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日本の作曲家2020 JFCニューカマーズ「神田佳子と仲間たちによる打楽器作品展」|齋藤俊夫

日本の作曲家2020 JFCニューカマーズ「神田佳子と仲間たちによる打楽器作品展」
Japanese Compsers 2020 JFC New Comers “Percussion Recital by Yoshiko Kanda and her friends”

2020年2月7日東京オペラシティリサイタルホール
2020/2/7 Tokyo Opera City Recital Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:(一般社団法人)日本作曲家協議会

<演奏>
打楽器:神田佳子、稲野珠緒、永野仁美、沓名大地
テノール:新津耕平

企画:川島素晴

<曲目>
中辻小百合:『どんぶら宝船』~打楽器ソロのための~
  打楽器:神田佳子
永野聡:『ボヤジアンの星』
  マリンバ&ヴィブラフォン:永野仁美、シロフォン:稲野珠緒
深澤舞:『寂しい蛹』
  ジャンベ:神田佳子、カホン:沓名大地
山田香:『ASOBU-ASOBOU-ASOBEST~どうやって遊ぶ? Ver.6.0』
  テノール:新津耕平、マリンバ&ヴィブラフォン:永野仁美
松波匠太郎:『Bipolar』
  マリンバ&ヴィブラフォン:稲野珠緒
白岩優拓:2人の打楽器奏者のための“kyou”
  銅鑼(表):神田佳子、銅鑼(裏):沓名大地
山本準:『Rainfall Shuffle』
  ドラムス&シロフォン:神田佳子、ヴィブラフォン:稲野珠緒、マリンバ:永野仁美
伊藤彰:『Es』
  小太鼓1:神田佳子、小太鼓2:稲野珠緒、小太鼓3:沓名大地

 

現代音楽に「様式はあるか?」と問われれば、筆者は「ある」と答える。「ではどんな様式か?」とさらに問われると、「なんか現代音楽っぽいアレな様式」とでも言うしかないのだが、いずれにせよ、現代音楽には漠然としたものであっても〈現代音楽の様式〉がある。その様式の中で生まれ育って、その様式を塗り替えて、もしかすると壊して、更新していくのが音楽の歴史と言えよう。
今回のJFCニューカマーズでは打楽器の特集が組まれた。打楽器はヴァレーズやカウエルやケージらによって、〈現代音楽の始まり〉を告げた楽器種でもある。だからこそ「現代音楽の様式」から切り離そうとしてもなかなか切り離すのが難しい。いささか愚痴めくが、昨今の現代音楽作品に当たるとき筆者がプログラムでまず見るのが「打楽器の編成」である。珍しい打楽器(というか、様々なモノ)を使えば当然珍しい音色が得られるわけで、それに頼っている時点で音楽としての発想に安易さを感じてしまうのである。

前置きがいささか長くなったが、今回の作品評に当たろう。

中辻小百合『どんぶら宝船』、カウベル、木魚、ウッドブロック、ボンゴなどのポコポコとした音がユーモラスで、〈七福神の目出度い宝船〉を思わせる所は素直に楽しいのだが、トムトム、銅鑼、シンバル、ゴングなどで余韻を〈何故か〉響かせたりする所が「なんか現代音楽っぽいアレな様式」に自らを嵌め込んでしまっている感がある。目出度い七福神→現代音楽っぽい様式→目出度い七福神→現代音楽っぽい様式、の反復がずっと繰り返され、音楽の〈楽しさ〉、打楽器の〈グルーヴ感〉、七福神の〈お目出度さ〉が「現代音楽っぽい様式」でせき止められてしまっていた。現代音楽の様式に囚われることなく、七福神の音楽として全体を作曲していた方がユーモラスでユニークな作品になっていたのではないだろうか。

永野聡『ボヤジアンの星』、マリンバ、シロフォン、ヴィブラフォン、それに小さな円盤状の金属打楽器などを用いて、美しくも儚い音楽が奏でられる。だが、中辻とは逆に、「現代音楽の様式」から離れても、そこに永野の個性が輝かず、〈普通に綺麗〉な音楽で終わってしまっている。現代音楽の様式から学ぶことも多かろうし、また、永野でしか書けない〈普通でない尋常でなく綺麗〉な音楽が聴きたかった。

深澤舞『寂しい蛹』、鈴、ハイハットなどを少し使うも、〈カホン奏者対ジャンベ奏者〉の打楽器対戦が繰り広げられる。ここで問題になるのは、〈作曲とは何のためにあるのか〉ということである。即興演奏に任せられる音楽であれば、〈楽譜に書いて作曲=構築して再現する〉、という営為は限りなく無意味に近づいてしまう。ましてや、打楽器奏者にとって即興演奏はほぼ十八番であろう。確かに充実したグルーヴ感ではあったが、即興演奏で済ませられる範囲の音楽に留まってしまうのではなく、〈作曲でしか出来ないこと〉にもっと挑戦してもらいたかった

