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Pick Up|日本学術会議任命拒否問題について|福中冬子

日本学術会議任命拒否問題について
About prime minister’s refusal to appoint new members of science council of japan

Text by 福中冬子 (Fuyuko Fukunaka)

2020年10月1日、菅総理大臣は日本学術会議が新会員として推薦した105名のうち6名の任命を拒否した。その後の報道からは新たな情報が次々と出てきており、この原稿を書いている現在(11日)でも一体現政権の誰の判断がどのようなプロセスを経て下され結果として6名の任命拒否に至ったのか、その正確な全体像は見えていない。それ故、任命拒否の法的な問題点や責任の所在についてはこの先行われると期待される検証に委ねるとして、ここでは日本音楽学会の有志が7日付で公表した任命拒否への抗議文(https://msjforacademicautonomy.wordpress.com/ 現時点で会員・非会員併せて200名以上の賛同者が記名されている)について、その動機などを呼びかけ人のひとりとして説明したい。

この任命拒否がなぜ問題なのか、それぞれ考え方は異なるかもしれないが、私としては以下の3つの点を指摘しておく。
① 日本学術会議法第3章第7条で定められている「[会議の]推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」規定に明らかに整合性のない任命拒否が行われたこと。これは法令上の逸脱行為であるか否かという問いとともに、学術会議による職務遂行の独立性・自律性への干渉であるという点において、明らかに正されるべき行為であろう。
② 内閣総理大臣側は未だ認めてはいないものの、合理的に考えればその任命拒否が、当該の6名がこれまで表明してきた、自民党政権の政策に対する専門的知見に則った批判や異議に基づくものであろうということ。これは日本学術会議法に則ってそれぞれの研究業績に基づいてなされた推薦人事が、政治的意向によって覆されたことを意味する。
③ 「公」の概念を巡る根本的な誤謬。
このうち、最初の2点についてはすでに専門家の知見を踏まえて広く議論されているので、私が詳細を語る必要はないだろう。日本学術会議の「職務」上の「独立」は1949年に成立した日本学術会議法により定められているだけでなく、1983年に参議院文教委員会が可決した付帯決議においても再度確認されており、これを「内閣総理大臣の所轄であり、会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するということは法律上可能」(加藤勝信内閣官房長官)と読み換えるのが明らかに法律の解釈変更であることは、常識的に考えれば容易に理解できよう。
また、自分の意に沿わない意見を排除し行政を円滑に進めようとする行為が第二次安倍政権以降の自民党政権において常態化しつつあることは、すでに露呈しているが、これは民主主義国において由々しき事態である事は小学生でもわかるだろう。

ただこれらの問題はこの先の検証の行方によってはその根っこが特定され得るものだと思う。より深刻なのは、「公」――つまりofficialやstateと言った意味を含有する公的な帰属を意味する「公」と、publicという語に象徴されるような、市民citizenによって共有されるべきという公共的帰属を意味する「公」――の概念への根本的無理解ではないだろうか。
こうした無理解は「税金が投入されている限り」といった表現に端的に現れるが、現に今回の問題に関して5日の会見で「年間約10億円の[税金による]予算が使われている」(10月5日)点に言及した菅総理大臣の発言はその象徴といえる。
税金による予算が組まれるという事実は、その組織(学術会議)による活動の持続の責任の所在(=国)を指すものであり、他方、活動から得られた知の帰属先は私たち国民である。その意味で「税金が使われているにもかかわらず」政権の政策決定から逸脱する提言をすることへの批判は、「国家」と「政権」の混同という、甚だしく危険な誤謬を意味する。税金が使われている「にもかかわらず」ではなく、税金が使われている「からこそ」、時の一政権が日本学術会議の公共的役割に干渉すべきでないのである。

だが、恐ろしいことに、こうした根本的誤謬は現政権に限った話ではなく、広く日本国民全体に浸透しているように見える。2018年にカンヌ映画祭にて『万引き家族』でパルム・ドールを受賞した是枝裕和監督が林芳正文部科学相(当時)の祝意を辞退した時も、同作品に制作に際して文科省から補助金が出ていた事実に言及する非難が見られたし、より最近では、あいちトリエンナーレ2019における『表現の不自由展・その後』のケースが挙げられる。
この際は、河村たかし名古屋市長が『平和の少女像』について「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれを認めたように見える」と発言し、また松井大阪市長はさらに一歩踏み込んで「民間であれば展示は自由だが、税金を投入してやるべきではなかった」として、公的助成は、ある一定の「基準」を満たす表現のみを許容すべきだと示唆した。そしてこうした発言が政治家に限ったものではないのは、当時この件を巡るインターネット上のニュース等をフォローしていた者ならば誰でも知っているだろう。

なぜこのような誤謬が成立してしまうのか。一言で言えばそれは、学問・研究や芸術創造といった行為が多くの国民にとって他人事であり、あくまでも研究者やアーティストの個人的営為に過ぎず、故に、それらの行為が私たちに慰めや喜びを与えるものでない限りにおいて、日々の生活にとって必須ではないと考えているからではないか。
そして研究・芸術活動の公共的意義を否定するのは、受容側に限った話しではない。実は私自身がこうした抗議文発表に呼びかけ人として関わったのは今回が初めてではなく、あいちトリエンナーレ2019の『表現の不自由展・その後』の展示中止に際しても、私の勤務する東京藝術大学教員の有志教員数名と抗議声明を発表した。その際、全学的に広く賛同者を募ったが、実技系(創作系)の教員の反応は主として冷淡(あるいは無関心)だった。
中には『表現の不自由展・その後』そのものに否定的だったケースもあると思うが(ちなみに抗議声明は『表現の不自由展・その後』の展示内容を擁護することを目的としていない)、賛同者にならないと表明したある教員の言葉は非常に印象的だった。「私は毎日創作を通じて闘っている[=だからこの件で闘う必要はない]。」
たしかにそうであろうし、創造者のみならず、研究者もまた、過去・現在の様々な知のネットワークの中で自身の声を作り出すために「闘う」。ただ、その「闘い」は個々人で完結するものではないし、まして時の為政者がその「闘い」のあるべき姿を決定する暴挙に出る時、創造・研究・教育に関わる者こそが真っ先に介入すべきだろう。

社会学者のハバーマスはポストモダニズムという「気分の変化」の時代についての講演テクストの邦訳版へ寄せた序文の中で、ドレフュース事件を巡ってフランスの知識人に分裂が走った際に自身の立ち位置を明確に主張したアナトール・フランスに言及しつつ次のように言っている。
「彼[フランス]が見るインテレクチュアルズとは、普遍的な利害を先取りするかたちで公的な事柄に言葉と文章によって介入する知識層の人々、その際に自分の職業上の知識を職業以外のところで、しかも『いかなる政治的党派の委託もなしに』使用することで介入する人々のことである。」(J. ハバーマス『近代:未完のプロジェクト』、三島憲一訳)
ハバーマスのこの力強い言葉は、アーティストや研究者が時代の傍観者になることなく、常に社会の諸問題に自身の経験知を基にアンガジェすることの必然性を主張するものだ。
もしも行政改革の名のもと日本学術会議が民営化されるようなことがあれば、それは日本政府が専門的知見の公共性を公に否定したことを意味する。それはこの先の日本に、取り返しのつかない負の影響を及ぼすだろう。

(2020/10/15)

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福中冬子 (Fuyuko Fukunaka)
東京藝術大学音楽学部教授(音楽学)。専門は20・21世紀音楽。主な著書に『オペラ学の地平』(共著、2009年)、『ニューミュージコロジー:音楽作品を「読む」批評理論』(編訳、2013年)など。