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特別寄稿|『愛のあるところ嫉妬あり』〜パウル・ザッハー財団訪問記(3)|浅井佑太

『愛のあるところ嫉妬あり』
〜パウル・ザッハー財団訪問記 (3)
Dove è amore è gelosia〜パウル・ザッハー財団訪問記 (3)

Text & Photos by  浅井佑太(Yuta Asai)

2週間が過ぎようとしていた。その間、ほとんど訳も分からず、僕はただただ目の前に置かれたスケッチを書き写し続けた。

朝9時に鳴るバーゼル大聖堂の鐘の音とともに財団に足を踏み入れると、地下1階の広間のロッカーにリュックとコートを預ける。それからネスカフェのエスプレッソマシンに2フラン硬貨を投入し、クッキーを何枚か手に取りちょっとした腹ごしらえ。筆記用具を持って作業部屋に入ると司書の方が何人かすでにいるので、邪魔しないくらいの大きさの声で、
「……morgen(おはよう)」
と、簡単に挨拶を済ませると、その日の日課が始まる。特に用がなければそれ以上何か言うこともなかったし、彼らの方も隅のデスクで寡黙にキーボードを叩き続けているので干渉してくることはほとんどない。

そういうわけで一旦作業が始まってしまうと、後はひたすらノートに一つずつ音符を書き写していくことになる。それほど苦労もなく1ページを書き終えることもあったが、細かい音符が多いものになると途方もなく時間がかかることが大半だった。それに例えば「♯」と「♮」の見分けがつかないとか、あるいは乱雑に書き込まれた発想記号の解読に手間取ったりすると、どうしても作業を一旦止める羽目になる。たった一度つまずいただけでも、クリーン・ヒットを食らったボクサーみたいに、立ち上がるまでに何度もよろけてはふらふらと床に倒れこんだ。

そしてそういう時は大体、恐るべき集中力の欠如を発揮して、2杯目、3杯目のエスプレッソを飲みに行ったり、広間でスマホをいじったりして、ますます無為に時間を潰すという悪循環に陥ることになる。しかも真っ白な広間の端っこの方には、ご丁寧にコピー機が3台も設置してあって、視界に入るたびに、
――なんで21世紀にもなって、手書きでこんな面倒なことしなきゃいけないんだろ。
なんて埒のあかないことを思わないでもなかった。

* * *

とはいえ、ある意味でそれは、コピー機なんてそもそもなかった時代に生きた多くの作曲家が辿った道でもあった。確かベートーヴェンもバッハの平均律を書き写したという話を聞いたことがあるし、ウェーベルンにしてもシェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》を写譜していたことが記録に残っている。仕事の合間を縫って、郵送されてきた出来立ての浄書譜を写し終えると、原本を師の元へと送り返す。そして写譜した楽譜を注意深くピアノで弾いて、その感触を指と耳で確かめる……。

多かれ少なかれ、過去の音楽家たちは、似たようなことをしてきたのだった。それはもちろん、他に手段のない時代の必然だったのだろう。しかし偉大な作曲家たちもまた、そうやって〈書き写す〉という行為を通して、先人の音楽語法を自らの血肉へと変えていったに違いない。

……まぁ、そうは言っても、ウェーベルンのスケッチを何枚書き写そうとも、流石に僕レベルの音楽的素養の人間に、彼の音楽のエッセンスが血肉となって吸収される――、なんてことは、いくらなんでもあり得ない話だった。正直に言うと、さっぱり理解できなかった。

それでも2週間も経つと、少しずつ分かってきたこともあった。それは音楽の背後に潜む神秘的なシステムに対する直感などといったものでは決してなく、むしろクレフや臨時記号を書くときの細かい筆跡の特徴といった、言語化できないようなおぼろげな楽譜の書き方の〈癖〉だった。確かにそれは音楽そのものとは何の関係もないものなのかもしれない。けれどもそれは、どんな教科書にも載っていない、外灯の光の滲みのようにつかみどころのない些細な感覚の集積で、それだけにある意味ではエッセンスと言っても良いのかもしれなかった。

「それでここに書かれているこの音符はやっぱり、「ソ」じゃなく「ラ」だと思うんです。どうでしょうか?」
自分の読みに自信がなくなってくると、僕は時々、キュレータのオーバート氏を呼び出して、彼の判断を仰いだ。ウェーベルン全集の編集メンバーの一人でもある氏には、何度もお世話になることになる。
「うん、なるほど、どうしてそう思うの?」
すらっとした細身で長身の彼は、イギリスの S・Fドラマ『ドクター・フー』の10代目ドクターを演じたデイヴィッド・テナントにどことなく似ていて、初めて会った時からなんとなく好感を持っていた。財団の外でロングコートを羽織ってマルボロを咥えた姿は、遠目から見ると映画俳優のようにも映った。
「えー、っと、そうですね……」
そうやって訊かれると、何だか試されているような気がして、意味もなくちょっと向きになって答えた。「この音符は一目、「ラ」の音に見えるけど、2本目の五線にちょっと音符が触れているでしょう? こういう時はウェーベルンの楽譜の書き方では「ソ」を意味していることが多いと思うんです」
それなりにドイツ語は流暢に喋れたものの、こういった細かい話になると流石に難しく、何度もつっかえながら楽譜を指さしつつ、そんな風なことを伝えた。
「その通り。あとは音符についた臨時記号の位置も判断基準になる。例えばこの場合だと、「♮」がはっきり線の中央にあるから、間違いなく「ソ」と考えていいだろうね」(図参照)
――なるほど、そういうやり方もあるのか。
と僕は素直に感心した。
それから二言三言話すと、「仕事があるから」とオーバート氏はいつものようにあっさりと上階のオフィスへと戻っていった。

