ニコラ・アンゲリッシュ ピアノ・リサイタル|藤原聡

ニコラ・アンゲリッシュ ピアノ・リサイタル
Nicholas Angelich Piano Recital

2019年10月15日 紀尾井ホール
2019/10/15 Kioi Hall
Reviwed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目>        →foreign language
J.S.バッハ(ブゾーニ編):コラール『いざ来たれ、異教徒の救い主よ』BWV659
ブラームス:7つの幻想曲集 op.116
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 op27-2『月光』
シューマン:『クライスレリアーナ』 op.16
(アンコール)
シューマン:『子供の情景』op.15~第1曲「見知らぬ国より」
ブラームス:幻想曲集 op.116~第4番 インテルメッツォ ホ長調

 

日本ではいま一つの知名度、と言うか人気が実力に追い付いていないと思われるピアニストがこのニコラ・アンゲリッシュではないか。チッコリーニ、イヴォンヌ・ロリオ、ベロフらに師事、フライシャーやピリスらにも学んだ後にはジーナ・バッカウアー国際コンクールで優勝、その後様々な有名指揮者とオーケストラとも共演というなかなかに華やかなキャリアを誇っているのだが、決して少なくはない録音が(久しくは)輸入盤のみの発売であったり、あるいはその演奏が派手な大向う狙いをするものではないために大きな知名度を獲得しなかったのだろうか。筆者などはリストの『巡礼の年』やブラームスのピアノ作品の録音でこのピアニストの良さを知り、しかしラ・フォル・ジュルネへの参加などはあったものの本格的なソロ・リサイタルの機会がなかなか訪れないことを歯痒く思っていただけに(あるいは知名度の低さはこれも要因ではあろう)今回はまさに「待望」である。当日パンフレットに記載はないが、この日のプログラム構成は「幻想」がキーワードとなっていることが見て取れる。『月光』は幻想曲風ソナタの副題を持ち、ブラームスは読んで字のごとく、シューマンも副題は「ピアノのための幻想曲集」である。

本年49歳という割には随分と老成した印象の風貌でゆったりとステージに登場したアンゲリッシュ、1曲目のバッハ=ブゾーニ作品では目の詰まった重厚な響きが心地良い。しかし独特の呼吸感があってその音楽は決してスムーズに流れずに逡巡の気配がある。バッハ=ブゾーニであると同時にアンゲリッシュの個性がかなり濃厚に感じられた演奏で、このピアニストがバッハを弾くとこれ以降の時代の作品よりも演奏者が前面に出るのだな、という意外性。

ブラームスで印象に残るのは、巷間言われるブラームス最晩年の枯淡やらロマン的な情緒の表出ということよりも、むしろそういうものを相対化するかのようなテクスチュアそれ自体へのこだわりが見て取れる点だ。これを節度と呼んでも構わないが、それは第3番や第7番のような烈しい曲において殊に感じられ、各声部のバランスと階層性が常に留意されている。響きは常に明晰でありながら音は痩せずに重厚さも堅持する。先の2曲を聴いただけでもアンゲリッシュの卓越した技巧がはっきりと分かるというものだ。

次の『月光』において、第1楽章では旋律と伴奏音型の音色に細心の注意が払われているのが手に取るように分かるのだが、第2楽章ではそれが後退し、かつ横の流れも意外に単調。しかし最終楽章では粗さのかけらもない、それでいて抜群の推進力を聴かせて圧巻であった。

休憩後の『クライスレリアーナ』は物理的なテンポこそ標準的なものながら、その音楽はどちらかと言うと「飛び跳ねる」よりは「沈滞する」イメージ。多分にアンゲリッシュの弾き方がそう思わせているのだろうが、全体に音を短く切り上げるよりも心持ち長めに響かせようとしており、そこにこのピアニストの重厚な音質が相まって躁鬱的なこの楽曲が全体にスタティックなものに聴こえる。個人的にはよりコントラストの強い演奏を好むが、しかしこの非常にていねいかつ入念な演奏はそれ自体傾聴に値するものだ。中では終曲の左手の意表を突く自在さが曲の取りとめのなさを増幅させていて快感。

アンコールでは『子供の情景』の第1曲を手放しで絶賛。音色のコントロールと特徴的な反復の際に施される絶妙な表情の変化、まさに繊細の極み。

この度のアンゲリッシュの実演。録音に聴くこのピアニストの印象は「オーソドックス」というものであったのだが、しかし基本的にはそう言って差し支えないにせよ、細部の凝り方や全体の構成の作り方で意外に「クセ」も感じられて誠に興味深かった。次回来日の際には再度その演奏に接してみたいものだ。

 (2019/11/15)

 

 

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<Artist>
Nicholas Angelich

<PROGRAM>
J.S.Bach (arr: F. Busoni): Nun komm, der Heiden Heiland BWV659
Brahms: 7 Fantasien op.116
Beethoven: Piano Sonata No.14 in C-sharp minor op.27 No.2 “Mondschein”
Schumann: Kreisleriana op.16
(encore)
Schumann: Kinderszenen  Op. 15 I. Von fremden Landern und Menschen
Brahms: 7 Fantasien, Op. 116 IV. Intermezzo in E Major