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小人閑居為不善日記|パンデミックの中、映画を見る――《キャッツ》と《ブレードランナー》|noirse

パンデミックの中、映画を見る――《キャッツ》と《ブレードランナー》
Cinema in the Pandemic――Cats and Blade Runner

Text by noirse

※《ブレードランナー》の結末に触れている箇所があります

1

いつも真面目な話ばかりしているので、たまにはふざけた話もしたい。

学生時代、Sという友人がいた。街中をぶらついていて、犬の散歩をしている人とすれ違うと、決まってこう言った。「犬が裸で歩いてるじゃないか、なんだか興奮してきた」と。

もちろんくだらない冗談なのだが、考えてみれば確かに不思議だ。人間は家を建て、街を作り、着飾って、社会を形成し、文化的であろうと振舞い、周りから自然や野生を排除していく。犬や猫を飼う時も、服を着せ、自分の趣味に合わせようとさえする。

だが当の犬や猫には関係ないことだ。家畜化されしつけられていてもあくまで犬や猫は「他者」であり、人間の理性の届かない自然の領域にある。取り繕った人間社会の中で、自然界からの異分子が、野放図に走り回っているように見えるのだ。

そしてどれだけ格好つけていても、あらためて人間も「動物」なんだなと考えてしまう。人間は常に、社会と自然の狭間で「宙吊り」状態にある。怪我をすれば痛いし、病気になれば動けなくなるし、いつかは必ず死ぬ。健康な時は自らの「自然」や「動物」性などに無自覚で、理性的かつ文化的だと振舞っているが、街中や屋内で犬や猫を見ると、自分もただの動物なのだと引き戻されてしまう。

キャッツ

少し前に、映画《キャッツ》(2019)を見に行った。ご存じアンドリュー・ロイド・ウェバー作曲のミュージカルで、劇団四季のロングヒット作でもある。鳴り物入りで公開――されるはずだった。結果は圧倒的な不評。ほとんどが生理的な拒否だった。俳優を「猫化」するに際してCGでデザインされた姿が、大多数の観客には気持ち悪かったようだ。

けれど、わたしはそこまで不快に感じなかった。映画の出来がよくないのは確かだが、それは主に脚本や構成の問題で、そこを改善すればよくなっただろうし、同じデザインでも多少は受け入れられただろう。《キャッツ》の悪評は、不出来の原因を観客が無意識のうちにデザインの方へと転嫁してしまった点もあるのではないか。

とすれば理由は何だろう。極論をひとつ挙げてみよう。人間のように振舞う妙に「リアル」なキャッツたちは、動物と人間の狭間で「宙吊り」状態にある。観客はキャッツから普段目を背けている自らの「動物」性を突き付けられ、居心地悪さを感じたのではないか。

2

2001年のNYテロ、2011年の東日本大震災、そして今年のパンデミック。約10年ごとに、それまでの通念をひっくり返す事件が勃発している(もっと遡れば1991年のソ連崩壊だろうか)。

NYテロの時も、震災の際も、起こった直後は、これから先、社会がどうなっていくか予測がつかなかった。今回のパンデミックは、それらよりも先が見えない。いつ収束するのか。経済的な打撃は生活にどのような影響を与えるのか。その結果、社会はどう変化していくのか。

新型コロナウイルスの最大の脅威は、軽微な症状で済む感染者が多く、無自覚のままウイルスを媒介してしまう点にある。そこは厄介だが、致死率自体は群を抜いて高いというわけではない。
それでも世界にこれだけのインパクトを与えた。これがもっと致死率の高いウイルスだったら――たとえばエボラウイルス並みの凶暴さを兼ね備えていれば――さらに凄まじいインパクトを社会に与えただろう。

逆に言えば、そこまで凶悪なウイルスでなくとも、これだけの混乱をもたらすのかという驚きがあった。社会は、大半の人間が健康であることを前提に設計されている。エボラよりずっと致死率の低いウイルスでも、こんなにももろく崩壊してしまうものなのか。

《キャッツ》の原作者、T・S・エリオットの代表作《荒地》(1922)は、一次大戦後の荒廃した社会を背景としている。長い歴史の末に築き上げた文明が滅びていく様を見つめ、時に失われた過去を懐かしむ姿は、昨今のアニメやゲームでも人気の「終末世界」テーマに通じる。〈Hollow Man(うつろな人々)〉(1925)も、同じく「終末もの」テーマだ。

こうして世界は終わる
世界の終りは
爆発ではなく、すすり泣きでやってくる

20世紀の英語詩で最も多く引用されていると言われる、有名な一節だ。終末テーマというと核戦争を想定したものも多いが、エリオットのこのイメージはウイルスによる滅亡に近い。

