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特別公演 本山秀毅×びわ湖ホール声楽アンサンブル《マタイ受難曲》|西澤忠志

特別公演 本山秀毅×びわ湖ホール声楽アンサンブル《マタイ受難曲》|西澤忠志

J.S.バッハ:《マタイ受難曲》(ドイツ語上演 字幕付(礒山雅訳))
Johann Sebastian Bach : Matthäus-Passion (Sung in German with Japanese supertitles)

2020年11月14日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール
2020/11/14 Biwako Hall Center for the Performing Arts, Shiga Main Theatre
Streaming+(11月26日終了)およびPIA LIVE STREAM(11月30日終了)にて動画を有料配信

Reviewed by 西澤忠志(Tadashi Nishizawa)
写真提供:びわ湖ホール

指揮:本山秀毅(びわ湖ホール声楽アンサンブル桂冠指揮者)        →foreign language
管弦楽:ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル
児童合唱:大津児童合唱団

〈キャスト〉
福音史家:清水徹太郎
イエス:津國直樹
(各アリアはびわ湖ホール声楽アンサンブルの団員が担当)

 

「一つ一つの事態に丁寧に向き合い、物事の本質を見極められる大切な機会と考え、進む。」
これは今年の8月15日に開催された「日本音楽芸術マネジメント学会第12回夏の研究会」での、今回の指揮者本山秀毅の発言である。
まさにこの言葉の通り、《マタイ受難曲》に向き合う機会となったのが、本公演であった。

今年の研究会は例年に比べて特別な会となった。これはオンライン開催という形式的な違いだけでなく、新型コロナウィルスの流行に対しクラシック音楽界はどう対応するのかという、喫緊の課題に対する参加者の危機感が張りつめていたことによるものだろう。その中で発せられたこの言葉に対し、筆者は演奏者やホールへの金銭面での支援や感染拡大防止のための取り組みといった現実的問題に終始する中でも本質を見失わない、本山の確固たる普遍性への信念を感じた。加えて、本公演の関連企画として開催された《マタイ受難曲》のレクチャーで、本山が《マタイ受難曲》を演奏する現代的意義として語った2点、「もう一度、我々に考える時間を取り戻す」、「絶対的神を感じる時間」に繋がるものであると、筆者は考えた。レクチャー終了直前での言葉であるためその詳細は語られなかった。したがって、この言葉の意味について公演パンフレットを元に補うと、新型コロナウィルス流行への早急な対応を迫られている中で、今一度《マタイ受難曲》を通して、現在では忘れ去られている神の存在や信仰の在り方という普遍的なテーマについて改めて考えることを今回の公演の現代的意義として想定したと考えられる。

前置きが長くなったが、こうした前提のもとで特別公演は開催された。

びわ湖ホール声楽アンサンブルは、1998年に設立されたびわ湖ホール専属の音楽団体である。例年オペラ公演や定期演奏会、地方公演等で積極的に活躍している。しかし、今年は新型コロナウィルス流行により、《神々の黄昏》は無観客公演となり、オペラ《竹取物語》などの出演予定の公演は続々と中止になった。本公演は8月に開催決定が告知され、9月に開催された第71回定期公演に続いて、今年度に入って4回目の公演となった。

演奏については、特に合唱と独唱者の表現が素晴らしいものだった。
今回、重視する点として本山がレクチャーで語ったのは、コラールをどのように演奏するかという点である。《マタイ受難曲》の聴きどころとして、第1曲と終曲の合唱やペトロの悔恨を歌うアリアが有名である。しかし、コラールの部分は、同時代の信徒が身近に感じていたメロディーであるだけでなく、「われわれ」という人称で歌われる。そのため、自身のものとして物語を捉えるための取っ掛かりとなり、音楽と聴衆とをつなぐ重要な部分となる。したがって、このコラールの部分をきっかけに、《マタイ受難曲》の物語の中へ聴衆をどう引き込み、自身の問題として感じることができるかに、今回の演奏の主眼が置かれていたと思われる。この理由によってか、コラールになじみの薄い聴衆に注目を促すために、コラールの字幕のみ、他の歌詞で使われているゴシック体よりも柔らかい印象を与える明朝体が使用された。しかしそれ以上に、コラールでの合唱の豊かな響きとゆったりとした流れには、聴衆を引き込み、物語の世界を表現するだけの力があった。また、各アリアはびわ湖ホール声楽アンサンブルの各団員によって、歌詞や音がはっきり分かるほど丁寧に歌われた。

物語世界を表現したのが合唱や各アリアだとすれば、その物語への導き手となったのは、福音史家である清水であった。福音史家の役回りは、その場で起きている情景を説明することが中心となる。しかし、清水は情景を説明するだけでなく、その場の空気自体を変えたといってもいい。特に、ペトロがキリストへの裏切りを悟り懺悔する場面での予言の成就を示す鶏の鳴き声を福音史家が説明する部分(“Und alsbald krähete der Hahn”)では、淡々とその情景を語るのではなく、“alsbald”中のラの音を頂点に、そこから徐々にゆっくりと静かに歌い上げた。その歌唱により、ペトロの深い悲しみがホール内を包み込んでいったのである。

これらの合唱および独唱者を支え、寄り添ったのがザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団であった。今回の公演は舞台中央に2組のモダン・オーケストラ(計23人)、前方に2組の合唱団(計18人)、そして後方には児童合唱団(計20人)を配置した。各演奏者の間隔は通常よりも広くあいているが、オーケストラ、合唱、児童合唱の三者それぞれのタイミングのズレによる破綻は無かった。しかし、間隔が広いためか、はたまた少人数であるためか、楽器内での音程およびタイミングのズレが目立つものとなってしまった。それでも、徐々にオーケストラの響きや独奏者のオブリガートが合唱や独唱者とうまく調和していったと思う。

最後の合唱とオーケストラによる痛烈な短三和音が消えた後、目まぐるしく変化する音楽に没入し、主を哀れみ、嘲り、そして崇め奉る場に立ち会った筆者は疲れ果て、ほとんど拍手することが出来なかった。これは演奏に対する不満を表したわけではない。むしろ、作品内の世界観を十二分に表現しきったことに対する感嘆のつもりである。
しかし、物語と音楽の展開を追うことに集中していたためなのか、信仰を持たない筆者は、今回の演奏から神の存在を感じることはできなかった。ただ、自身の行いや神に向き合おうとする物語内の人物や、それを表現する演奏者といった人間の姿をみることができたことは確かだ。そこから見えるのは、絶対的な神の無謬性ではなく、誤りを犯しつつも神や作品への愛を貫く、普遍的な人間の営みである。
人間というものの存在が希薄になる世界の中で、筆者は《マタイ受難曲》と向き合うことによって、作品が有する普遍的な人間の存在に触れたのだ。

註)「日本音楽芸術マネジメント学会第12回夏の研究会」内容
「日本音楽芸術マネジメント学会第12回夏の研究会」レポート|丘山万里子
「第12回夏の研究会「論点のまとめ」」

(2020/12/15)

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西澤忠志(Tadashi Nishizawa)
長野県長野市出身。
現在、立命館文学先端総合学術研究科表象領域在籍。
日本における演奏批評の歴史を研究。
論文に「日本における「演奏批評」の誕生 : 第一高等学校『校友会雑誌』を例として」(『文芸学研究』22号掲載)がある。

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〈cast〉
Conductor:Hideki Motoyama
Evangelist:Tetsutarō Shimizu
Jesus:Naoki Tsukuni

Orchestra:The College Operahouse Orchestra
Chorus:Biwako Hall Vocal Ensemble
Children’s Choir:Ōtsu Children’s Choir