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評論|野田秀樹×井上道義 モーツァルト《フィガロの結婚》~庭師は見た!~小論|相馬巧

野田秀樹×井上道義 モーツァルト《フィガロの結婚》~庭師は見た!~小論

Text by 相馬巧(Takumi Soma)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

幸福な国と呼ばれる場所があった。そこで生活をする者はみな生き生きと笑顔で暮らしている。しかし誰もいない物陰で、女性がひとりさめざめと泣き暮れていた。幸福な国の住民たちは彼女の事情を聞き、つらい思いをした原因を尋ねる。原因は夫の浮気にあった。みなが立ち上がり、その夫を厳しく糾弾して悔い改めるように迫ると、彼は承諾する。これでよかった、また平和なときが訪れると幸福な国の住民は胸をなでおろす。しかし、あの泣き暮れていた女性の表情は暗い。以前よりずっと暗い。その様子を見た住民のひとりが彼女に、「まだ落ち込んでいるんですか?そうでしょう。でも、時間が経てば解決されますよ。あなたの夫ももう懲りたでしょう」と優しく声をかける。しかし彼女はなにも答えようとしない。
この女性の苦しみはいかにして解消されるのか。2020年に再演された野田秀樹演出の《フィガロの結婚》には、幸福な和解におけるジレンマが映し出されている。ひとはある共同体を形成したとき、どこまで他者の苦しみを引き受けることができるのか。苦しみが介在することによって自らの共同体が幸福な場所ではなくなると分かったとき、ひとはいかに振る舞うのか。これが問われている。

本演出の舞台は江戸末期の日本、諸外国に開かれた長崎の町である。伯爵、伯爵夫人、ケルビーノの3人が西洋から訪れた「外国人」、そしてそのほかのフィガロやスザンナら登場人物たちが「日本人」として設定される(本演出では、「フィガ郎」や「スザン女」といった日本人名が各自設定されていたが、本稿では簡単のために原作の人名で表記する)。ここで《フィガロ》という作品は、「日本人」と「外国人」との出会いを描くドラマへと変更されている。
すでに多くの言説がなされている様に、これまで《フィガロ》という作品は、貴族階級の転覆を企む――初演当時の尺度に照らし合わせるならば――過激な内容、ならびに1786年に初演されたという時代背景から、フランス革命を思想的に準備した作品とみなされてきた(このことを論じた最も代表的な著作が水林章『《フィガロの結婚》読解――暗闇のなかの共和国』)。言うなれば、これまで《フィガロ》は、「ひとりの人間」としてすらみなされていなかった卑俗な階級にいる召使いたちが、貴族階級を打倒するに至る過程を描く作品と捉えられていた。そして変革の中心的な人物にフィガロとスザンナが位置づけられ、ふたりは、最終幕においてある独立した「ひとりの人間」としての力を得る。
今回の《フィガロ》では、原作とは異質な長崎という空間へと舞台が移されている。しかしこれは、決して舞台美術的な効果を狙った単純な置き換えに留まる改変ではない。野田は、物語の性質に何点かの変更を加えることによって、この作品の未だ明らかにされていなかった重要な側面を照らし出そうとする。そもそも《フィガロの結婚》とはいかなる作品であるのか、このことを彼は改めて問い直そうとしていた。本稿は、舞台に映し出された野田の作品解釈を批判的に分析していく。

野田の改変の枢要な軸を成すのが、長崎へと舞台を移すことによって生まれる土地の主人の変化である。というのも、原作において絶対的な権力を有する伯爵と伯爵夫人は、舞台となるスペインの一地方の領主に君臨している。それに対して、本演出でのふたりの人物は、たしかに長崎である一定の権力を有しながら現地民を召使いとしてはいるものの、「外国人」に過ぎない立場を強いられる。
言うなれば野田演出の眼目とは、「外国人」らが輸入されることによって「日本」という場所が、そして「日本人」たちが、それまでとは異なる姿へと変化していく過程を描くことにある。これによって、貴族と召使いの関係に重要な改変がもたらされることになった。つまり、これまで単に召使いの地位の上昇と貴族階級の転覆を描くものと考えられていたオペラは、野田の演出において、召使いの世界(日本)へと貴族階級が編入される物語へと変わるのだ。これは決して野田による創作ではない。彼は、原作のうちに潜む民衆の力を明るみにしようとしている。

