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ジャン=ギアン・ケラス&アレクサンドル・タロー|藤原聡

ジャン=ギアン・ケラス&アレクサンドル・タロー
Jean-Guihen Queyras & Alexandre Tharaud [Cello & Piano]

2019年11月27日 王子ホール
2019/11/27 Oji Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 横田敦史/写真提供:王子ホール

<演奏>
ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)
アレクサンドル・タロー(ピアノ)

<曲目>
ドビュッシー:チェロ・ソナタ
ブラームス:チェロ・ソナタ第2番 ヘ長調 Op.99
ブラームス:チェロ・ソナタ第1番 ホ短調 Op.38
ブラームス/ケラス&タロー編:ハンガリー舞曲集より
     第1番、第4番、第11番、第2番、第14番、第5番
(アンコール)
ヴェチェイ:悲しきワルツ
ハイドン/ピアティゴルスキー編:ディヴェルティメント ニ長調より 第3楽章
プーランク:愛の小径

 

音楽評論家の伊熊よし子がタローとケラスに同時にインタビューした際の話がそのブログに載っている。転載させて頂けば、「私たちは、お互いに鏡を見ているような感じなんだよ。すごく似ている面が多くて笑っちゃうくらい」(ケラス)/「確かにふたりで演奏しているんだけど、ひとりで演奏しているように聴こえると思う」(タロー)。事実、彼らのいくつかの録音を聴くとその音楽性の類似というか軌を一にする方向性にすぐ気が付く。それは卓越した技巧による慣習に囚われない自在で軽やかな表現、とでも形容できるだろうか。音そのものの魅力という点でもこの2人は群を抜いていて――数年前に浦安音楽ホールで接したケラスのバッハ:無伴奏チェロ組曲は、ホールの抜群の音響も相まってほとんど夢見心地であった――、王子ホールのように小ぶりな空間でこの両者の共演を聴くことが出来るとは何と贅沢なことか。プログラムは既に録音も行なっているドビュッシーとブラームスのソナタ及びハンガリー舞曲(後者では未録音曲も含まれる)。

すらっとした痩躯でしなやかかつにこやかに登場したこの2人、実は既に50歳を越しているのだが全くそうは見えない永遠の青年といった風情。この「見た目」はその演奏の特質たる若々しさと結び付いているのだからビジュアルから入るな、などと言うなかれ。タローによって跳ねるような/弾けるようなリズムで颯爽と開始されたドビュッシー:第1楽章のピアノ前奏に続き、まるで弦に吸い付くかのように恐ろしく滑らかで凹凸のないケラスのボウイングから放たれる音楽は、しかし獰猛な迫力も兼ね備える。第2楽章はドビュッシーとしても極めてアヴァンギャルドな音像を持つ音楽だが、ここではすばしっこく、かつそれぞれのピチカートの細やかな音色と多様な強弱を万全に表出したケラスがまたしても凄すぎる。現代チェロ演奏の1つの究極たる上手さである。この圧倒的な情報量。しかも音楽はあくまで自然で停滞せず。ここまで上手いドビュッシーのチェロ・ソナタを過去聴いたことがないです。しかしこの2人、息の合い方が尋常ではない。合わせようという意識すらなく自然にバン! と弾き出して演奏中には頻繁なアイコンタクト、面白いほど密着している。既にぐうの音も出ず。

次のブラームスのソナタは第1ではなく第2から先に演奏されたが、タローの放つトレモロの前奏がこれまたカラフルで軽やかであり、その意味では最大公約数的なブラームス演奏とは少し毛色が異なる。フランス的な演奏と言えば言えようが、そう単純なものでもないだろう。先にも書いたように彼らは「慣習に囚われない」。それゆえいかにもドイツ・ロマン派的な情念や内省的な表現は出て来ないが、そのような「常識的な」名演はいくつもあるのだから、この独特の美演を楽しむが吉であろう。ケラスのチェロ共々実に流れる音楽でそこに逡巡の気配はまるでない。こういうカラッとしたブラームスもまた良いではないか。嬰ヘ長調という珍しい調性を取る第2楽章ではケラスのピチカートがひたすら美しく、ドビュッシーでのそれが獰猛で不穏な響きを湛えていたとすれば、ここでの音はまろやかで深い。指示通り非常に「情熱的な」(アパッショナート)第3楽章を経ての終楽章ではよりくつろぎの表情が欲しくもあるが、この推進力もまた彼らならではの持ち味。ここではタローが時折放つ強烈なフォルテに驚くのだが、このように軽やか一本槍ではない表現力もまた尊いものだ。

続く第1番はブラームス的辛気臭さ(苦笑)の代表例たる曲で、ファンには堪らない魅力を放つがそうではないといかんともし難い曲であろう。ここでは中高域を駆使した第2と異なりほとんど低域でなにやら呟くチェロが特徴的なのだが、この演奏は予想されたとは言えその辛気臭さを感じさせない。その要因はケラスよりもむしろタローのピアノにあったのではないか。この演奏でケラスは意外に地味で枯れた音色を聴かせていたのに対し、タローのピアノがむしろエレガントで色彩に富み全体の印象を決定していたように思う。それにしても第2楽章、アレグレット・クワジ・メヌエットの中間部におけるキラキラと輝くようなタローのピアノと伸びやかなケラスの音の対比の妙、ブラームスにもこういう感覚的かつ享楽的な楽しみがあるのだなと思い、若き日のこの作曲家の内面的な鬱屈などを捉えようと必死になっていた自分の偏狭な聴き方を見事に相対化してくれたのであった。ともあれ2曲のブラームス、本当に自由な音楽でした。

さらにブラームスからケラス/タロー編曲によるハンガリー舞曲。どれも両楽器のバランスが実に考え抜かれたアレンジで秀逸だが、言うまでもなく民族的な泥臭さ(それは急激なテンポの対比と濃厚な表情によってもたらされるだろう)とは無縁でひたすら洗練された演奏である。もっとケレン味があっても良い気がしたが、この上手さにこれ以上文句を言う理由もない。

アンコールはタローとケラスが交代で日本語により紹介した3曲(上記参照)。この来日のタイミングでリリースされたアンコールピース集のCDに収録されている曲たちであるが、中でもプーランクが絶品中の絶品。下手な原曲の歌曲演奏よりも遥かに真に迫っていたのではないか。

(2019/12/15)