山田香『ASOBU-ASOBOU-ASOBEST~どうやって遊ぶ? Ver.6.0』は一昨年のJFCニューカマーズで演奏され、爆笑と共に感嘆させられたシリーズの一作である。鍵盤打楽器が静かに演奏される中、テノールの新津耕平がマッチ売りの少女(だと思う)になって「マッチはいりませんか」と会場後方から歩いて舞台に上がり、ジェスチャーでマッチを摺る。そうすると一時の幻想の中に入り込み、南国の歌と踊りが繰り広げられ、会場からも手拍子が。しかしマッチが消えれば元の凍えている少女に。もう一度マッチを摺ると、高級レストランにでも入って(ここの辺りよくわからなかったが)美味しい料理を食べて「シェフを呼んでちょうだい」という幻想に入り込む。(その次の場面転換もよくわからなかったのだが)少女はまた夢からさめて、「母さん、母さん、一緒に行きましょう、空の向こうのずっと向こう、暖かい国へ幸せの国へ、母さん、母さん、母さん」と母の幻影を追って昇天した(のだと思う)。楽しくはあったが、松平敬が1人火曜サスペンス劇場を繰り広げた一昨年のver.2.3に比べると、音楽劇としてより〈普通〉で、打楽器の存在感も薄く、インパクトが弱かったのは否めない。

松波匠太郎『Bipolar』、今回、これが一番「なんか現代音楽っぽいアレな様式」に嵌まり込んだ作品と聴こえた。つまり、「なんか」「アレな」感じで、「現代音楽っぽい」という作品だったのだ。珍しい打楽器を大量に動員して、色々な叩き方をして、色々な音が鳴る、もしかすると「現代音楽っぽい」のではなく、これこそが「今の正統な現代音楽」なのかもしれないが、音楽として何を聴かせたいのか筆者にはわからなかった。

白岩優拓『2人の打楽器奏者のための“kyou”』使う楽器は銅鑼1枚、奏者は表と裏で2人、という時点で作曲者の個性、やりたいことがわかる。銅鑼が様々なバチで裏表から、さらにはスタンドまで叩かれ、その裏表の奏者のコンビネーションが見事に作曲されている。耳が痛くなるほどの轟音も的確に制御され、そこからの急な全休止での銅鑼の轟音と全くの無音の対比など、聴いていて銅鑼一枚にかくも広く深い世界が埋もれていたのかと感嘆しきりであった。最後はトライアングルの金属バチで「カツ!」と2人同時に叩いてミュートして了。コンセプトから実演まで、揺るぎない個性を感じさせてくれた。

山本準『Rainfall Shuffle』、これは「現代音楽作家がポピュラー音楽の語法を取り入れたらポピュラー音楽としても現代音楽としても中途半端になってしまった音楽」と聴こえた。筆者は「ポピュラー音楽をよく知っている」とは口が裂けても言えまいが、クラシック音楽だけしか聴かない、現代音楽しか聴かないわけではない。クラシック・現代音楽の外には広大な、ポピュラーのみならず様々な音楽の世界が広がっているのであり、その世界に対して敬意のこもった探求なしに〈取り入れる〉のはその音楽と自分の音楽に対して〈甘い〉態度ではあるまいか。

最後は伊藤彰『Es』、スネアドラム3台に奏者3人で、こだまのように音を受け渡しし、ある者の音が他の者の余韻のように聴こえたり、一種の対位法的に聴こえたりする。スネアドラムの様々な場所を様々なバチで叩いたり、ピンポン玉を落としたり、またギロ、シェーカー、カバサ、ラチェット、ビブラ・スラップなどで音色と残響の変奏曲とでも言うべきものが繰り広げられる。切り詰められた音の1つ1つ、沈黙の一瞬一瞬が実に重い。最後は沈黙の中、スネアドラムの膜を心臓マッサージのように押して楽器内の空気がかすかに「キュッ」と音を立てて終わる。実に良い耳と徹底した思考力を持った作家による作品と聴こえた。

今回のJFCニューカマーズ、辛い評も書いたが、8人8作品のどれとして、音楽の芯においては「似たような傾向の音楽」がなかったのがとても嬉しい。自らの内にある音楽を既に外にある音楽とぶつかり合わせ、現代音楽の歴史を更新していってもらいたい。

(2020/3/15)