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Dead Centre & Mark O’Connell 『Die Maschine in mir (Version 1.0)』|田中里奈

Dead Centre & Mark O’Connell 『Die Maschine in mir (Version 1.0)』

Text by 田中里奈 (Rina Tanaka)

「私と・あなたが・いまここで・何かを・共に体験すること」の難しさ
新型コロナウイルス感染症の感染防止対策の一環で芸術活動が世界各地で制限され始めてから、もう本当に長くなった。本稿で扱うのはオーストリアで配信された演劇作品だが、本題に入る前に、ドイツ語圏の演劇の配信について、少し考えてみたい。

昨年3月に多くの劇場が予定していた公演を中止した時、ドイツのシャウビューネやミュンヒナー・カンマーシュピーレが続々と無観客上演(または公演録画)を始めた一方で、隣国オーストリアでは真っ先にカバレッティストたちがこの状況に応答してみせた。今日における同国のカバレットでは、ヴィーン通の人が「カバレッティスト」と聞いて想像するであろう、陽気で小洒落た弾き語りで社会風刺の効いた歌詞を繰り出すスタイルではなく、新聞やテレビのニュースをネタにして収録スタジオでしゃべくるやり方が一般的である(とはいえ、前者が絶滅したわけではないのだが)。なので、「カバレッティストたちはカメラの向こうにいる観客に慣れている」し、「観客も彼らの噺を画面越しに観ることに慣れている」。コロナ禍に入ってもなお、彼らがSNSや動画共有サイトの中をスイスイ泳いでいけたのにも納得がいく。

セヴェリン・グレベナー『デカメロン2020 毎日ひとつの〈物語=歴史〉』1

どうしてそんな話から始めるかというと、ここ12カ月の間に私たちが経験してきた日常の変化を、ごく当たり前に舞台公演の前提としたり、あるいは上演の中でだけすっかり無視したりすることに、私はずっとモヤモヤしてきたからだ。

だから、昨年4月にシャウシュピールハウス・ライプツィヒによるZoom演劇『k.』2に出会えた時には心底ほっとした。『k.』の4週間にわたる連作は、フランツ・カフカによる未完の小説『城』に着想を得ながらも、コロナ前には当たり前だった「開演前のホワイエのざわめき」の再現に始まり、誰もいない今日の劇場に戻っていくという決着を付けた。

いま改めて振り返ると、緊急事態宣言発令下でガラリと変わってしまった日常生活を不安と戸惑いの中で営まざるを得ない中で、私が必要としていたのは『k.』のように大きな〈物語〉だった。「誰かが芝居をやって、それを観客として観る」という演劇の前提を非現実的なフィクションとして夢見ているのだと自覚し、誰かに手を引かれて現実に一緒に帰ってきて、そこから一緒に何かを始めようとする体験を――それはいみじくも、コロナ以前の演劇が成立するための手順を遡る行為でもある――、当時の私は痛切に欲していたのだ3。もちろんそう願えたのは、現実の私が危機に晒されることなく、自宅に籠って仕事をすることができたからだし、その点で私は非常に恵まれていたのだが。

『機械の私(バージョン1.0)』
前置きが長くなったが、本題に入ろう。マーク・オコネルとデッドシアターによる『機械の私(バージョン1.0) Die Maschine in mir (Version 1.0)』は、2020年12月31日、ヴィーン・ブルク劇場付属の小劇場カズィーノで初日を迎えた。ロックダウン中なので観客は劇場に入れず、したがって上演はチケットの購入者に対して、Vimeoを通じて生配信された。

世界初演は2020年10月の英語版『機械であること(バージョン1.0)To Be A Machine (Version 1.0)』(於ダブリン演劇祭)。今回はそのブルク劇場版である。出演者だけでなく、内容にも手が加えられている。

たった45分間の上演だが、複数の文脈を行ったり来たりする内容は濃厚だ。英語版もブルク劇場版も、オコネルによるノンフィクション小説『機械であること――死に対する節度ある問いに取り組んだ人造人間、理想主義者、ハッカー、そして未来主義者による冒険』4(2017)を原作として、人間の身体がさまざまなメディアやテクノロジーを介して拡張(または切断)され、生と死の定義が絶え間なく書き換えられていく状況を、フランクかつ遊戯的に描き出しながら、この種のサイバネティックな問いを、コロナ禍の演劇における肉体の不在という問題へと結びつけていく。

