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新日本フィルハーモニー交響楽団「第九」特別演奏会|戸ノ下達也

新日本フィルハーモニー交響楽団「第九」特別演奏会2020
NEW JAPAN PHILHARMONIC “Symphony No.9”Special Cocert 2020

2020年12月18日 Bunkamuraオーチャードホール
2020/12/18 Bunkamura Orchard Hall
Reviewed by 戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
Photos by K.Miura/写真提供:新日本フィルハーモニー交響楽団 (撮影12/20@すみだトリフォニーホール)

<演奏>        →foreign language
広上淳一  cond.
新日本フィルハーモニー交響楽団 orch.
小林沙羅 sop.
林美智子 alt.
西村悟 ten.
加耒徹 bar.
二期会合唱団 chor.

<曲目>
ベートーヴェン:
『交響曲第1番』op.21
―休憩―
『交響曲第9番 合唱付き』op.125

 

全世界を席巻している新型コロナウイルス感染症に翻弄された、2020年を締めくくる12月に、第九が演奏されることの尊さと重さを実感すべく、広上淳一指揮の新日本フィル特別演奏会の第九を聴く。この演奏会をフォーカスしたのは、指揮やソリストが邦人のみであり、合唱は、かつてはクリスマスコンサートなどを開催するなど、合唱の魅力を発信し続けていた二期会合唱団という布陣による演奏を、いち早く決定して開催したことが最大の理由だ。

前半の交響曲第1番は、「対話」がキーワードだった。第一楽章は、弦楽の凛々しさと、木管の優しさを、それぞれに際立たせる。しかし、それは反目や独善ではなく、広上が両者を会話のように繋げていくことで、この楽章の主題を明確に描く。第二楽章は、第一楽章の雰囲気を一転させ、弦楽器が優しくささやくように主題を奏で、管楽器や打楽器がそのささやきを受け止め、抱擁するような温もりを感じさせる。第三楽章は、音階を鮮明に刻み、畳みかけるような迫力を打ち出す。特に弦楽四部のそれぞれのリズムを際立たせることで、管楽器が一層、艶やかに聴こえる仕掛けが見える。そして第四楽章は、弦楽の快活さと、管楽器のきらびやかさが、それぞれに協奏していく。
広上は、弦楽器群、管楽器群、打楽器群の主張を鮮明に描き出し、それぞれを「対話」させていく。その意図をオケは明確に紐解き、音色に昇華させる演奏。

後半の交響曲第9番は、改めて2020年の世界のあり様を実感せざるを得ない。
第一楽章は、不安と慟哭という輪郭が鮮明で、地底の底にうごめくマグマが噴出するような、鬼気迫る演奏だ。弦楽器はリズムを固く刻み、管楽器は重厚に響く。第二楽章は、ひたすら疾走する。中間部のニ長調も、何かを暗示するかのような切実感があるが、唯一この中間部のオケの弱音からは、漆黒の闇の中に、一筋の光明を見出したような、平穏を感じさせる。前半の二つの楽章から聴こえる、広上と新日本フィルの音色は、懊悩し、困苦に耐え、しかし幸福と安寧を願いながらさまよう、人間の後ろ姿を追い続けているようだ。
しかし第三楽章は、それまでのさまよいの後に、ようやくたどり着いた安息の場を思わせる、実に敬虔で深遠な演奏となる。弦楽四部の清らかな響きに寄り添う、管楽器の清麗な音色が、心に染みわたる。そこには、祈りと安息を希求する音楽が一貫している。第一楽章の不安や怖れ、第二楽章の疾走という前半の交響曲の主張は、この第三楽章に収斂され、命ある者への畏敬の念が込められている。この音の彩りとテンポには、広上の思いが凝縮されている。
続く第四楽章は、声楽陣のステージ入りもなく、若干の間の後に始まる。こうして全楽章が連続して演奏されることで、交響曲第9番の思想が鮮明になる。前の三つの楽章のモチーフの表出は、何よりチェロとコントラバスの弱音に際立っていて、「歓喜の歌」の旋律へと引き継がれていく。このチェロとコントラバスの精緻な弱音から聴こえる演奏者の思い、歓喜への誘いは、聴く者を引き入れる音楽だ。そして、「歓喜の歌」のメロディが聴こえたこところで、ソリストと16名の合唱団が静かにステージに入る。この演出は、コロナ禍という制約を逆手にとったものだろうが、その声楽陣の動きは、これから始める「歓喜」への祈りを誘う導師そのものだ。小林、林、西村、加耒は、独唱もさることながら、四重唱の、声の重なりと音の主張が絶妙。わずか16名による二期会合唱団は、16名のソリストの重唱の如く、歓喜の言葉を直截に届ける。従来の100名規模の声の重なりで響くシラーの言葉が、ここでは16名という究極の少人数で奏されることの意義と意味を実感する。何より、本公演のような小人数の合唱による第九と、100名規模の大合唱で「歓喜の歌」の言葉を重ねる第九の演奏の根本的な相違は、多くの声の重なりが、人間の様々な思いを重層的に綴っていることが明瞭に聴こえることだろう。人声の重層性を、そしてそこから表現される多様性の深さを考えさせられる。
もっとも、広上と新日本フィル、小林、林、西村、加耒と二期会合唱団による2020年の第九は、一筋の希望に向って、共に支え、共に歩み、共に生み出そう、という主張が、楽器と人声の重なりにより、敬虔な響きとなってホールを包み込んでいた。困難な状況で、極限まで切り詰められた人声による、新たな第九の主張は、コロナ禍の私たちに、一縷の希望を与えてくれる。