ここで野田は、言語と身体のふたつの位相において、「外国人」と「日本人」のあいだの分裂を舞台上に設定している。
1)「外国人」はダ・ポンテの台本にあるイタリア語で会話をして歌い、「日本人」は日本語で会話をして歌うこと。また、ある場面ではふたつの言語が同時に歌われる。このとき、「外国人」は日本語を理解できないが、「日本人」はイタリア語を理解し、さらに話して歌うことができる。
2)「外国人」には高身長で容姿端麗な歌手を起用するのに対して、「日本人」にはいわゆる日本人体形の歌手を起用すること(決してルッキズム(外見至上主義)に与するものではないことを前もって付け加えなくてはならない。たとえば伯爵役のヴィタリ・ユシュマノフは、舞台上で高めのヒール靴を履いていた。演出上の意図として容姿の差異が作り出されていたと想像される)。

西洋の価値観を共有する者であれば、誰しもがこの「外国人」と「日本人」との分裂のうちに優劣を含む階層秩序的な二項対立を認めざるをえない。つまり、高級な言語としてのイタリア語を話すのか、それとも低級な言語としての日本語を話すのか。そして容姿端麗であるか、そうではないか。
こうして野田は、原作の台本が有する貴族と召使いの対立を単なる台本上の設定に留めることなく、西欧中心主義に侵されたふたつの言語と身体の格差へと改変する。演劇的リアリズムに基づきながら、そうして両者の対立は江戸末期の長崎という特殊な空間へと置き換えられるのだ。

野田は、新たな共同体の形成を通じて「外国」と「日本」の対立を解消させようとする。ここでなにより興味深いことは、この対立の解消に向けた方策それ自体が、モーツァルトの音楽語法から取り出されたものであることだ。野田・井上らは、モーツァルトの音楽の理念のひとつである「多様における統一」を舞台上で実践している。この理念とは、全く異なるもの同士が音楽のなかで矛盾を孕みながらも共存し、ひとつの作品として統一している様子を指す。これまでも、神聖と世俗、大人と子供、ドイツとイタリアなど、多くの対立がモーツァルトには見出されてきた。言うなれば、野田の作品解釈とは「外国」と「日本」の対立を、モーツァルトの音楽の「多様と統一の運動」のうちに組み入れる試みにほかならない。

ここでいかなる共同体が形成されたのか。まずは言語の位相から着目していこう。すでに述べた通り、今回の《フィガロ》ではイタリア語と日本語が混在したかたちで舞台が進行し、各場面の状況に合わせて言語が選択される(ここではイタリア語と日本語の歌詞の韻律の違いには触れないこととする。筆者は音楽の技術的な問題に評価を下すに全く適任ではないためだ。それでも、日本語に翻訳された歌詞では、原作の詞が持つ美しい韻律が損なわれてしまうといった批判には注意を促しておきたい。そのような批判は、作品の「完全無欠な演奏」という在りもしない幻想を求める――まさにデリダが批判した――形而上学的な思考に基づくものに過ぎないのではないか。そもそも舞台人は、損失も承知の上で日本語を選択したに決まっているのだ)。
「日本人」役は、アリアや「日本人」同士での重唱ならば日本語で歌い、そして「外国人」とともにいる状況ではイタリア語で歌う。こうしてふたつの言語が混在する。興味深い点は、あるいくつかの場面においてふたつの言語が同時に歌われることである。
この点に関してとりわけ特徴的であったのが、3幕の裁判の場面における六重唱であった。ここでは、伯爵がイタリア語を、そしてそのほかの5人が日本語を歌い、ふたつの言語がひとつの空間に同時に存在する。そして驚いたことに、全く異質な言語であるイタリア語と日本語が、ここで少しの違和感もなく共存していたのだ。もちろんそれは、完全に溶け合った重唱のようなものでは全くない。ここでは、異質なもの同士が他を排斥することなく共存するというモーツァルトの音楽の理念「多様における統一」が、原作とは全く異なるかたちで実践されていたのだ。
当然ながらこのような重唱のあり方は、演奏家の類稀な技術によって成り立つものであろう。しかしそれでも、モーツァルトの音楽がそもそもこういった実践を引き受ける余白を有し、そして野田・井上らがそのことを熟知していたからこそ、この試みは可能であったのではないか。《フィガロ》の特性に関して、ドイツの思想家アドルノは次のことを述べていた。