デジタルな観客「になる」ために
さて、日本にいる私は、ブルク劇場の新作が配信されると聞いて、喜び勇んでチケットを購入した。すると、チケット購入完了の通知に続いて、ブルク劇場から妙なメールが届いた。ざっとこんな感じだ。

件名:ミヒャエル・メルテンスがあなたを待っています!
本文:ミヒャエル・メルテンス出演の『機械の私(バージョン1.0)』にあなたが立ち合ってくれることを、私たちは嬉しく思います。お見受けしたところ、あなたはまだデジタル・オーディエンスとして登録されていないようです。あなた自身を撮影した動画三種を、私たちのウェブページにアップロードしてください。そうすることで、あなたはミヒャエル・メルテンスから見られるようになり、なおかつ、カズィーノ劇場の客席に自分のデジタル席を確保することができるようになります。

一見すると、新手の詐欺メールである。だが調べてみたところ、どうやら本物らしい。意を決して、メールに貼られたURLをクリックしてみると、画面の左半分に突然男性の顔が映り、しかもこっちを向いて勝手に喋り出した。思わずChromeのウィンドウを閉じてしまったが、メールの件名に書かれていた通り、「ミヒャエル・メルテンスがあなたを待ってい」たのである。もちろん、実際にメルテンスがリアルタイムで対応していたわけではなく、録画された内容をそれっぽく自動再生しているだけだ。とはいえ、一時停止ボタンやシークバーが画面に表示されず、したがって彼の話をコントロールできない状況では、動画を見ているという印象が弱まる代わりに、臨場感が強くなる。正直なところ、この時点で私はビビっていたし、面倒そうな舞台のチケットを購入したことを若干後悔していた。

メルテンスがこちらに語り掛けてくる内容に従って、「このサイトがカメラとマイクを使用することを許可」すると、画面上の彼の隣に、私の顔――パソコンに備え付けられたフロントカメラが捉えているリアルタイムの私――が映し出される。「スクリーン上で俳優の隣に自分の顔が映ること」なんて普通には起こり得ないので、さらに緊張する。彼がいくつかの指示を出すので、私はそれに合わせて自分のリアクションを数秒間ずつ録画していく。何パターンか撮って、最後にそれらをアップロードする。こうして、上演前の「準備」は完了した。

アバター化する俳優と観客
さて、上記のようなプロセスを経て、実際の上演ではいったい何が起こったのか。冒頭の場面を時系列順に見ていこう。

上演が始まると、ミヒャエル・メルテンスの顔が画面いっぱいに映る。上演前の「準備」で見た光景だ。彼はカメラ目線で、配信視聴者に対してこう語りかけてくる。「こんな可笑しな時代ですが、お変わりありませんか」。まるで顔見知りに再会したかのようなやり取りだが、数日前、画面越しに「会った」体験が印象的すぎて、メルテンスがなんだか「顔見知り」に見えてくるから不思議である(ちなみに、メルテンスはドイツ語圏の演劇界隈では超が付くほど有名な俳優である)。

彼はこう続ける。「画面を見ていることを今だけ忘れて、私があなたのパソコンの画面上ではなく、舞台の上にいるのだと想像してくれませんか?」。すると、カメラが徐々に引いていき、話していたメルテンスの全身が見えてくる…かと思いきや、実はそれがカズィーノ劇場の舞台上に立てられたiPadの画面だったとわかる。本物のメルテンスはその横に立っている。

メルテンス(左)と本作を書いたマーク・オコネル(右)。 (撮影:Marcella Ruiz Cruz、提供:Burgtheater)

この作品に登場する俳優はメルテンス一人だけ。とはいえ、舞台上のiPadに複数の「相手役」――事前に録画された映像から実在しない人物の3Dシミュレーションまで――が順番に登場する。メルテンスは、iPadを持ち上げたりタップしたりして画面内の彼らを操作するだけでなく、彼らとごく自然に会話したりもする。その様子は、劇場内にある複数のカメラから視聴者に中継されるわけだが、突然配信画面が最小化されて、「配信を見ていた作者マーク・オコネルの視点」が挿入されもする(しかも彼、芝居の最中だというのに、なんと別のウィンドウを開いてGoogle検索をし始める)。これは独り芝居と言えるのだろうか? あるいは、人間と機械とその間の諸々が共演しているとでも言えばいいのだろうか。

