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漢語文献学夜話| vagueness and construction |橋本秀美

vagueness and construction

Text by 橋本秀美(Hidemi Hashimoto)

林文月と言えば、臺灣では有名な文人だ。『源氏物語』の漢訳者だが、実際によく読まれたのは『京都一年』『飲膳札記』といった随筆で、臺灣大学中文系教授という身分が軽妙洒脱な文章に重みを加えていた。臺灣人である林文月は、1933年に上海の日本租界で生まれ、終戦までそこで日本の教育を受けた。当時の臺灣人の国籍は日本だったからだ。終戦の時「日本人」だった少女は、戦争に敗けたことを知って泣いたが、臺灣は中華民国によって接収されたので、一転して戦勝国の人間になったことを知らされたという。2016年に彼女の経歴を回顧するドキュメンタリーが作られた他、臺灣文化部(日本の文科省に相当)発行の記念番組も公開されている。又、手稿を含む個人資料が一括して臺灣大学図書館に寄贈され、図書館は早速それを画像で公開している。
https://www.youtube.com/watch?v=9VNojDQMUUg(ドキュメンタリーの特別編)
https://www.youtube.com/watch?v=SE9HrzQLooY(文化部発行の記念番組)
http://cdm.lib.ntu.edu.tw/cdm/landingpage/collection/mf0002(手稿資料)

『飲膳札記』手稿

定年退職後に書かれた『飲膳札記』は、料理の紹介をしながら人生の回顧をしたもので、「古き良き時代」を感じさせる。何と言っても、特権的名家の出であった。結婚まで料理などしたこともなく、主婦となっても研究・教育・文筆で活躍できたのは、お手伝いさんが居てくれたおかげだ、と書いている。人生いろいろである。

先日、偶々入手した林文月の雑文集に、漢語の曖昧さを述べた部分が有った。「翼翼歸鳥,晨去於林」で始まる陶淵明の『歸鳥』という詩を教えていると、アメリカからの留学生に、この「鳥」は何匹か?と質問されたという。林氏は、既存の英訳に、birdとするものとbirdsとするものと両方有ることを紹介し、吉川幸次郎が「悠然見南山」について、「悠然」は、南山を見る作者陶淵明の様子のようでもあり、南山のたたずまいを形容したようでもあり、そのような多様な意味を含む所に漢文学の妙味が有る、とした文を引用している。

源氏物語を翻訳する林文月

文学的には含蓄豊かで済む話だが、論説であれば「曖昧さ」は不正確さに繋がる。経典解釈では「曖昧さ」を解消する解説がなされるのが普通だ。そして、その解消方法に解釈者の個性が現れる。
このコラムの一回目に紹介した例だが、鄭玄は、「禘」という字は漠然と大祭を意味する言葉だと認めた上で、具体的には四五種類の異なる祭祀を指すと考え、経典の様々な個所に出てくる「禘」のそれぞれに、この「禘」は具体的にどの種の大祭かを注していった。唐代以降の多くの学者は、「禘」という言葉の「曖昧さ」を容認せず、鄭玄が考えた四五種の中の一つだけを指すもの、と断じてしまった。純粋さ・単純さを求めて、含蓄の豊かさは切り捨てられていった。この傾向は、唐代以降現代にまで及ぶ。

鄭玄は、本来別個に成立している『周礼』『儀礼』『礼記』『春秋』『論語』といった経典群を綜合的に研究し、それらを無矛盾に解釈できる経学理論体系を作り上げた。後世の学者たちは、私もそうだったが、鄭玄の理論体系の巨大で緻密であることに圧倒され、それを研究することに精力を傾けてきた。

林文月

しかし、鄭玄は実は、色々な所に自覚的に矛盾の穴を遺していた。例えば、『周礼・太宰』には八つの統治手段として「爵・禄・予・置・生・奪・廃・誅」が挙げられているが、『周礼・内史』ではこれが「爵・禄・廃・置・殺・生・予・奪」となっている。順番が違う他、「誅」と「殺」の差異が有る。同じことを指しているはずなので、宋代以降の学者は「誅」=「殺」と理解する者が多いが、鄭玄は「誅」を戒告とし、死罪とはしていない。つまり、経文の前後の差異を明らかにし、不一致を温存し、不一致の意味を説明しない。経文に即して経文の言葉の意味を探る所に止まり、その内容についての議論を展開しない。ここに私は、鄭玄の真骨頂を見る。「翼翼歸鳥」は何匹か、「悠然」は山か作者か、などと、言葉の指し示し得る現実的内容だけを考えた議論は、陶淵明の詩の解釈においては明らかに的外れではないか。

経書解釈に於いて、歴史・制度・思想といった、書かれた内容だけに関心を集中させる時、議論は単純化し、徐々に統一的な常識的見解に収斂していく。それは、中国の場合は、朝廷の権威を背景とした、官僚学者社会の主流見解ということになろう。しかし、権威有る常識的見解などというものは、どうしても魅力のないつまらないものでしか有り得ない。そして、学者たちは別の角度から新たな解釈を試みるようになる。鄭玄以降の経書解釈の歴史は、そんな過程を何回か繰り返して近代に至った。
鄭玄が書いたのは、経書の注であった。「注」というのは、経書本文の間に校注を注入していく編集形態で、注は経書本文と有機的に一体化している。鄭玄は経書本文の漢字一字一字の意味と働きを探究し、一字一字に最大限の活力を与える解釈を作っていった。それは、漢語の「曖昧さ」を芸術に変える創造的解釈であった。
これまで、数えきれない程多くの学者たちが、鄭玄が作った説の内容を学習・研究しながら、鄭玄のこの芸術性を見逃し続けてきた。学者は学説にしか興味が無いからだ。鄭玄の学説は、経書解釈の結果に過ぎない。鄭玄と共に経文に向き合い、鄭玄がどのように考えてこのような解釈に至ったのかを探っていくことは、読書の楽しみの最たるものだ。学説内容を理解した上で鄭玄の経書本文理解を推測していく過程は、クロスワードパズルを解くようなもので、それ自体も面白いが、解いて浮かび上がる鄭玄独特の解釈法こそが魅力の源泉だ。詩文の創作だけが芸術なのではない。

(2020/10/15)

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橋本秀美(Hidemi Hashimoto)
1966年福島県生まれ。東京大学中国哲学専攻卒、北京大学古典文献専攻博士。東京大学東洋文化研究所助教授、北京大学歴史学系副教授、教授を経て、現在青山学院大学国際政治経済学部教授。著書は『学術史読書記』『文献学読書記』(三聯書店)、編書は『影印越刊八行本礼記正義』(北京大出版社)、訳書は『正史宋元版之研究』(中華書局)など。