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ベアータ・ムジカ・トキエンシス 第9回公演 スカンデッロ「ヨハネ受難曲」~16世紀ドレスデン宮廷 ルター派の受難曲とモテット|大河内文恵

ベアータ・ムジカ・トキエンシス 第9回公演 スカンデッロ「ヨハネ受難曲」~16世紀ドレスデン宮廷 ルター派の受難曲とモテット
Beata Musica Tokiensis 9th Concert Scandello Johannespassion

2020年9月26日 日本福音ルーテル小石川教会
2020/9/26
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 沢井まみ

<演奏>        →foreign language
ベアータ・ムジカ・トキエンシス:
望月万里亜(ソプラノ)
鏑木綾(ソプラノ)
長谷部千晶(ソプラノ)
及川豊(テノール)
田尻健(テノール)
小笠原美敬(バス)

加藤拓未(レクチャー)

<曲目>
A.スカンデッロ:ヨハネ受難曲(前半)
       天国におられる私たちの御父よ
~休憩~
A.スカンデッロ:ヨハネ受難曲(後半)
       いかに幸いなことか、主を畏れる者
~アンコール~
A.スカンデッロ:ヨハネ受難曲 1621年出版譜より、終曲(5声)

 

ルター派の宗教曲というと、ルターかJ.S.バッハかといった大御所がすぐに思い浮かぶ代わりに、それ以外となるとせいぜいシュッツくらいしか出てこない。それはバッハが偉大すぎるからなのか、はたまた他の作曲家が小さすぎるのか、それとも私たちがただ知らないだけなのか。

開演前の加藤氏のレクチャーにあったように、スカンデッロはベルガモ生まれのイタリア人で、トレントの枢機卿に音楽家として仕えている時にザクセン選帝侯にスカウトされてドレスデンに移り、同地の宮廷楽長にまでのぼりつめた人物である。彼はドレスデンの市民権を取り、カトリックからルター派(ドレスデンはルター派の地)に改宗している。

このヨハネ受難曲は、スカンデッロがドレスデンに来てから12年後、副楽長になる5年前に書かれ初演されたもので、この作品の成功が彼の出世コースに影響を与えたのではないかと加藤氏は推察している。

前置きが長くなった。この受難曲、バッハのヨハネ受難曲に似た様式を想像していると、かなり面食らう。まず、器楽伴奏がない。今回は各声部1人ずつの6人で演奏された(福音史家以外は複数人での演奏も可能だと思う)。

写真1:9月26日、日本福音ルーテル小石川教会にて

そして最大の特徴が、福音史家以外のパートがすべて多声(合唱)で書かれていることである。つまり、イエスやピラトのパートが複数で歌われる。小学校の学芸会じゃあるまいし、1人の人物のセリフを複数で言うなんて、非現実的なのではないかと聞く前までは思っていた。

ところが、始まってみるとこれがまったく違和感がない。加藤氏が指摘しているように、福音史家が「現在」を歌い、登場人物が「過去」を語るという、時制を明確に反映しているというだけでなく、聴いているうちに、音楽ではなく、演劇を見ているような気がしてきたのである。

福音史家はナレーターで、他の人物は受難の物語を演じているかのように。ドイツ語なので話している内容がわかるというのもあるが、音楽の作り方が音楽優位ではなく、ストーリーと登場人物を描くことに重点を置いているからなのだろう。本当に目の前で受難の場面が演じられているように感じられたのだ。

福音史家の旋律は、ほぼ同じ朗唱定式に則っており、美しい旋律というよりはお経を唱えているのに近い。しかし、その中で、ちょっとした間のとりかたで物語の展開を巧みに描いてみせた及川の力量に感服した。

それと同時に、これまでヨハネ受難曲に限らず、受難曲を「受難の物語」としてではなく「音楽」として聞いていたのだと実感する瞬間が何度もあった。たとえば、イエスがピラトに「お前は王なのか」と問われ、「あなたがそう言っているのだ。私が王であると。私はそのために生まれ、この世にやって来たのだ」と語る場面では、あ、これ、危険人物なのでは?と直感的に思ってしまった。これはイエスが言っているから尊い言葉に聞こえるけれど、他の誰かが口にしたら、頭がおかしいとしか思えないセリフではないか。イエスの役として1人で歌われているときにはその人は「イエス」そのものであるために、何の違和感もない。なのに、複数で歌われると、なにか見てはいけないものを見せられてしまった気になる。

