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9月、映画と美術|言水ヘリオ

9月、映画と美術

Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)

考えたことのなかったような物事が示され、戸惑ったりする。作品と接することで、変容が起こって、わずかでも糸口が見つかったのだろうか。そんな9月だった。ということは、いつも9月かもしれない。展示の会場はすべて都内。

 

『王国(あるいはその家について)』を見る。この映画は、東京の池袋にある新文芸坐で2020年9月11日(金)19時から1回上映され、それと同時に24時間限定のオンライン配信が実施された。上映のことを知ってすぐに新文芸坐の席を予約しようとしたが、すでにおおかた埋まっていて座ってもいいと思える席がなかったため、オンラインの方で見ることに。新文芸坐での上映とほぼ同時刻に見始める。映画当初、台詞や表情の端々にとげとげしさを感じていた。だが、言葉の選び方や発し方も、この映画独自のものだと思うにいたる。繰り返され、ずれて行く場面、前後する時間軸、劇映画部分とドキュメンタリー部分(ドキュメンタリー部分になることがあらかじめ想定されて撮られたように見える)の交錯、などを経て、いつの間にか自分のこの映画の見方は変化していった。映画後半、シーン1からシーン63まで、台詞などが記された紙を手に、時に声を発しながら演者3人で場面を追って行く約36分間がある。3人それぞれの顔。台詞のないシーンを共有する無言の時。3人の背後でシーンの番号とどの場面かを伝える声。このひと続きのシーンは、舞台裏の、演じるに際しての一段階を提示することで、映画を回想する。見終えて、反芻し、自分にとっての「王国」や、手紙を書くという行為、についても考えてみたくなった。

『王国(あるいはその家について)』
2018年、150分
出演:澁谷麻美、笠島智、足立智充、龍健太
監督:草野なつか 脚本:高橋知由 撮影:渡邉寿岳 音響:黄永昌
https://domains-okoku20200911.peatix.com
https://twitter.com/Domains_movie

 

ペットボトル、そのふた、タバコの箱、6Pチーズの箱、ガチャガチャのカプセル、その他、通常はゴミとして扱われるような、何かのパッケージとして本体を包む存在であったもの。そういったものを素材としてつくられた作品がギャラリー壁面の棚、あるいは床に配置されている。配置の仕方は、厳密にという風ではなくて、それらがあるようにといった感じ。床に置かれたたくさんの作品は全体で円を描いている。他には、そういった素材で描いた絵、電源につながっていて内部がうっすら光っている?謎のハート形、写っている女性を曲線に切った広告物、木彫など。たいていのものが空洞である。作品について説明をしてくださる作者になんとなく「なにかつくりたいって思うこともあるんですけど、絵が描けなくて……」と言ってみる。すると、上手な絵が描けなくても絵は描ける、つくることもできる、と、その場でこの展示の案内状を折り曲げてそれを作品にしてしまった。展示作品のタイトルは「だじゃれ」で付けているとのこと。「ゴミをアートに」みたいな言葉ではまったくとらえられない、生きていく上でどうしようもなく避けがたい行為の集積であるように思えるのだが、作者と話してもこちらの観念的な質問はスルスルとかわされてしまう。

ART no MATSURI 2020 武田守弘展
SPC GALLERY
2020年9月7日(月)〜9月19日(土)
https://spc.ne.jp/latest-archive/archive2020/20200918-1786/

 

紙に、横に長い線が並んでいる。読めない線としての文字や音が、ここには並んでいる。初めはそう受け止めて見ていた。同様に描かれた絵を何枚か見ていくうち、草や波、山「のように見えて」きて、風景かな?と、見え方が変化する。だがこれは、なにかのかたちを描いたものではないだろう。その後作者に話しかけられ、いくつか質問をしたのかもしれない。9Bの鉛筆で、10分くらいかけて左から右へ一筋の線を描き、下の方にそれを続けていく。直前に描いた筆跡との関係で次の線が描かれていく。上の線との関係もある。右から左へ描くこともある。どの絵にも同じくらいの余白が取られている。話を聞いていると、何を描く、というよりも、どう描く、という方法が定められていて、描いている途中あるいは描いた線に「ニュアンス」(作者の言葉)があらわれる、ということのようだった。絵を描く時間があれば、絵を見る時間もある。展覧会の会場では、後者は前者にくらべると極めて短時間であることが多く、今回もそうであろう。それでも、声、波や風の音などを無音で聞いたり、そう大きくはない一枚の絵に全身を包まれているような気がしたり、線を目でトレースすることに熱中したりと、これらの作品を前に過ごした時の中に、自分の生の一部があり、絵の中の線を淡々と体験している。淡々とした時間にはときどき風が吹いたりする。