彼〔モーツァルト〕の形式とは、乖離しようとするものの均衡であって、規則正しく並べられたものではない。そのことが最も完全なかたちで立ち現れているのが、たとえば《フィガロの結婚》の2幕フィナーレに見られる大規模な形式においてである。(『美学理論』)

彼の言葉に即して考えるならば、たしかにあの3幕の六重唱もまた、イタリア語の歌と日本語の歌という「乖離しようとするもの」が、溶け合うことなく、また互いを排斥することもなく、天秤のつり合いのような「均衡」のなかで運動をしていたと言えよう。同じ場に居合せる6人が、ひとつの空間・時間において言語の階級差を無効化し、ひとつの和解へと向かっている。

では身体の位相ではどうだろうか。本演出には、野田が得意とする舞台技法である生身の身体の躍動が随所に盛り込まれていた。歌手・合唱・黙役が演じる「日本人」たちは実に良く踊るし、実に良く笑う。踊りの達者な俳優を数多く起用し、各幕切れのフィナーレで「日本人」全員が一斉に踊り出す。演出家野田秀樹の力業が発揮される場面であるが、ひとつのスペクタクルとして、この「日本人」たちの身体のなんと魅力的であることか(こうした魅力の重要な起点が井上道義による猛々しい音楽づくりと、フィガロ役の大山大輔による名演技であったことは間違いがない)。一方で伯爵と伯爵夫人の身体はほとんどの場合で直立不動のまま毅然としている。
「日本人」たちを包みこむ幸福な空気こそがこの舞台の最大の魅力である、と言っても全く差支えはないだろう。しかし、言語における統一とは異なり、「外国人」と「日本人」の身体は統一へと向かおうとしない。「外国人」は「外国人」のまま排除されているように見えるのだ。後に詳述するが、野田はここで、ひとつの幻想の時代劇的「日本」像に固執してしまったのではないだろうか。そこには一種のナショナリズムすら想起させられた。両者の和解が果たされることはない。このほころびをいかに思考するかが重要な問題となるだろう。
いずれにせよ、こうして舞台が進行するうち、ふたつの身体のあいだの階級差は徐々に無効化されていく。

以上のように、今回の《フィガロ》では、原作にあった召使いによる貴族階級の打倒という物語が、「外国人」と「日本人」の階級差の「解消」の物語へと改変されている。しかもそれは興味深いことに、日本人歌手と欧米の歌手が持つ言語的・身体的差異を舞台上にあえて利用することによって、オペラを日本人が上演したときに否応なく生じる違和感――西洋人とアジア人のギャップ――を完全に払拭しているとも言えるだろう。
そして階級差の「解消」の物語は、同時に作品の第二の重要な問題を浮かび上がらせてもいる。野田の《フィガロ》は、たしかにモーツァルトの作品が固有に有している「多様における統一」の理念を、特に舞台上の言語の位相において見事に現出せしめていた。それでも、いかに異質なるものが異質なるまま「統一」された共同体が生まれようとも、その共同体からあふれ出る「多様」は必ず生まれる。「多様」に対して、「統一」された共同体がいかに対処するのか。いわば、「多様における統一」のうちから不可避的に生まれる「統一における多様」に対して、舞台に佇む人間たちはいかに振る舞うのか。ここで「多様と統一の運動」が仮に停止してしまうならば、共同体はあふれ出る「多様」にとっての地獄に変わるのだ。