前半の最後は、有名な「バラバだ!」と合唱が叫び、福音史家が「ところで、バラバは殺人者であった」と恐ろしい事実を告げるところで終わる。この場面がこんなに劇的で、しかも殺伐としたものだったのかと震えがくる思いだった。それゆえ、その後に歌われたルターの「天国におられる私たちの御父よ」は、聴き手にとって大いなる救いとなり、ああこれで安心して休憩できると心から思ったのだった。

受難曲の最大の山場が、キリストの受難の場面であることは疑いない。イエスが十字架にかけられ、それを聖母マリアとクロバのマリア、マグダラのマリアが見守る場面、そして「成し遂げられた」。これまで「音楽」として聴いていたときには、受難の場面を「描写」しているように感じていたために、心苦しさはあるものの、気持ちは音楽に向かっていた(のだと、この演奏を聴いて気がついた)のだが、今回のように演劇的にみえていると、目の前でイエスが磔刑に処され、みなが嘆き悲しんでいるように思え、キリスト者ではない筆者ですら居たたまれない気持ちになった。生々し過ぎるのだ。

決して音楽が激しすぎるわけでもおどろおどろしいわけでもない。むしろ、淡々と美しい旋律が続いている。それだけに、終曲の美しさが心に沁みた。「あの方はそのご受難によって、地獄から我々を贖ってくださったのだから」という歌詞が、ぐさぐさに折れてしまった心をふわりと包み込んで修復してくれるかのように感じた。あぁこの人についてゆけばいいのだと何の不思議もなく思ってしまう。すっかり受難曲の思う壷にはまったらしい。

最後に詩編にもとづくモテットが歌われた。その瞬間、ラテン語の響きに「意味がわからない」と感じられた。さきほどまであれほど歌詞がすんなり入ってきていたのに(注:筆者はドイツ語はわかるがネイティブ並みに堪能なわけではない)。きっと当時の人がもっていたであろう、ドイツ語の受難曲とラテン語の(カトリック)の宗教曲との感覚的距離感はこんな感じだったのではないかと追体験できたように感じた。

今回の演奏会は、2020年3月に予定されていたがコロナ禍で延期になり、振替公演としておこなわれたものである。感染拡大防止に配慮して、前のほうの席は封鎖され、市松模様になるように席が設けられ、歌手の前には透明の大きなアクリル板が設けられていた。全員が楽譜を手に持っているのに、譜面台が人数分あるのは何故だろうという疑問が解けた。

ベルリンの図書館に所蔵されているパート譜を元にして、今回は演奏されたとのこと。この受難曲には1621年に出された出版譜があり、パート譜では4声だった終曲が5声で書かれているという。アンコールはその5声バージョンの終曲が演奏された。ルター派は、ラテン語で歌われていた音楽を世俗語であるドイツ語に変え、音楽的に複雑にされすぎた音楽をシンプルにして、より教義が伝わりやすくしたと音楽史で習うが、それが理屈ではなく実感として理解できた演奏会だった。ふと気づくと、ここはルーテル教会。そこまで考え抜かれていたのかと驚きと腑に落ちる感覚を抱えて家路についた。

(2020/10/15)


写真2:9月26日、日本福音ルーテル小石川教会にて
写真3:9月23日、日本福音ルーテル東京教会にて
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<performers>
Beata Musica Tokiensis:
Aya KABURAKI
Maria MOCHIZUKI
Chiaki HASEBE
Yutaka OIKAWA
Takeshi TAJIRI
Yoshitaka OGASAWARA

lecture: Takumi KATO

<program>
Antonio Scandello: Johannespassion
         Vater unser im Himmelreich
–intermission–
Antonio Scandello: Johannespassion
         Beati omnes qui timent Dominum
–Encore—
Antonio Scandello: Johannespassion Beschlus (1621 version)