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特別企画|コロナ騒動乗り越えの後、人類はどうするのか|近藤秀秋

コロナ騒動乗り越えの後、人類はどうするのか

Text by近藤秀秋(Hideaki Kondo)

昆虫生理学者の日高敏隆さんの書いた、生物における社会についての本を読んだことがあります(*1)。特に興味を惹かれたのは、種は増殖のメカニズムとセットで人口抑制の機構を持っている、という記述でした。増えすぎた生物は種全体で必要とする食事が確保できなくなるなどの問題を起こすため、様々な方法で人口増加を抑制するのだそうです。

■生物はその個体数を自ら調節し、かつ外から調節される

個体密度が上がるとミドリムシは増殖が止まり、移動バッタや旅ネズミは集団の一部を捨てる事で数を減らします。トノサマバッタは数が増えると色の黒い個体が現れ、彼らが一斉に場所を移すことで、既存のバッタの生存が保証されます。飛び立ったバッタの運命は、別の地で生き延びれば種の繁栄につながりますが、仮に全滅したところで既存の種は守られるので、彼らの運命など知った事ではないのだそうです。ネズミは社会集団を作りますが、人口が爆発すると隣接する集団と戦争を起こします。その結果、数が減ると戦争は終わり、また平和な集団同士に戻ります。つまり、動物が持っている社会は、個の死よりも種の存続を優先している、というわけです。

こうした人口抑制のシステムは、自己抑制や成員切り捨てという種の内部要因だけでなく、外的要因によっても実行される。捕食者の存在がその例で、驚く事に、捕食者ですら種全体と見れば人口抑制をしてくれる有り難い存在なのだそうです。かつてアリゾナで、狩りの獲物である黒尾鹿を増やすため、鹿の天敵であるオオカミやコヨーテを人間が倒した事があり、結果、オオカミは絶滅、いっぽう天敵のいなくなった鹿は短期的に激増したものの、地域の草を食いつくして冬を超えられずに数を減らし、むしろ種全体が危機に陥った。捕食者は食われる個体からみれば悪魔、しかし種全体として見れば恐怖の天使だったわけです。こうした種に対する外的抑制者は捕食者だけでなく、流行病やウィルスもそれにあたるのだそうです。

■人間は自ら個体数を調節する遺伝情報を持っていない

そして人間。人間は驚くほど本能が欠如していて、例えば種の保存の重要問題である生殖の問題ですら、性衝動はあっても生殖の方法を遺伝的には伝えられていないのだそうです。人間の生物としての本能の欠如は集団生活の選択と引きかえに起き、失われた本能の中には内的/遺伝的要因も含まれていたのではないか、というのがこの本の説明でした。これで、人における人口抑制の内的要因は戦争だけという残念な結果になった、というわけです。
人口抑制における遺伝的な内部要因は失ったものの、流行病やウィルスという外的な要因は人間に残りました。流行病は人口過密となった都市から起こり、有効なワクチンを開発する事の出来なかった時代ですら、人口の1/3が減るとなぜか沈静化する。免疫学であれば、抗体を持った人間の出現するタイミングが、人口減少1/3ぐらいのタイミングと重なる、とでも説明するのかも知れませんが(あくまでこれは私の推論ですので、信頼なさらないで下さい)、この本ではそれを「病原と人との間に生ずる生態学的なバランスの問題」と表現していました。なぜこういう説明の仕方になるのかを想像すると、捕食者が獲物を狩るのは被捕食者の個体数調整のためではないし、それは流行病も同じ事だからでしょう。意図した結果そうなるではなく、結果としてたまたまそうなるのでしょう。

■現代における「種」としての人間の課題

人類がコロナ騒動を乗り切ることが出来たとして、その後はどうするのでしょう。私は諸科学が示した成果をくみ上げて真理を知りたいと望んでいる人間のひとりですが、そうした門外漢の立場から諸分野の本を読んでいると、現代社会がいちはやく手をつけなければならないのは人口抑制ではないかと思う事が多々あります。社会学者のドラッカーも、「20世紀最大の出来事は人口革命だ」と言っていました(*2)
ここでは動物学の本を例に挙げましたが、動物学を通して眺めるパンデミックに限らず、エネルギー問題、戦争、環境問題など、ほかの分野の本を読んでいても、それぞれの解決策として人口抑制が提言された書籍に出会ったことが何度もあります。戦争における人口統計学の本に触れ、戦争と人口に有契性がある事を思い知らされた事もあります(*3)。戦争はある面で流行病に似ていて、いまだかつて人口を減らす目的で始まった戦争はありませんが、常に人口と関わりがあります。また、社会学という視点ではなく、分子遺伝学と生命環という視点からウィルスを眺めると、いま社会が持っている「ウイルスと戦う」という人間観とはすこしばかり異なった見解に導かれますが、やはり似たところに結論が落ち着きます(*4)

