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私が書く理由|転落と執筆と人生と|齋藤俊夫

転落と執筆と人生と

Text & Photo by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

これがないと何も書けない、愛用の万年筆と手帳

大学院を出た後、色々あって(3周年記念エッセイと同じくこの色々を細かく書くと芥川賞でも狙うことになってしまうので割愛する)一般社会から転落した私は、「とりあえず自分の好きなことをやってみよう」と決心したのであった。
自分の好きなこと=音楽であることは間違いないが、では自分はどのように音楽に関われるか?大学のサークル・SF研究会では私が大いに感化された大立者の先輩ほどではないが、自分もそれなりに同人誌に小説・批評・エッセイなど書いてきた経験がある。大学の先生には「君には批評は書けない」と断言されたが、その先生がどれだけ私の文章を読んだかっていうとほぼ全く読んだことがないわけで、まあここらへんも色々思い出すと私の精神が危険な状態になるので割愛して、「それでは批評を書いてみよう」とブログ(今はもうない)に批評を書き始め、当面の目標を柴田南雄音楽評論賞と定めたのであった。

が、書けない。SF研究会の批評で扱ったのは小説、映画などであって、音楽の批評とはどのように書くものだかわからない。学生時代、新聞の演奏会評を書き写して文章修行をしようとしばらく続けて、「面白くない、意味がない」とやめたことはあるが、そもそも音楽批評・評論というジャンルの書物をあまり読んだことがない。
それではこのジャンルの書を読んでみよう、と読み始めたのはT・W・アドルノの本であった。なるほど、確かに勉強にはなるが、批評に直接使える文章かというと、少なくとも私の頭脳では使えないほど難解である。直接は使えなくとも論理的思考力を高めるのだ!と先が見えないままでも読書を続けた。
努力の甲斐あってか、柴田南雄音楽評論賞はなんとか奨励賞を受賞し、「登竜門はくぐった!これでいける!」と盛大な勘違いをして、ネット上でマイナーな現代音楽の演奏会評を書き続けるブロガーとして悶々鬱々と過ごす日々が、2016年夏、本誌に初寄稿するまで続いた。

何故私は書き続けられているのだろうか。

「音楽に対する愛」「現代音楽を巡る様々な喜びと不満」の表出などの理由はもちろんだが、なにより「自分にはもう書くこと以外何もできない」という外的理由、そして「自分は書くことに生き甲斐を感じている」という内的理由の合致ゆえといえよう。あまりにも自分の来し方は行く所進む所、落とし穴と蟻地獄が待ち受けており、それらに全てはまり・はめられ続け、ここを深く語るともはやエッセイではなくなってしまうので割愛するが、その奈落の底のカンダタを救う蜘蛛の糸のごとく垂れてきたのがこのメルキュール・デザールという表現の場なのである。
この先私にも世界にもどんな未来が待ち受けているかはわからないが、「大好きな音楽について散々書きまくっている」という今現在は大変に充実している。
人間万事塞翁が馬というか、オセロゲームで白黒黒黒黒黒……と黒が続いても最後の一手で白を置けば白白白白白白……となるがごとく、「文章を書くこと以外何もできなくなった」所からの大逆転劇の中に今、私はいる。この劇的な展開からはっぴいえんどに至るため、とにかく書く、それこそが私が七転八倒の末にやっと手に入れた自分の人生である。

(2020/10/15)