ボディ・スナッチャー/恐怖の街

「ウイルスによる終末社会」という設定だと、筆頭に上がるのはゾンビものだろう。だが今回のパンデミックに照らして考えると、ゾンビものはいささかウイルスが「強すぎる」。より近いのは、たとえば映画《ボディ・スナッチャー/恐怖の街》(1956)だろうか。ジャック・フィニイ《盗まれた街》(1955)原作で、身近な知り合いが少しずつ宇宙人にのっとられていく恐怖を描き、何度もリメイクされた。

ゾンビは一見すれば分かるので、「感染」しないよう用心できる。だが《ボディ・スナッチャー》の宇宙人は巧妙に人間に化けており、注意しないと分からない。誰が感染者なのか判別できない今の状況だと、こちらの方が似ている。だが、さらに近い作品がある。

3

ブレードランナー

人造人間「レプリカント」が開発された未来。レプリカントは労働用に作られているが、一部で感情に目覚め、人間に反旗を翻す者が出てきたため、寿命も短く設定される。それでも反逆者は減らず、反逆者を探して処分する捜査官「ブレードランナー」が組織された。

映画《ブレードランナー》(1982)は、《ボディ・スナッチャー》をさらに先に進めた作品と言える。《ボディ・スナッチャー》では、主人公が人間であることだけは保証されていた。一方《ブレードランナー》のミソは、ブレードランナーである主人公デッカードもレプリカントかもしれないと示唆している点にあった。

もしデッカードがレプリカントだったら、彼は仲間を殺していることになる。こうした「宙吊り」状態にあって、デッカードはどう決断し、振舞えばいいのか。

《ブレードランナー》で最も重要な問題はここにある。この作品を巡っては、常にデッカードがレプリカントかどうかという議論がついて回るが、それはどうでもいいことだ。つまり作品からの撤退を意味するからだ。

デッカードは最後、反逆したレプリカントのリーダー、ロイ・バッティと対決する。ロイはデッカードを軽々といなし、独白を始める。これは「ティアーズ・イン・レイン・モノローグ」と呼ばれ、映画史上に残る名セリフとして高く評価されている。

おまえたち人間には信じられないものをわたしは見てきた
オリオン座で燃える宇宙船
タンホイザー・ゲートで煌めくCビーム
だが思い出も、やがては消えていく――雨の中の涙のように
最後の時が来たようだ

ロイはデッカードのとどめは刺さず、雨の中で死んでいく。一方デッカードは、好きな女を連れて逃げ出してしまい、映画は終わる。仲間かもしれないレプリカントを殺し続けたデッカードと比べ、ロイ・バッティは堂々としている。

ロイの振る舞いを見ていると、懐かしき実存主義を思い出す。レプリカントは何のために生きているのか。何故、もうじき死ぬと分かっていても反乱を起こすのか。仲間を殺したデッカードを赦すことで、ロイは何を得たのか。

ブレードランナー 2049

ボーヴォワールふうに言えば、人は人に生まれるのではなく、人になるのだ。こうした問いは、《ブレードランナー 2049》(2017)でさらに展開していく。主人公K(カフカを意識しているのだろう)は、レプリカントでありながらブレードランナーとしてレプリカント狩りに従事している。だがKは次第に、どうすればレプリカントでなく、「人間」になれるのか自問していく。

ロイやKから学ぶべき点ならありそうだ。たとえば、新型コロナに感染しているかどうか分からない宙吊りの状態でも自己を律して行動すべきである――などというような。ありきたりでつまらない結論だが、まっとうではある。

一方デッカードは頼りなく、彼からは得るものもなさそうに感じる。同胞かもしれないレプリカントを殺し、ロイに叩きのめされ、ようやく主体的な行動を取ったと思えば、好きな女と逃げ出してしまう始末だ。

でも、そこがいい。パンデミックの元では、誰もが毅然とした態度を取るよう強いられる。もちろん状況によっては気を付けなくてはならない。しかしいつまでも自分を律し続けることはできまい。そもそも人間とは、そもそもだらしなく、思いつきで行動する、欲望に忠実なものではないのか。
大半の人が今、自分が保菌者なのか非保菌者か分からない、宙吊りの状態にある。宙吊り状態を常に意識していては、自己が引き裂かれてしまうだろう。

誰もがロイやKのようになれるわけではない。デッカードのようであっていいのだ。「だらしなさ」を肯定すること。「宙吊り」状態を自覚し、それに抵抗するのではなく、受け入れること。だらだらと、しかししぶとく生き続けること。今ふさわしいのは、こうした「デッカード」的な振舞いではないだろうか。

(2020/4/15)

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noirse
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