

(2021/3/15)