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緊急特別企画|新型コロナウイルス流行下における文化産業|西村紗知

新型コロナウイルス流行下における文化産業
The COVID-19 crisis and the culture industry

Text by 西村紗知(Sachi Nishimura)

東京は本当にすごいところだと日々実感しています。これほどイベントが中止になるということは、本当に毎日何かしらのイベントがあるのだと。同時に、自粛要請があってもそもそもイベントなどほとんど開催されない我が故郷・鳥取のことを思い出します。私の中では今回の新型コロナウイルスにまつわる騒動は、やはり都市生活の贅沢な悩みのように思えてならず、こうしてまた東京を中心とした都市生活の問題があたかもそのまま日本全体の問題とみなされていくのだな、とどこか白けた気持ちで過ごしているわけです。
ともあれ今回の騒動でわかったのは、いや、今更のことですが、文化が産業となっているということ、もうだいぶ前から自明となっていることが今一度思い知らされたということです。私たちの文化は産業の一部です。だから諸々の経済活動に対するものと同様の措置がなんの抵抗もなく適用されていく。フリーランスの音楽家の経済状況を思うと胸が痛いですが、そもそも文化産業は私たちの前提です。危機的状況になってはじめて騒ぐというのは、日ごろの文化産業の恩恵を忘れているとまでは言いませんが、他の産業と別様の措置を適用してもらうための理論武装は、日ごろから用意しておかないと難しいでしょう。
というわけで今回の騒動で明るみとなった構造、文化と産業の接続状況というのは、まずもって産業の自粛に伴い文化も自粛されるべきだ、という政府の方針をもって明らかになったわけですが、我々メルキュール・デザール同人にこの状況下でできることとなると、産業に接続されない文化の可能性を考え、これを人々に発信していく。これに尽きるでしょう。

さて、人々にとって文化と産業の接続状況というのはどういうことでしょうか。それは、文化を通じて得られる精神生活が、産業側の論理で営まれるところの、イベント参加とコンテンツ消費に取って代わっているということです。イベントへの参加とコンテンツの消費なしの精神生活というのは考えにくい。我々は、なにか出来事やきっかけに先立つかたちで、自らの精神生活を営むのに慣れすぎてしまっているのではないか。精神生活というと大げさですが、要は物質的な生活以外の、精神的な快楽でもゆとりでも、そういうもののことです。子供はともかく、大人なら自分がどういうときになにをやりたいか、というのは自分で決められるべきなのではないでしょうか。Twitterのハッシュタグで「こういうときこそ本を読もう」といったものが流行ったようですが、本来大きなお世話なわけです。自分で読みたい本は自分で決めていくものですから。まわりに影響されながら吟味して……というのも楽しいですが、そればかりだと普通の買い物と変わらないではありませんか。実のところ、Twitterの情報発信においては、精神生活と消費活動はかぎりなく接近するものなのかもしれません。

メルキュール・デザールのハッシュタグ「#fiori_musicali_mercure」もまた、新型コロナウイルスに対する恐怖とともに日ごろの排斥的な感情が呼び覚まされたなかで、なにかせねばいられないという一種の焦燥感の表現にはなりえていたとは思いますが、産業側の論理に巻き込まれてしまうのを回避できません。コンテンツの消費に音楽作品を差し出すということをしたからです。今回の騒動で、文化と産業の接続はより強固なものとなったでしょう。イベントができないなら配信すればよい。イベントの数々の中止を受けて、我々は本当だったらその時間に自分でなにがやりたいか、選び取ることをすべきだったのです。びわ湖ホールの試みは確かに革新的だったでしょう(すみません。私は体調を崩していたので見ることができませんでした)。エンタメ業界の有料コンテンツの限定配信もまた、小さな子供がいる家庭には特にありがたい試みなのかもしれません。ただ私は、自分の部屋にイベントが押し寄せてくるのが嫌です。これ以上、人々が自分で自分の行動を決められなくなっていくというのが、不安でしょうがありません。長い目で見たときに我々の敵というのは、新型コロナウイルスでも安倍政権でもなく、Netflixなのかもしれません。

話を戻しまして、産業に接続されない文化の可能性についてですが、今ほど資本主義が盤石でなかったころの思索に手がかりを得ることができるとは思います。さっと思いつくのは寺山修司『幸福論』、鶴見俊輔『限界芸術論』です(もっと適切なものがありそうですが)。前者は演劇教育を主とした反権力的感性の育成を、後者は手工業的な芸術の美的な可能性を、模索しているように思えます。きちんと検討せねばなりませんが、いずれも自給自足で文化をやる、というのを志向しているのだと思います。少なくとも、寺山や鶴見の方向性でいけば、我々はコンテンツ消費というのに対する依存を減らすことができる。
普通に考えれば、自給自足の文化というのが、産業に接続されない文化のもっとも可能的な形態と言えましょう。ただ、自給自足で文化をやっていこうという理念は、これ自体には問題がなくとも、今の時代に移したときに、つまりあらゆる産業の縮小という今の時代の現実を考えたとき、あまりそのポテンシャルを発揮できないのかもしれません。そもそも、自給自足の芸術なんて本当にあり得るのかしら、という疑問があります。素人細工と芸術の境界線はどうなるのか(今や下手な芸能人よりユーチューバーの方がよっぽど人気があってキラキラしています)、自給自足の結果「仮象」をどこに見出せばいいのかしら、などという今っぽい問題が別に出てくると思います(アドルノが文化産業ということと仮象の危機ということ、いずれも考えていたことは私にとって大変示唆的です)。