さらに、「無観客上演の配信」という立て付けだが、劇場に観客が「いない」とも言い切れない。なぜなら、画面の中にたびたび映る劇場の客席一つひとつの、もし観客が座っていたらちょうど顔のあたりにiPadが立っていて、その回のチケットを購入し、なおかつ上演前の「準備」を滞りなく済ませた観客それぞれの顔が映っているからだ。その中にはもれなく〈私〉もいた。カズィーノ劇場の客席にいる自分を画面越しに観るというのは、なんだかおもばゆく、また同時に気味悪くもあった。

実際の上演では各iPadに観客の顔が表示されていた。 (撮影:Marcella Ruiz Cruz、提供:Burgtheater)

「自分が観客らしく劇場の座席にいる」のを目の当たりにするのは、とても気味が悪い体験だ。カズィーノ劇場にいるiPadの〈私〉は、メルテンスの芝居に対して笑ったり白けたりする。それらの反応は、上演前に私が自分で録画したもので、それをブルク劇場にいる制作チームが上演に合わせてコントロールしている――頭でそう分かっていても、まるで私の分身が私の意志に反して動いているような居心地の悪さを覚えてしまう。

配信を見ている私、劇場にいる自分のアバター。両者の同期と非同期というテーマは、作中でもずばり問題になる。メルテンスは、無観客上演にもかかわらず、観客の顔が客席にあることに最初は喜び、それから訝しがる。「あなたたちは本当にそこに[画面の前に]いるんですよね?」。彼の問いに合わせて、チャット欄が一時的に使用可能になる。観客各位、画面の前にいるならチャットで応答せよ、ということだ。だが応答したところで、「あなたたちは会話ボット[事前に学習させた内容に基づいて、会話に自動で返事をするコンピュータプログラム]かもしれない」のだ。さまざまな手続きが自動化した現実の中で、メルテンスの疑念は尽きない。

演劇「である」から演劇「になる」へ
『機械の私』では、〈iPadの観客〉をプログラムで統御することで、「ドラマが観客に期待する反応」は完璧に実現した。だが、最後の場面で引用されるアーケード・ファイアの『私の身体は檻 My Body is a Cage』(2007)の一節――「これは恐ろしい劇だ/けれど彼らはどっちみち拍手するだろう」――は、観客の反応をプログラミングすることへの皮肉というだけでなく、観客のありようを率直に問いかけてもいる。作品が良かろうが悪かろうが、幕が下りれば拍手する、そのことを私たちは当たり前に思っていなかっただろうか? コロナ以前、私たちは「拍手する」という意志に基づいて、本当に拍手していただろうか?

「意志」を問題にしてみると、この作品のタイトルにある「機械 machine/Maschine」が、テクノロジーばかりを指しているわけではなかったことに気付かされる。英語版の初演で、かの有名な台詞をもじった宣伝文句が用いられたように――「機械であるべきか、機械であるべきではないのか to be or not to be a machine」5――、最初に連想されるべきはシェイクスピアの『ハムレット』なのだ6

Thine evermore most dear lady, whilst
this machine is to him, HAMLET.

この体がわがものであるかぎり、いとしい人よ、
永久に君のものであるハムレットより7

ここで使われている「machine」という語が、単なる「体」という意を超えて、自由意志を伴わない手段としての「機械」をも示唆しているとすれば8、『機械の私』における人間と機械の関係をどのように考えることができるだろうか。少なくとも、身体に意志を宿した私とプログラミング化された機械の〈私〉との対立関係というだけではなさそうだ。

ひょっとしたら、演劇における人間と機械の関係は、意志によって介在されるのかもしれない。ウイルスに対して脆弱な身体に囚われ、コロナ禍でオーストリアの劇場に足を運ぶことのできなくなった私が、「私と・あなたが・いまここで・舞台を・共に体験すること」を望むことで、〈私〉という機械になっていく。あるいは、そのプロセスを通じて、私の中に存在していた機械的な部分に気付くのかもしれない。

遠ざかってしまった演劇に向かって一歩踏み出すために
演劇をそこ「にある」現象として自明視するのではなく、作り手と受け手の双方が、カメラもしくは画面の向こうに遠ざかってしまった演劇の方に向かって、一歩踏み出していく行為「も」配信と呼ぶことができたとしたら。

もちろん、すべての配信がそのように双方向的な能動性を伴うべきと言いたいわけではない。「一歩踏み出す行為」が、「観客参加」を十把一絡げに意味するわけでもない。そうではなく、お互いが相手に寄り掛かっていた部分を一度改めてまじまじと見直してみる機会があっていい。

