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特別寄稿|私のフランス、私の音(3)音(と味)のアイデンティティ |金子陽子

(3)音(と味)のアイデンティティ
L’identité sonore (et culinaire)

Text & Photos by 金子陽子(Yoko Kaneko)

その地、その時代、その作曲家ごとに、聴いていた、イメージした『音』が異なるということを現代の私達は忘れがちなのではないだろうか?

敬愛する同僚 (バロックチェロの巨匠)のご家族とパリの拙宅でリハーサル後に和食会をした折り、私が日本から持って来た取って置きの西京白味噌で、溶き方を説明しながら一緒にお味噌汁を作って味わった。すでにかなりの日本ファンの同僚だが、既成の味噌汁とは全く違った、正に京都を彷彿とさせるその風味に驚き、感動でほとんど眼を潤ませながら唸っていた。
日本なら味噌と酒、フランスではチーズとワインのように、その地特有の、大切に伝承されてきた味と香りは私達の想像力を遠い世界に誘ってくれるから素晴らしい。これは音楽においても同じだ。それぞれの時代と土地に特有の『音のアイデンティティー』がある。音も食文化と同じようにその地の歴史と風土を映し出すのだ。

フランス・エラール社の平行弦グランドピアノErard 1896年製、金子陽子所蔵

1987年、パリの最初の1年を学生寮で共にしたレンタルピアノは、チェコのペトロフ社 (Petrof) の茶色いアップライドであった。東西ベルリンや共産圏の民主化が始まる前であったので東ヨーロッパや今のロシアで愛用されていた楽器である。新しいのは良い事だ、ピアノは消耗品である、というような『キャッチフレーズ』と共に身にしみ込んでいた『世界共通の黒いピカピカのピアノ』という概念はどうも違うようだ、と感じ始めたひとつのきっかけであった。
10年後、恩師で指揮者、歴史的鍵盤楽器の名手でコレクショナーとしても名高い、ジョス・ファン・インマゼール氏から、1896年製のフランスエラールErard社の平行弦のグランドピアノを譲り受けた。以来この楽器は家族の大切な一員となった。私の住む建物はそのエラールとほぼ同じ頃、1890年の石造りであることもあって、スタイル、音色、音量共に合っているようだ。
エラールのピアノで何より素晴らしいのが中間から低音の音色の幅広さと重すぎない豊かさ、決してペダルが(現代の交差弦グランドピアノのように)不快に濁ることのない平行弦仕様、遠い天空を思わせるダンパーなしの高音部である。パリ近郊モンフォール・ラモリのラヴェルの家にあるエラールにもそっくりで、フランス印象派の作曲家が聴いて愛した情熱と彩の多い洗練された音色である。

クリストファー・クラーク氏が
2004年に完成したワルターモデ
ルの5オクターブフォルテピアノ
金子陽子所蔵

2004年には注文から10年待ちで出来上がった、フランスの人間国宝『Maître d’art』 クリストファー・クラークChristopher Clarke 作のワルターWalterモデルの5オクターブのフォルテピアノが家族の一員となった。モーツアルトや若きべートーヴェンが愛した楽器のレプリカである。
この時代の楽器が備える極めてシンプルな『ウインナーアクション』は、ピアニストの指先の繊細なテクニックの長所も短所も容赦なく音に出してしまうため、この楽器の初心者にとっての最初の何年かは試練に満ちた体験となるが、探求した音色を出す事に成功した時の満足感とその精緻な表現能力には格別なものがある。又、膝を上に押し上げるしくみの左右2つの膝ベダルの制御も慣れるまでにかなりの時間を要する。

ところで、ピアノに限らず、楽器というものは年月と共に、そして弾かれ方によって、良くも悪くも音色が変化し発展していく。優れたワインの風味が年月を経て熟成していくのにも似ている。楽器の誕生から成長まで日々を共にすることは不思議な幸せな体験であり、私と楽器との間に暖かく親密な関係が生まれた。

このクラークの楽器はハープシコードとほぼ同じ大きさのため、自分の車に積み、自分で調律をして地方のコンサートに出かけることもある。世界で名誉な賞をいただいた師匠インマゼール氏とのモーツアルトの2台のフォルテピアノのためのコンチェルトKV356のCD録音と3度に渡るヨーロッパツアーで、この楽器はオーケストラの楽器と師匠のフォルテピアノと共にトラックに載り、ベルギー、スペイン各地(サラゴサの2000席の大ホールや由緒あるビルバオ劇場など)、2013年にはブリュージュのコンセルトへボウでのテレビライヴ収録、格別の音響が素晴らしいディジョンのオペラ座や、ポーランドのワルシャワのフィルハーモニー大ホールまでも運ばれ、ショパンコンクールで知られるあのステージでも美しく鳴り響いて大喝采をいただいた。(来月号では音響と録音をテーマとしてこれらのホールのことにも触れる予定)

