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東京都交響楽団 第890回 定期演奏会Aシリーズ|佐野旭司

東京都交響楽団 第890回 定期演奏会Aシリーズ
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
Subscription Concert No.890 A Series

2019年11月11日 東京文化会館 大ホール
2019/11/11 Tokyo Bunka Kaikan
Reviewed by 佐野旭司 (Akitsugu Sano)
Photos by 堀田力丸/写真提供:東京都交響楽団

<演奏>        →foreign language
指揮:エリアフ・インバル
管弦楽:東京都交響楽団

<曲目>
チャイコフスキー:幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》op.32
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番《1905年》op.103

 

インバルがショスタコーヴィチの大作に挑んだ東京都交響楽団の11月定期演奏会。「弾き語られる<革命>、刻まれる永遠の記憶。」と題し、Aシリーズでは血の日曜日事件を題材としたショスタコーヴィチ交響曲第11番《1905年》が、Cシリーズでは10月革命を題材とした第12番《1917年》がそれぞれプログラムの中心となった。今回の2公演では、この2作品においても他の作品においても“インバルらしさ”が十分に発揮されていたといえるだろう。

Aシリーズは、ショスタコーヴィチの前にまずチャイコフスキー《フランチェスカ・ダ・リミニ》が演奏された。この作品は重々しい導入部に始まり、嵐のように荒れ狂う主題やアンダンテ・カンタービレの優美な主題などが現れ、性格の異なる複数の部分からなる。しかし本公演では、各部分の曲想を極端に変えることなく、むしろ全体の自然な流れを重視しているかのようであった。このような作品の場合、各部分の曲想を大きく変えて劇的な効果を出すという演奏の可能性もあるだろうが、あえてそうしないところにインバルの音楽観があるのだろう。
こうした特徴はプログラム後半のショスタコーヴィチの《交響曲第11番》でも同様に見られた。しかしこの作品においては、その様式的特徴を鑑みた場合、上述のアプローチがうまく行っている部分とそうでない部分に分かれているといえよう。
第1楽章は宮殿前広場の動機、ティンパニによる3連符の動機、トランペットの信号ラッパ、そして革命歌の引用による2つの動機からなる。前者の諸動機(宮殿の動機、ティンパニとトランペットの各動機)はセンプレ・ピアノで曲の表情や強弱の変化に関する指示がない。一方後者(革命歌に基づく動機)は強弱の変化に富み、随所にエスプレッシーヴォの指示がある。この両者の対照的な性格は、帝国に対する民衆の訴え(後者の諸動機)を受け付けない冷徹で荒涼とした帝国(前者)という情景を描写していると解釈できる。
そして今回の演奏では《フランチェスカ・ダ・リミニ》の時と同じように、楽章全体を通して淡々と流れるように曲が進んでおり、上述の両者のキャラクターの違いをさほど大きく強調することはなかった。しかし曲の構造を考えると、対比的な性格による劇的な効果に乏しく、率直に言えば物足りないという感も否めない。
他方このような淡々と流れるような演奏は、第2楽章や第4楽章、また第3楽章の中間部のように、急速なテンポで力強い曲調を基本とした部分ではきわめて効果的であった。これらの部分では非常にまとまりが感じられ、過度に暴力的でグロテスクにならず、それでいて表情の豊かさやメリハリが失われることがない。まさに指揮者の卓越したバランス感覚が見事に表れていたといえよう。
例えば第2楽章では前半では革命歌《おお皇帝、われらが父よ》による動機が中心となり、後半では血の日曜日事件の惨劇を描いている。前半部分は力強くかつまとまりがあった。またこの楽章の後半部分は第1楽章のティンパニの動機に基づくフーガで始まるが、決して勢いに任せることなく、個々の声部を丁寧に演奏する緻密さが感じられよう。さらにその後宮殿の動機がオーケストラ全体で旋律を3連符のリズムに変形させる形で発展させられるが、そこでは2本の旋律線が激しい打楽器の音に埋もれることなく、明瞭に現れていた。
しかしこの両者の間では、第1楽章の宮殿前広場の動機が木管楽器によって挿入されるが、その部分があまりにあっさりとしていたのが残念である。第2楽章におけるこの第1楽章の主題の再現は、前後の部分とは明らかに表情が異なり、なおかつこの曲の形式の転換点でもある部分だ。そのため、この部分が強調されてこそ後続部分の音楽が際立たせられるのではないだろうか。

もちろん作曲家の意図や、“一般的な”作品のイメージに必ずしも忠実である必要はない。特にインバルの場合、ほかの人の演奏や、楽譜から読み取れる作品の性格とはあえて異なるアプローチをすることで意表を突いた表現をすることもある。例えば、今年の7月にベルリン・コンツェルトハウスの来日公演でマーラーの交響曲第1番を振ったときが、まさにそうであった。ここでは田舎風の“泥臭い”部分(第2楽章の主部)を洗練された響きにしたり、緩徐楽章的な部分(第3楽章の中間部)を淡々と流れるように表現したりしていた。しかしそのようなアプローチは、それぞれの楽章の形式区分ごとの曲想の違いを無視したものではなく、通常とは異なる形で楽章の内部に変化をつけたことによるものである。そうすることで、意外性のある響きを生み出していたといえよう。
今回のショスタコーヴィチの演奏に足りなかったのはそこであろう。この曲においても、第1楽章や第2楽章について指摘した特徴は、オリジナリティのある表現といえる。しかしそれならば他の演奏や作曲家の意図とはまた異なった、新たなあり方で大きく対比をつけることが求められるのではないだろうか。

(2019/12/15)

(C)Rikimaru_Hotta

(C)Rikimaru_Hotta

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<Performers>
Conductor: Eliahu INBAL
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra

<Program>
Tchaikovsky: “Francesca da Rimini” op. 32
Shostakovich: Symphony No. 11, “The Year 1905” op. 103