野田の《フィガロ》において、あふれ出る「多様」の役を担うのが伯爵夫人とバルバリーナであった。まず4幕の冒頭、バルバリーナには、ピンを無くしてしまった不安な心情を歌うヘ短調のアリア(《フィガロ》で唯一の短調の曲)が付せられている。驚いたことに野田は、この場面の直前に、苛立った伯爵がバルバリーナを物陰へと連れていき、腹いせに彼女をレイプするシーンを置く。それによって短調の不安定な響きは、処女を失った彼女の悲痛さに共鳴するものへと変わる。
そしてこの伯爵の残忍な行為は伯爵夫人に目撃される。しかし彼女は怒ることもなく、力なく肩を落としながら引き下がる。夫人は、それまで夫が行ってきたスザンナへの不貞な行為も全て把握していたが、それだけに収まらず、自らの夫が少女をレイプするような人物であったことを知ってしまう。
周知の様に、原作の4幕最後のシーンには、淡いメランコリーに覆われていた夫人が、大いなる懐の深さをもって伯爵のそれまでの悪辣な行為を赦すシーンが置かれる。通常であれば、オーケストラはここでパイプオルガンにも似た神聖な音を鳴らし、彼女を称揚する。しかし、井上とザ・オペラ・バンドの演奏はここでどこか物悲しい響きを出していた。そして伯爵夫人もまた、どこか浮かない表情をしている。
いよいよオペラは大団円へと向かうと、全員が気を取り直し飛び跳ねながら舞台後方へと退場しようとする。すると突如、大きな銃声が舞台に鳴り響く。夫人がそこにあったライフルを撃ち鳴らしていたのだ。彼女は泣いている。なだめられながらゆっくりと銃を取り上げられても涙は止まらない。悲しみに歪む顔。そこで舞台は幕となる。

さて、このバルバリーナと伯爵夫人の苦しみが、決して演出家による創作とは言えないことをまずは注記しておきたい。野田は《フィガロ》のうちに含まれていた苦しみの要素を顕微鏡のように拡大し、見つけ出したのだ。なにより、伯爵の不貞が夫人の懐の深さによって赦される光景など、現代においては大時代的に過ぎる。しかし当然ながら、いまさら伯爵を糾弾しても仕様がない。重要なことはむしろ、本演出で設定されたふたりの女性の苦しみが、矛盾を孕みながら、作品の内部にいかに位置付けられるのかという問題である。
このためには、まずモーツァルトのオペラにおける矛盾の要素を、芸術作品としての最も重要な事象として捉えることから始めなくてはならない。先ほども述べた「多様における統一」、「統一における多様」が並置される状況がまさに象徴的である。「多様」と「統一」とが矛盾しながらも併存するという光景が、舞台上に作り出されなくてはならない。
そのようなモーツァルトの作品の性質について語っているアドルノの言葉を引こう。彼は、作品に含まれる和解され得ない矛盾を「芸術の深さ」の尺度と捉えていた。

(・・・)それによって芸術は和解不可能な矛盾のなかに編み込まれる。芸術の深さは、それ自体の形式法則が矛盾に対して用意する和解によって、芸術が矛盾の現実的な非和解性をいよいよ際立たせるかどうかで測られる。(「芸術は明朗か?」、『文学ノート2』所収)

この作品〔《フィガロの結婚》〕ははっきりと目に見えずとも、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲と同様に、深部からの解体に傾いている。(・・・)解体とは統合的な芸術の真理である。(『美学理論』)

アドルノのこの論述は次の様にまとめられるだろう。モーツァルトの作品は、そこにある矛盾(言語的・身体的な分裂)を和解へと向かわせるが、一方でまた、ここから不可避的に生じる非和解性(伯爵夫人とバルバリーナの苦しみ)を、先ほどの和解が逆説的に際立たせてしまうというジレンマへと至る、ということだ。強い光に照らされることによって、影はより色濃いものへと変わる。そしてジレンマによって《フィガロ》という作品は、後期ベートーヴェンの作品にも見られた調性の崩壊などの「解体」の傾向に置かれる(たとえば《大フーガ》を想起されたい)。この絶え間ない「多様と統一の運動」による「解体」こそが真なる芸術作品の条件であるとアドルノは語るのだ。