高橋武史展
銀座K’s Gallery-an
2020年9月14日(月)〜9月19日(土)
http://ks-g.main.jp/exhibition/20200914_an/index.shtml

 

作品が展示されている部屋に入ると、正面奥の床に対のスピーカーが向かい合わせで置かれている。スピーカーの箱は木製で、音を発する面がわずかに斜め上を向いており、数センチ離れていて、その間には白く薄いスポンジのようなものが敷かれている。そのように観察している間も、一音の声が4つずつ、一定のテンポで聞こえている。振り返ると、入口近くの壁の両側にも対のスピーカーが距離をおいて向かい合わせに設置されている。2対のスピーカー。それぞれの片側からは一瞬の環境音が発せられ、ごくわずかに遅れてもう一方から男そして女の声による母音が発せられる。環境音は子音の役割をして、左右のスピーカーから聞こえる「子音」+「母音」として会場内で合成され、単音の声として聞こえる。試しに壁のスピーカーに耳を近づけると、片側からは「あ」のような母音が聞こえ、その向かいのスピーカーからは瞬間的な物音とでもいうような音が聞こえている。通常の人の声は一人の口の中で喉、舌、歯、鼻、唇などを駆使して響いた息である。この展示での声は、対する存在の関係が「『像』として結ばれた声」(作者による言葉)であると考えていいのだろうか。片方がある。そしてもう片方がある。声として出される言葉のつらなりの、素となる音(おん)が像として成っている。会場では、幸田露伴『音幻論』からの抜粋が配布されていた。

角田俊也 風景と声
スプラウト・キュレーション
2020年8月29日(土)〜9月27日(日)
https://sprout-curation.com/exhibitions/3300
(展示の写真:courtesy Sprout Curation and the artist)

 

事前に、作品の小さな画像をインターネット上で目にして、「額縁の絵」だと思っていた。これは先入観であった。会場で実際に絵を見ると、それは「額縁の絵」であった。文字にすると同じになるが、初めに判断したものとは別のものが見えていた。展示されているのは、作者が実際に見た、あるいはインターネット上で調べた名画を題材にした作品で、見る人が見れば元の絵を特定できたりするのかもしれないが自分にはまったくわからない。絵のパネルがやけに分厚く、これは額の厚みを再現したのだろうか。画像で見ていたときには、額縁らしい凸凹のある立体感を予想していたのだが、目の前の作品は、絵の具のわずかな厚みを感じるほかは表面が平らな絵で、額縁を詳細にというより、マスキングして輪郭を階調なく描いている。絵を囲むはずの額縁が絵の中に取り込まれている。枠を縁取られた箱のようでもある。やがて、自分の視線がたどっているのは、額縁の部分ばかりだということに気がついた。絵を見に行って、その額縁ばかり見ているなんてことがあるだろうか? 額に収まっていたはずの絵の部分を見るためにもう一周する。そこは単色で満たされていると同時に、空っぽとして描かれているようにも見える。近くで見ると、筆の跡が感じられる。展示の中には一点、額縁ではなく、プロジェクターとその映像を描いた作品があり、その映像部分は、空色に塗られた紙が釘で四方を壁に留められているというものだった。

末永史尚「ピクチャーフレーム」
Maki Fine Arts
2020年8月29日(土)〜9月27日(日)
http://www.makifinearts.com/jp/exhibitions/suenaga2020.html

 

たとえば、そのとき、石になっていた。降る雨に濡れ、吹く風に耐え、照らす陽に乾きを覚え、積もる雪に閉ざされる。はねた泥がまた大地に戻っていく。そうして数えきれない時間が過ぎて、ふと我に帰るのであった。そのとき、とは、この展示を見ていたときのことである。ビニール傘、草、異形の者などが描かれているように、見えはしたが、そこには、普段は隠されているものごとが、皮を剥がされた状態で、まるで、絵から体液が滲んでいるようではなかっただろうか。なにかが起こってしまった後の光景を眺めている。こころが空になり、絵を見る行為が無言の面会となる。五十余年、時流とは無縁の絵を描いている3人による展示であった。

黙示展・Ⅱ 藤山ハン・芥川麟太郎・掘正明
中和ギャラリー
2020年9月23日(水)〜10月3日(土)
http://www.chu-wa.com/archive/20200923.html

(2020/10/15)

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言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。2010年から2011年、『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』の編集。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事をしている。