ここで思い出されたのは、劇作家で演出家のタニノクロウが、「VR演劇にとって『場所』とは何か?」というインタビューの中での、次のような発言である。

劇場って公演中は席を立てないし、話せないし、不自由な空間じゃないですか。だからそのぶん頭を働かせるしかない。そこでいろんな思考が生まれるわけですけど、逆に言うと、そこに僕は……あるいは演劇は甘えていたのかもしれない、と最近は考えていますね9

タニノの言うように、身体を拘束することで思考が一時的に自由になる場所が劇場だとしたら、劇場をそのように捉えること「も」できるとしたら、私はまだそういう場所を必要としている。凝り固まっていた思考を解きほぐすために。

『機械の私』は、そこ「にあったはず」の演劇が失われた今日、どうすれば演劇「になる」ことができるのかを問いかけている。それは、一時的に停止してしまった自由のもとで、演劇が演劇を通じて自由になっていくための道行なのかもしれない。

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  1. Severin Groebner, Dekamerone 2020 – Jeden Tag eine Geschichte, 1. Tag, 14. März 2020, https://www.youtube.com/watch?v=E57PQv0gydM
  2. Schauspiel Leipzig, k., 4. April – 9. Mai 2020, live auf Zoom, https://www.schauspiel-leipzig.de/spielplan/archiv/k/k-ein-internet-projekt
  3. いわゆる「セカイ系」演劇と構造的に似ているが、『k.』では出演者も観客も感染という危機に実際に晒されているという点で、少年少女の自意識の揺らぎと世界の危機が直結した「セカイ系」とは異なる。
  4. 邦題は『トランスヒューマニズム: 人間強化の欲望から不死の夢まで』(2018、作品社)。今回は演劇作品のタイトルを意識し、原題から新たに翻訳した。
  5. 井上ひさしも『天保十二年のシェイクスピア』でネタにしているが、有名な文句の割に、実際に「生きるべきか、死ぬべきか」を採用した『ハムレット』訳本は少ない。
  6. ただし、本作がブルク劇場にてドイツ語で上演されたことを顧慮すれば、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』への連想は捨て置けない。同作には「私はマシーンになりたい」(岩淵達治、谷川道子共訳、未来社、1992年)という台詞があるが、ここでの「マシーン」はむしろメディアを完全に遮断した引きこもりへの希求のメタファである。『ハムレットマシーン』の文脈を顧慮した考察は回を改めて行いたい。
  7. 『ハムレット』(松岡和子訳、ちくま文庫)、p. 86。
  8. 次の文献における指摘を参考にした。Adam Max Cohen, Shakespeare and Technology: Dramatizing Early-modern Technological Revolutions (New York: Palgrave Macmillan, 2006); Howard Marchitello, The Machine in the Text: Science and literature in the Age of Shakespeare and Galileo (Oxford: Oxford University Press, 2011).
  9. Tv Bros「VR演劇にとって「場所」とは何か?●タニノクロウ(庭劇団ペニノ・タニノクロウ秘密倶楽部)インタビュー」、2020年12月23日、 https://note.com/tv_bros/n/n4fbd9a5f9804

(2021/3/15)

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Dead Centre & Mark O’Connell, Die Maschine in mir (Version 1.0)
at Kasino (Burgtheater), Live streaming
Director: Ben Kidd / Bush Moukarzel
Video & Interaction Design: Jack Phelan
Stage: Andrew Clancy
Costume: Saileóg O’Halloran / Maria-Lena Poindl (Vienna)
Sound Design: Kevin Gleeson
Light Design: Stephen Dodd / Norbert Gottwald
Dramaturgy: Andreas Karlaganis
Live Camera: Andrea Gabriel / Mariano Margarit
Video Technique & Programming: Marcell Bándl

Performer: Michael Maertens

A coproduction by Dead Centre with the Dublin Theatre Festival
German Translation: Henning Bochert

Premiere: December 31, 2020
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田中里奈 Rina Tanaka
東京生まれ。明治大学国際日本学研究科博士課程修了。博士(国際日本学)。博士論文は「Wiener Musicals and their Developments: Glocalization History of Musicals between Vienna and Japan」。2017年度オーストリア国立音楽大学音楽社会学研究所招聘研究員。2019年、International Federation for Theatre Research, Helsinki Prize受賞。2020年より明治大学国際日本学部助教。最新の論文は「ミュージカルの変異と生存戦略―『マリー・アントワネット』の興行史をめぐって―」(『演劇学論集』71、日本演劇学会)。