たしかに本演出で設定された言語的・身体的な対立からは、「多様における統一」の実践によって共同体が形成された。するとここに、「統一における多様」としての伯爵夫人とバルバリーナのあふれ出る苦しみが否応なく生まれる。そしてこの苦しみが、形成されたばかりの共同体を「解体」する萌芽となる。
野田演出の《フィガロ》の状況とアドルノの言説を照らし合わせたときに問題となることとはつまり、ふたりの女性の苦しみが共同体全体を揺るがす決定的な「解体」になり得たか否か、そして既存の共同体とは全く異なるあり方の可能性を潜在的にでも描写していたか否かということである。舞台とされた長崎の場における階級差がいかに是正されようとも、その階級という概念自体を無効化した未知なる世界が構想されなくて、なにになるだろう。アドルノの指摘するモーツァルトのオペラの射程――芸術にできること――とは、このことのうちにあるのではないか。
そして今回の野田演出の《フィガロ》は、階級という概念自体の無効化を十全に果たせてはいなかったと言わざるを得ない。このことは、フィガロ、スザンナ、マルチェリーナらが獲得する幸福な共同体像があまりにも強固なものであったことに起因している。それこそが、先ほど述べた幻想の時代劇的「日本」像にほかならない。いわば、言語の混在、身体の歓喜、そして幕切れの大団円のいずれもが、この共同体像の示す幸福のあり様へと向けられてしまったのだ。
ここで批判されるべき最大の問題点は、この幸福な共同体にとって、先ほど述べたような「解体」ならびに階級という概念自体の無効化が許容し得ぬものであったということにある。幸福な共同体を構想するとき、野田は、自らの演出家としての得意技との兼ね合いから、幻想の時代劇的「日本」に固執してしまった。ここに一種のナショナリズム的な感情が生じたばかりに、舞台に生まれる共同体は、誰しもにとって既知なもの、そして揺るぎないものとなってしまった。いかに伯爵夫人とバルバリーナの苦しみが強調されようとも、この幻想の「日本」という共同体において、彼女らの苦しみが引き受けられ、自己の「解体」が行われることは起こり得ない。

オペラの幕切れで伯爵と伯爵夫人の生活が終わったわけではないのだ。それでも周囲の「日本人」たちは、彼女に「時間が経てば解決されますよ。あなたの夫ももう懲りたでしょう」と優しく声をかける。いまある共同体のあり様が、彼女らをさらに傷つけるとも知らずに。そしてもし従来の演出の様に、伯爵夫人を淡いメランコリーに覆われた人物と捉えたならば、彼女の苦しみは倍化して行くだろう。だからこそ彼女は、4幕の幕切れにて、ライフルを打ち鳴らさなくてはならなかったのだ。
この幻想の「日本」は、いかにして「解体」へと向かうのか。そこには、ケルビーノとの出会いが真に重要な問題となる。本演出において、ケルビーノが「外国人」に設定されている理由は明確に語られていない。しかし彼は13歳の少年という男性と女性のあいだを彷徨う両性具有的な人物である。これを受けて、野田が「日本人」と「外国人」の仲介を果たす役割をケルビーノに見出そうとしていたことは間違いがない。
しかし残念ながら、この舞台における「日本人」たちとケルビーノとの出会いは、幻想の「日本」を解体させるほど決定的なものとなり得なかった。それほどまでに野田の描いた幻想の「日本」は力強く、あまりにも魅力的であったのだ。だからこそそれは欺瞞にほかならない。本来的に、作品から見出されるべき民衆の力は未知なるものでなくてはならなかった。
伯爵夫人の悲しみに歪む表情を前にしては、この力強さもまた単なる虚栄でしかあり得ないだろう。モーツァルトの音楽がなにを描いているのか、そこに何度でも立ち返らなくてはならない。

(2020/12/15)