それでも初めの2週間は何かあるとすぐに彼を呼び出して、何度も気になった些細な点を確認してもらうことになった。何となく自分の話を聞いてくれる人が欲しかった、という理由もあったのかもしれない。今にして思えば、忙しいのに迷惑だったかなという気もする。とはいえ、ただただ音符を書き写すだけの泥のような時間の流れの中、自分にとって彼が唯一の理解者のように感じられたのも確かだった。

* * *

そして実際、そういう人は財団の中では稀だった。

すでに然るべき立場についているであろう40代以上の来訪者には気軽に話しかけられるような雰囲気ではなかったし、英語圏やドイツ語圏から来た学生たちは気がつくと母語話者同士で自然にグループを作っていた。残されたのは大体、中国やルーマニアやチェコといった財団内では第三国に分類される国から来た学生で、僕もどちらかというと、そういった人たちと会話したり昼食を共にしたりすることが多かった。

もちろんそれは友情と呼べるような代物ではなかった。共通するバック・グラウンドなんてなかったし、おまけに僕は酷く英語ができなかった。彼らの方でも身の回りのことを少し超えたことになると、スラスラと言葉が出てくるわけではなかった。それに、誰も互いに本当の意味では関心をもってはいなかったし、自分のことで精一杯だった。シャリーノだったりクルタークだったりマルティヌーだったり、あるいは聞いたこともないような作曲家の自筆譜を見に来た学生もいた。けれども他人の研究している作曲家について、多くを知っている者は一人もいなかった。要するに会話は弾まなかった。ぼんやりと濁った透明の膜越しに、単純で直接的な言葉ばかりが交わされた。

けれどもそれは決して居心地の悪いものではなかった。語られなくとも、何かしら前に進む切掛を求めて遠路遥々ここまでやってきたのだ、ということだけは皆分かっていたからだ。誰もがそれほど裕福ではなく、安宿に身を預け、毎朝9時になるとのろのろと財団までの坂を歩いてきた。もう30に近いかそれ以上の歳になるのに、安定した収入がある者はほとんどいなかった。側から見れば、明日の真理よりも今日の誤謬を選び続けて、とうとうこんなところに流れ着いた落伍者と思われても仕方ないのかもしれない。そういうわけで、持たざる者同士のシンパシーが、財団の中で僕たちを緩やかに繋いでいた。不器用に言葉を交わすよりも、お互いを邪魔しないことで関係を維持することが自然と推奨された。

それでも時折、ちょっとした会話の糸口が、線香花火みたいにパチパチと火を灯すこともなくはなかった。
「あのお城のバロック劇場で演奏されたオペラで、あれは何だったかな。『Dove Amore……』とかいうタイトルの……」
ふと昔テレビで見たチェコの劇場のオペラのことを思い出して、プラハから来たという若い女性の研究者に僕は話を振った。
「ああ、分かった。クルムロフ城でやった、えーっと『愛のあるところ嫉妬あり』でしょう?」
「そう! あれは本当に良かった。何度も録画したやつを見てる。日本の放送局が協力してて、テレビで放送されたんだ。あの劇場は本当に素敵で、いつか行ってみたいと思っていて」
パッと彼女の顔が明るくなって、それから僕らは少し興奮して二言三言交わすと、それですぐに会話は続かなくなった。もしかするとそれは、彼女と交わした、唯一の感情のこもった会話だったのかもしれない。逆に言えば、その忘れられた18世期の作曲家のオペラだけが、僕らを繋ぐか細い糸だったのだ。今では彼女の顔も名前も、もう覚えてはいない。

彼らは、1週間、あるいは2、3日で帰ってしまうことも多かった。そういうわけで、僕は大抵、見送りをする側になった。そしてそれはいつも、財団が閉館する直前の午後5時前に、地下1階の広間でいたって簡潔に行われた。
――会えて良かった。また財団に来る予定はあるの?
――決まってないけれども、多分そのうちまた来るつもり。
――じゃあ、その時にまた会えるかもね。
――あるいは学会とか、どこかで。
そんな言葉を最後に交わすのが常だった。もっともお互いに、次に会う機会は多分もうないんだろうな、ということも薄々分かってはいたはずだった。

そうやって何人もの学生たちと別れの儀式を繰り返すたび、広間の真っ白な空間が、滴の打った水面のようにふるふると揺れた気がした。

(第4回に続く)

(2020/3/15)

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浅井佑太(Yuta Asai)
1988年、大阪生まれ。2011年、京都大学経済学部経済学科卒業、2017年、京都大学文学研究科博士課程、単位取得満期退学。専攻は音楽学。