誤解してほしくないのは、「コロナで人が死んでもいい」「戦争で人が死んでもいい」と私が思っているわけではない事です。ただ、進化の過程で人間は人口抑制のための内的システムが欠如しているのならば、それを何らかの方法で補う必要があるのではないか、と思ってしまいます。コロナ禍に接して思うのは、人口抑制を外的要因に任せる現状の人間は、捕食獣にそれを任せる鹿のそれに似ている、という事です。恐怖の天使に任せる事は悪い事ではないのでしょうが、そこには個にとっての悲劇が含まれます。社会とは最初から個ではなく種の方を向いているのですから、気を遣わなければ、事あるごとに個の悲劇が続くはずです。しかし個の犠牲を取り去ることが出来るならば、それに越したことはありません。恐怖の天使による間引きでもなく、バッタやネズミのような切り捨てでもなく、ミドリムシのような個の犠牲を生み出さない自己抑制は出来ないのでしょうか。

■諸分野の知見の全体場への引き上げ

掘り下げるならばさらに「意図的な人口抑制の阻害要因」や、「どうすれば社会問題を解決できる構造を人間は作ることが出来るか」、といった点の私なりの見解を語ることも出来ます。例えば前者における私の答えは、嘘のように思われるかもしれませんが、現在の資本主義経済システムです。しかしそこを語る事は本論の域を越えそうなので、ウィルスの引き起こすパンデミックを実体験した人類が、その後に何をするのか、という所に話を絞る事にします。

私の結論はシンプルです。人類が本気で個と種の両方を生かそうと望むこと、そして各分野の研究が至った知見を全体場に引き上げる事、これだけです。今回取り上げた本を日高敏隆さんが公開したのは1960年代。つまり、専門の分野ではとうの昔に問題点もその原理究明も果たされ、方策すら提示されていたわけです。同じことが、エネルギー問題、人口問題、環境問題、戦争など、多くの分野でも為されてきました。ただ、それが社会という全体場に引き上げられ、実行される事だけが出来なかったように見えます。理由は何でしょうか。それが、「人類が本気で個と種の両方を生かそうと望んでいない事」と、「各分野が至った知見が全体場に引き上げられていない事」というわけです。

専門の智の存在自体を知らないものが、どうやってそれを全体場に引き上げることが出来るでしょうか。青を知らない人が、壁を青く塗る事を思いつくことは不可能です。だから、専門的に深いところまで知らなくとも(望んだところで、すべての専門に深く通じる事は不可能です)、諸分野の知見をその要約だけでも知っておく必要があります。
そして、社会場において必要な智を、我々は代表者にだけ任せるわけにはいかない構造を持っています。何故なら、今の人間世界で決定権を持っている代表者の多くは、専門分野の知識を持った諸科学の代表者ではなく、多数決によって私たちが選んだ人だからです。

選択基準を主と個の双方を生かす前提に置く事、そして成員が全体智を学ぼうとする事、このふたつを実現するために、我々はもう少し努力する必要がありそうです。前者を実現するには、なぜ人類は他の大型哺乳類のように優生学的な戦略を取らず個を救う必要があるのかという点で、種全体で合意に達する必要があります。後者を実現するには、知らなくていい(あるいは専門分野で役割を果たせばいい)という認識を改める必要があります。どちらも、不可能ではないが容易でもない作業に思えます。今まで為されなかったのだから、普通では為されないのでしょう。だから契機が必要ですが、コロナ騒動は、考えようによっては契機として活用できるかも知れません。

問題が生じると、人はどうしてもその問題点に着目してしまい、物事を否定的に見てしまうようです。しかしもっと大きく見れば、人類はなかなか頑張ってきたのではないでしょうか。強い武器を持った動物たちの中で、共同生活をするという戦略によって生存競争に生き残り、建築という技術を生み出して捕食者や自然の脅威の問題を緩和し、農耕によって食糧問題の多くを解決し、法や宗教を生み出して動物並みの激しい争いの世界を回避してきたのですから。こうして末法の世を潜り抜け、地獄を緩和してきた人類の今の課題のひとつが、種全体での智のレベル向上なのではないか。不要不急の外出を控える状態となった東京のとある仕事部屋で、そんな事を夢想していました。
これを分かりやすい形に落とし込むなら、人間にとって抜き差しならない問題を研究し、その解決策を示した本を読む事、知見に触れる事。こうする人が種として一定の割合に達したところで、人は現代最大の課題である人口爆発問題の解決を傷みの少ない方法で解決することが出来るようになり、次のステップに進むことが出来るのかも知れません。

*1)『動物にとって社会とは何か』(日高敏隆 集英社学術文庫)

*2)『プロフェッショナルの条件』(P.F.ドラッカー著、上田惇生訳 ダイヤモンド社)

*3)『戦争 その社会学的考察』(ガストン・ブートゥール著、清水幾太郎・武者小路公秀訳 文庫クセジュ)

*4)『生物記号論』(川出由己 京都大学学術出版会)など

(2020.4.18記) (2020/5/15)

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近藤秀秋 (Hideaki Kondo)
作曲、ギター/琵琶演奏。越境的なコンテンポラリー作品を中心に手掛ける。他にプロデューサー/ディレクター、録音エンジニア、執筆活動。アーティストとしては自己名義録音 『アジール』(PSF Records)のほか、リーダープロジェクトExperimental improvisers’ association of Japan『avant- garde』などを発表。執筆活動としては、書籍『音楽の原理』(アルテスパブリッシング)など。