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東京芸術劇場30周年記念公演 東京芸術劇場シアターオペラvol.14
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト:歌劇《フィガロの結婚》
全4幕(原語&日本語上演/日本語字幕付)
Wolfgang Amadeus Mozart: Le nozze di Figaro
Opera in 4 Acts (Sung in Italian and Japanese with Japanese surtitles)
2020年11月01日 東京芸術劇場 コンサートホール
2020/11/01 Tokyo Metropolitan Theatre Concert Hall

〈スタッフ〉        →foreign language
指揮・総監督:井上道義
演出:野田秀樹

副指揮&合唱指揮:辻博之
チェンバロ、コレペティトゥール:服部容子

舞台監督:酒井健
振付:下司尚実
美術:堀尾幸男(HORIO工房)
衣裳:ひびのこづえ
照明プラン:小笠原純
照明アドバイザー:服部基
照明操作:有限会社ファクター
音響:石丸耕一
演出助手:垂水紫織

〈キャスト〉
アルマヴィーヴァ伯爵:ヴィタリ・ユシュマノフ
伯爵夫人:ドルニオク綾乃
スザ女(スザンナ):小林沙羅
フィガ郎(フィガロ):大山大輔
ケルビーノ:村松稔之
マルチェ里奈(マルチェリーナ):森山京子
バルト郎(バルトロ):三戸大久
走り男(バジリオ):黒田大介
狂っちゃ男(ドン・クルツィオ):三浦大喜
バルバ里奈(バルバリーナ):コロンえりか
庭師アントニ男(アントニオ):廣川三憲
花娘:藤井玲南、中川郁文

声楽アンサンブル:藤井玲南 中川郁文 増田弓 鳥谷尚子 新後閑大介 平本英一 東玄彦 長谷川公

演劇アンサンブル:上村聡 川原田樹 菊沢将憲 近藤彩香 佐々木富貴子 末冨真由 花島令 的場祐太

合唱:ザ・オペラ・クワイア
管弦楽:ザ・オペラ・バンド

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相馬巧(Takumi Soma)
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士後期課程在籍。専門はアドルノの音楽論を中心とした近現代ドイツ思想史。2020年に第7回柴田南雄音楽評論賞本賞を受賞。2017 年に早稲田大学創造理工学部総合機械工学科を卒業。2018 年に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース修士課程に進学して思想史・音楽研究に転向。修士論文のタイトルは「音楽言語の自己否定的な身振り――テオドーア・W ・アドルノの演奏理論」。

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〈Staff〉
Conductor: INOUE Michiyoshi
Stage Director: NODA Hideki

Assistant Conductor: TSUJI Hiroyuki
Korrepetitor: HATTORI Yoko

Stage Manager: SAKAI Takeshi
Choreographer: SHIMOTSUKASA Naomi
Set designer: HORIO Yukio
Costume Designer: HIBINO Kozue
Lighting Planner: OGASAWARA Jun
Lighting Adviser: HATTORI Motoi
Lighting Operation: Facter co.
Sound Designer: ISHIMARU Koichi
Assistant Director: TARUMIZU Shiori

〈Cast〉
Il Conte di Almaviva : Vitaly Yushmanov
La Contessa di Almaviva : Durniok Ayano
Susanna : KOBAYASHI Sara
Figaro : OHYAMA Daisuke
Cherubino : MURAMATSU Toshiyuki
Marcellina : MORIYAMA Kyoko
Bartolo : SANNOHE Hirohisa
Basilio : KURODA Daisuke
Don Curzio : MIURA Taiki
Barbarina : COLON Erika
Antonio : HIROKAWA Mitsunori
Ragazza : FUJII Rena, NAKAGAWA Ikumi

Opera Ensemble : FUJII Rena, NAKAGAWA Ikumi, MASUDA Yumi, TOYA Shoko, SHIGOKA Daisuke, HIRAMOTO Eiichi, HIGASHI Haruhiiko, HASEGAWA Tadashi
Actors Ensemble : KAWAHARADA Itsuki, KIKUSAWA Masanori, KONDO Ayaka, SASAKI Fukiko, SUETOMI Mayu, HANASHIMA Rei, UEMURA Satoshi, MATOBA Yuta

Chorus : The Opera Choir
Orchestra : The Opera Band