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特別寄稿|バーゼルの売春宿(後編)〜パウル・ザッハー財団訪問記(5)|浅井佑太

バーゼルの売春宿(前編)〜パウル・ザッハー財団訪問記(5)
Basler brothel: Part 2 – Report on visit to the Paul Sacher Stiftung(5)

Text & Photos by 浅井佑太(Yuta Asai)

カーニバル期のバーゼル

「いいか、考えてもみろよ」
デジャンはゆっくりと、演説調に話を続けた。「あのビルの階段の手すりには、精液がこびりついてるかもしれないってことだぞ、売春婦が使ってるんだからな。しかも、ただのビルじゃない。医療施設なんだ。眼科だってある。手についた精液を目の中に突っ込まれるかもしれないんだ。それって、ほとんどレイプみたいなもんじゃないか? 白内障になって病院に行ったら、目ン玉の中をファックされるんだ。信じられるか?」
気の毒そうな表情を装っていたが、デジャンの豊かな想像力と事態のキテレツさに、ぼくは内心、ほとんどワクワクを抑えきれないでいた。
理由というのは決まって馬鹿げているものだが、度肝を抜くくらい馬鹿げていると、それはそれでちょっと何か一種の芸術的価値があるような気すらしてくる。スリル満点の文学作品を読んだ時の高揚感と似ていなくもない。もちろん、自分の身に降りかかれば話は別だろうが。
後になって分かったことも含めると、事態は大体こんな感じだった。

――どういう経緯でそうなったのかは不明だが、バーゼルの一等地にあるそのビルは、あるロシア人の老婆が所有するビルだった。これは僕の勝手な想像だが、戦後の混乱期と何か関係があるのかもしれない。素性の知れない怪しい人物に、都心の一等地の所有権が転がり込んでくるなんて話は、戦後の日本でも珍しくないだろう。ともかくその老婆は、バーゼルで開業したい町医者たちに、そのビルの部屋を貸し出して一財産を築くことになる。
とはいえ、そのビルの一室だけは、老婆自身の商売のためにとっておかれることになる。もしかすると、(これも僕の想像だが)一種の人助けの意味もあったのかもしれない。要するにその一室に、彼女はロシアから若い娼婦を呼び寄せて、売春宿の経営を始める。医療ビルの一室が売春宿だなんて飛んでもない話にも思えるが、クリニックと売春宿の営業時間が重なり合うことは絶対にないから、ある意味理想的ではある。夜中に多少の騒ぎを起こしたって、他の部屋には誰もいない訳だから、安心して事に及べるといった寸法だ。クリニックの関係者にとっても実は公然の秘密だったのだが、現在の水準からすれば破格の賃料を前にして、文句を言う人は誰もいない。
「警察を呼んで、それから問い詰めたらようやく白状したんだよ」
とデジャンは付け加えた。「その大家によると、最近その老婆がロシアに帰ってしまって、今は若い娼婦が好き放題やってるらしい。「少し前までは夜だって静かで、他に泊めた人から苦情が出たことなんて、一度もなかったんだけどねぇ」だって。こんなのほとんど詐欺だよ。静かな部屋だって聞いたから、俺はその部屋を借りたんだ」
そう言ってデジャンは恨めしそうな顔でこちらを見たが、正直、僕には関係のないことだった。刺激的な話であったことは確かだが。

 

ウェーベルン全集編纂所

それに実際、財団での一日が始まると、いつもと変わらない日々が待っていた。
つまりそこで問題となるのは、五線紙に書かれている音符がGなのかGisなのか、あるいは楽譜に書き込まれた筆跡が作曲家のものなのか出版社の編集者のものなのか、といったことだった。高尚な学問的世界――、といったわけではなかったが、少なくとも人間の香りはしなかった。(まぁ、デジャンの言葉をもじって言えば、五線紙のオタマジャクシに目ン玉の中をファックされる日々ではあったのかもしれないが笑)。それに実を言うと、音楽とすらほとんど関係なかった。だって、「ウェーベルンの音楽を理解するために、五線譜の紙の種類や筆記具について調べることが必要だ」なんて一体誰が言うだろうか? 僕だって、そんなことは決して思わない。
けれども結局のところ、自分が生きていけるかどうかは、そういう傍から見れば〈意味のないこと〉に、どれだけ必死になれるかにかかっていたのだ。そのためには、音楽に対する愛情とか情熱とか、そういった綺麗事とはまた別の何かが必要になってくる。

 