オランダのエドヴィン・ブンク氏 Edwin Beunk が
修復、所蔵のコンラード・グラーフConrad Graf,
1826年製、6オクターブ半。
レコーディングセッション風景、2019年9月

最後に我が家にやってきた楽器は、1825年にウイーンで生まれた6オクターブのオリジナル楽器である。年月を経てやや疲れているものの、ベートーヴェン中期後期やシューベルトや初期のシューマン、メンデルスゾーンの作品のより暖かく親密な音の世界を、極めて小さく軽いハンマーで奏でてくれる。特筆すべきなのは、ペダルが5本もあり、そのうち2本が弱音のためのペダルであることだ。シューベルト、更にはシューマンもダイナミック記号にかなり気を使い、弱音での表現の可能性を追求していた事が記譜から伺えるが、正にこのペダルの存在は、このような楽器からのインスピレーションが大きかったことを立証している。この楽器に良く似て当時から素晴らしい評価を受けていたコンラード・グラーフというフォルテピアノを使い、私は先年の秋にシューベルトの即興曲集と楽興の時をCD録音した。

このように、音色は音楽と演奏家にとっての重要なアイデンティティ構成要素であり、作曲家がそれぞれの時代に聴き、意図していた音色とそれに伴う演奏技術と様式を知ることは、実に興味深く、必要不可欠とも言えるだろう。
更に専門的な勉強や興味を深めると、楽器の調律法、楽器に使用する素材(ハンマーや弦)、更に楽器のピッチ(時代は勿論だが、国ごとに今でも微妙に違う)も大切な要素であることに気づく。

ところで、音楽において、フランスでは伝統的に『感情』でなくて『色』という概念が大切にされており、レッスンでもこの言葉が(テクニックという言葉より)ずっと頻繁に使われる。
音楽を演奏するにあたっては、演奏技術としてのタッチやテンポは勿論、楽曲特有のリズム、フレージング、イントネーションという、楽譜に記載されていない、楽譜の奥に隠れ、師から弟子へと伝えられて行く「秘伝」に属する要素も重要な役割を担っている。
時代、風土、作曲家により音、個性、スタイル、趣味が異なるため、私達演奏家はそのような微妙な違い、言い換えれば、真髄?を探求するために永い年月を費やす。

昨年以来、作曲家でパリ音楽院の先輩でもあるアレクサンダー・ダムニアノヴィッチ氏 (Alexandre Damnianovitch) から、フォルテピアノのために奥深い美しさを持つ小品の数々を作曲、献呈頂き、フランス各地でのリサイタルで初演を手がけている。故郷セルビアの民謡やビザンチン音楽などにインスピレーションを得た、伝統と新しさを見極めた手法だが、氏はフォルテピアノにこれほどのデリケートな音色や表現が可能だとは知らなかったという。
作曲家へのインスピレーションの源が私の演奏するフォルテピアノの音色だったというのは新鮮な驚きだったが、氏にとってはそれは、声楽曲やオーケストラ作品を経て自身の初心を象徴するピアノという楽器への”回帰”を意味していたようだ。
作曲から初演に至るまで、互いの音楽での道のりや解釈、表現について折々意見を交換できるという、作曲家との『共演』ならぬ『共同作業』は貴重で光栄な体験だ。更に同一作品を異なった時代のフォルテピアノや様々なグランドピアノで弾き比べてみる事も興味深いものだ。

『シューベルト、即興曲全集、楽興の時』
CDのジャケット・MAJ511
2020年1月MA Recordings社よりリリース

演奏が作曲家が構想した音による建築の、時間と空間においての一瞬の再現であるならば、音楽は、音とは、正しくこのように、昔と今、遥かなる地と人々の歴史が交差する一点に位置し、この先もずっと生き続けて行く。
そして魂のある音楽や演奏に私達が触れるとき、その瞬間が時を超え、すべてを忘れて『永遠の物』となる。

YOKO KANEKO F.SCHUBERT Moments musicaux No.2 fortepiano 金子陽子 フォルテピアノ

(2020/3/15)

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金子陽子(Yoko Kaneko)
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
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