コロナ禍の文化芸術は、その活動の再開や継続のための懸命の試行錯誤の取組みが展開し、特に歌唱を伴う文化芸術とっては、危機が到来している。
日本でも、声楽演奏のあり方について、クラシック音楽公演運営推進協議会がプロフェッショナルの演奏活動について、一般社団法人全日本合唱連盟がアマチュアの演奏活動を念頭に置いた、飛沫拡散の検証実験を実施し、それぞれガイドライン改訂版に反映させている。これらは、困難な中にあっても、人々の心の糧として、また人々の健康資源として、何とか演奏活動を継続させていくという強い意識のあらわれである。特にクラシック音楽公演運営推進協議会の必死の取組みが、年末の第九公演に結実していることは、もっと広く意識され、評価されるべきだ。
もっとも、在京オケでも、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団のように、第九公演を断念せざるを得なかった団体もあり、ここでも分断が生じていることは、「なぜ年末に、恒例行事として第九が演奏されるのか」という、第九公演の本質的な意味を、問いかけている。
さらに問題なのは、今年の第九公演に関するメディア等の言及が、単に「第九」の作品演奏という事象のみに特化していることだ。第九公演を考える際には、「日本的な年末イベントの第九」の試行錯誤というレベルの問題にとどまらず、その根本的な課題である、歌唱演奏を伴う、あらゆる文化芸術の危機として考察され、解決策を模索すべきである。
現に、今年の在京オケの第九公演は、日本フィルの一部公演が東京音楽大学の合唱だった以外は、二期会合唱団か新国立劇場合唱団の演奏となった。例えば、東響コーラス、東京シティフィル・コーア、栗友会合唱団など、合唱を伴うオーケストラ作品では、オケと一体となって素晴らしい音楽を創出してきた合唱団による演奏は、人数制限等の問題で聴くことができなかった。これは、第九だけでなく、合唱を伴うあらゆる管弦楽作品演奏の危機である。それは、オペラ、ミュージカル、歌舞伎、文楽、浪曲や、J-POPなど、歌唱表現の文化芸術も同様だろう。この困難を、どのように乗り越え、解決し、演奏や公演を継続していくのか、そのために私たちができることは何か、考え行動していかなければと思える。

新日本フィルの第九公演は、この合唱文化とオーケストラ演奏、そして歌唱表現による文化芸術のあり様と今後を考えるべきではないか、という問題提起でもあった。

(2021/1/15)

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<players>
Cond. Junichi Hirokami
New Japan Philharmonic
Sop. Sara Kobayashi
Hayashi
Ten. Satoshi Nishimura
Bar. Toru Kaku
Nikikai Chorus

<Pieces>
Beethoven: Symphony No.1 Op.21
Beethoven: Symphony No.9 Op.125