他にも、なぜ私が自給自足の文化という理念に違和感を覚えているかといいますと、この間の1月4日に、印象的なことがあったからです。その日三鷹SCOOLで佐々木敦主催の「(J)POP 2020」という、これからのJ-POPの在り方を考える討論会、というよりちょっとした学会のようなものがありました。4人の若手論者がそれぞれの個人発表ののち、討論会を最後に行ったわけですが、ここで提出された論点は、重要なものに絞れば2つ。
J-POPというジャンルの音楽における「日本的」とはいかなることか――この日本という表象の問題は、私にとっては椎名林檎の問題ですが、ここでは置いておきます――そして、産業がますます縮小されていくなかでの、J-POPのサステナビリティの問題でした。「今日、CDは売れない。片や、景気のよかった80年代の日本製のシティ・ポップは今でも海外で売れているが、今のJ-POPのシティ・ポップリバイバルのものは海外でも日本でもさほど売れない。自分たちで『これが売れる』という基準がもてない。フルタイムミュージシャンが減って、ファンの囲い込みがはじまる。自分たちのやりたい音楽を、自分たちの音楽をいいと言ってくれるファンに聞いてもらう。作家性が商業的に制限を受けないというのはよいけれど、そもそもJ-POPって作家性が売れるか売れないかで迷ったりするあたりに面白さがあったのではないのか。そうして商業的な80年代のシティ・ポップが今となって魅力を獲得していく。でも自分たちでリバイバルしてもそんなに売れない」――云々。価値基準的にも経済的にも、どんどん広がりを失っていく音楽の在り方というのを、私は大変深刻に思いました。つまるところ、J-POPは現代音楽のようになっていくのだということ、むしろJ-POPがそれを望んでいるのだ、と感じたからです(付言すると私は、その討論会で紹介された最新のJ-POPというのを帰宅してからYouTubeで聞いて、残念ながらどれ一つとして面白いとは思えなかったのです)。
自給自足の文化を地で行く、ネット配信を駆使した自由な創作というものが、それが売上を志向する音楽というのであっても、基準の面でも金銭的な面でもいわば蛸壺を欲している。今や、寺山や鶴見がカウンターとなる前提だったところの、商業的な芸術というのが危機に瀕しているということを私は妙に説得されてしまいました。

最後に私は、「批評の専門性」というトピックに話を移行させようと思います。私が今日言いたかったことは次のことです。文化と産業は接続されているので、産業側の論理に文化は巻き込まれていく(余談ですが、「あいトリ」のことを我々は決して忘れてはいけません。芸術作品の内容が現実の事象と同一視されたことの恥辱というのを、同時に結局「表現の自由」以外に芸術作品が自らの身を守る理論武装がないということの情けなさを)。よって産業側の価値観の押し付けを文化は食らうわけです。ネット配信などを通じて文化は無限に拡散されていくように見えるわけですが、商業的な文化側の事業縮小に伴う価値観の蛸壺化と同期するようにして、全体から見ると結局蛸壺が無限に増えていくに過ぎません。
というわけで、文化は産業側の価値観の押し付けを食らいつつ、蛸壺化していく。産業側の価値観は受け入れなきゃいけないのに自分たちの価値観は人々に伝わっていかない。そしてこれこそ、今日批評の相手取る文化の姿にほかなりません。
しかし度外視してならないのは、蛸壺化を望むに至るダイナミズムがあるということです。なるほど確かに、メルキュール・デザールが普段批評の対象とするところの「クラシック音楽」「現代音楽」というのは、すでにして蛸壺です。もちろんそもそも音楽美というのが美的にも社交的にも制度的なのは今に始まったことではありませんが、メルキュール・デザールの同人はそれぞれの仕方で蛸壺化との対決に普段から取り組んでいるのだと私は信じています。ただ今日の蛸壺化は、それとは変わってきています。下手に蛸壺化だけ糾弾すると、芸術は芸術ですらなくなってしまうかもしれない。「芸術だからってなにしてもいいのか」という、「あいトリ」のときによく聞こえてきたあの忌まわしい言葉がこだまします。ただこの言葉もまた、蛸壺化の糾弾ではあったというのを、忘れてはいけません。我々には批評の専門性というのを、音楽学かジャーナリズムか、あるいは小林秀雄的なある種の嘘つきの技術か(私は小林が嘘つきだとは思っていないんですけども)という選択肢に押しとどめている段階にはもはやいないのではないでしょうか。蛸壺化の糾弾だけではいけません。同時に批評は、作品を外的な価値の押し付けから守らなければなりません。ここの繊細なバランス感覚に、批評の専門性があるのだと私は思います。産業に接続されない文化の可能性のために、筆をとらねばなりません。

(メルキュール・デザール総会において配布した資料を一部改稿)

(2020/4/15)