例えば、ウェーベルン全集の実質的な指揮をとるアーレント氏は、超人的とでも言いたくなるルーチンでもってその課題に対処しているように僕には思えた。
火曜日と木曜日の8時50分になると決まって財団の扉の前に現れ、一切の休憩を挟むことなくスケッチのトランスクリプションを作り、昼休みのチャイムが鳴るとバーゼル大学のウェーベルン全集編纂所へと戻っていく。博士課程の間に、僕が最もお世話になった人物のひとりだ。50歳近いだろうが引き締まった体をしていて、毎朝、自転車でドイツから国境を超えてバーゼルにやってくる。
財団での調査の過程で彼との知己を得た僕は、その2年後には全集編纂所で1ヶ月ほど楽譜校訂の現場で働く機会を得ることになる。
――クレシェンドの位置を音符のどこに合わせるのか? 符頭の真ん中、あるいは左側?
――歌詞のテキストのどの部分を大文字にすべきか?
――初期と後期作品のクレシェンドの位置の意味合いの些細な違いを、どうやって楽譜に反映させるのか?
大体そういったことが、校訂現場の会議では話し合われた。
中でも大変なのは校訂報告の記述で、そのほとんどはアーレント氏がひとりで担当していた。オリジナルの楽譜に現れる修正痕や、版による僅かな違いを、小節単位で逐一言語化していく作業だ。例えば、
「第5小節、最初の8分音符:鉛筆で書き込まれた臨時記号の上から、インクによってクレシェンド記号が加えられている。削り跡には、もともと♯の臨時記号が書かれていたと推測される」
とか。平均すると1小節に2回以上は何かしら報告することがあるので、たった20小節の小曲一つとっても、ざっと50近くは何か書くことがある。
僕はこういった記述を一つ一つ間違いがないかチェックし、場合によっては新たに校訂報告を書き加える。気の遠くなるような作業だ。
正直言って、こんな記述をいちいち読む演奏家なんていないだろうし、研究者にだってほとんど必要のない情報ばかりだ。世界で僕以外に何人のひとが、こんな記述を読むことになるのだろうか? けれどもそれは確かに必要で、誰かがやらなければならない、ということは間違いなかった。
そういう仕事を朝の9時から夕方6時まで、一切休むことなく黙々と日々こなし続けるアーレント氏を支えるのは、鍛え抜かれたdisciplineである、としか僕には言いようがなかった。

 

あるいはデジャンに関して言えば、それは一種の宗教的な行為のようにも思えた。
作曲家の仕事が本業であった彼にとって、わざわざバーゼルに宿を借りてまでクラウス・フーバーのスケッチを見るモチベーションが一体どこからやってくるのだろうか? それは賃金を得るための〈仕事〉ではもちろん無かったし、〈趣味〉というにはあまりに負担の大きすぎる作業だった。
「電車の中で作業するときが一番捗るんだ」
財団からの帰り道、デジャンは言った。途中の広場まで、家までのルートが一緒なのだ。「そのためだけに五線紙とメモ帳をもって、トラムに乗り続けることだってある」
「それで調査はなんとかなりそう?」
「駄目だね。だから、今日は自分の曲に少し手を加えてた」
「ふーん」
と僕は適当に返事をした。
僕にはほとんど奇妙に思えたが、デジャンは自分の作品や研究を他人に見せようとすることはなかった。宣伝用のウェブサイトも持たず、作品リストすら何処にも公開していなかった。要するに、誰かの賞賛や承認を求めてはいなかったのだ。大学での作曲の講師の仕事が唯一の収入源で、たまに自作が演奏される機会を得ようとすることはあっても、それ以上のものは特に必要とはしていなかった。
「大事なのは自由でいられることだ」
とデジャンは言った。
彼の言う「自由」が具体的に何を意味するのかは分からなかったが、それが政治難民としての彼の境遇と無関係ではないことだけは、疑いようがなかった。肉親を失い、自身も投獄され、そして紆余曲折あってドイツへと流れ着いた。兄弟の一人はアメリカに逃れたという。母国に帰ることは、もうできない。
「だからゆっくり眠りたいのに、早朝まで大騒ぎしてる奴らがいると、うんざりするんだよ」
ハハハ、と僕は力なく笑った。

 

ウェーベルン全集編纂所の窓から

それからデジャンと別れて、いつものようにマクドナルドで不味いハンバーガーを貪りながら、僕は例の娼婦たちのことを考える。夕暮れ時だ。クリニックの営業時間も、そろそろ終わる頃だろう。
ロシア人の老婆はきっと、『千と千尋の神隠し』に出てくる湯婆婆みたいな姿に違いない。海千山千の手練で、似ても焼いても食えない、といった感じの老婆だ。娼婦たちは、もちろんもっと若い。けれども肌ツヤよいとは言い難く、ちょっとやつれているか、あるいは肥満ぎみかもしれない。夜になると自分でも誰だか分からなくなるくらいキツく化粧して、部屋には香水の匂いが充満する。けれども口うるさい湯婆婆がいなくなって、それなりにはハッピーだ。好きな音楽を爆音で鳴らしてドンチャン騒ぎしたって、文句を言ってくる奴は誰もいない。
やっぱりロックとか、そういう類の音楽が部屋には流れているのだろうか? あるいはサイケデリック・トランスとか、ゴアとか――、アングラな売春宿には麻薬の香りがよく似合う。マリファナくらい吸ってるに違いない。もしかすると、アンフェタミンとかコカインとか、もっと凄いやつだってあるかもしれない。部屋にはタバコの煙が充満していて、音楽の振動に合わせて空気がドンドン揺れている。
そろそろ堪りかねたデジャンが警察に電話しようと、起き上がる頃だろうか?
――まぁ、いずれにせよ、と僕は思った。ウェーベルンもフーバーも、あるいはブーレーズだろうがストラヴィンスキーだろうが、彼女たちにしてみたら、糞みたいな音楽だってことだけは間違いない。

(第6回に続く)

(2020/7/15)

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浅井佑太(Yuta Asai)
1988年、大阪生まれ。2011年、京都大学経済学部経済学科卒業、2017年、京都大学文学研究科博士課程、単位取得満期退学。専攻は音楽学。