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ボンクリ・フェス2019 スペシャル・コンサート|西村紗知

ボンクリ・フェス2019 スペシャル・コンサート
“Born Creative” Festival 2019 SPECIAL CONCERT

2019年9月28日 東京芸術劇場 コンサートホール
2019/9/28 Tokyo Metropolitan Theatre Concert Hall
Reviewed by 西村紗知 (Sachi Nishimura)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>        →foreign language
アンサンブル・ノマド
福川伸陽(ホルン)
八木美知依(筝)
本條秀慈郎(三味線)
ヤン・バング(エレクトロニクス)
エリック・オノレ(エレクトロニクス)
アイヴィン・オールセット(ギター)
ニルス・ペッター・モルヴェル(トランペット)
大友良英
萩原麻未(ピアノ)
藤倉大(エレクトロニクス)

<曲目>
モートン・フェルドマン:サムシング・ワイルド・イン・ザ・シティ―マリー・アンのテーマ
    (ホルン、チェレスタ、弦楽四重奏のための)
挾間美帆:颯(はやて)
八木美知依:通り過ぎた道
「通り過ぎた道」PUNKTライブ・リミックス
テリー・ライリー:In C
坂本龍一:honj Ⅰ~Ⅲ(日本初演)
大友良英:振動と回転(世界初演)
藤倉大:春と修羅(映画『蜜蜂と遠雷』より)
藤倉大:ホルン協奏曲第2番(アンサンブル全編版世界初演)

 

ボンクリ・フェス。大人になると失われる人間性来の創造性なるものをひたすらに目指すこの現代音楽のイベントには、ここで演奏されるような類の音楽がそもそも年老いたクラシック音楽に対抗する恐るべき子供たちとして台頭したと考えるならば、大人になったインファンティリスムスがまとわりついている。時間が経って、諸事情に幾重にも媒介されることとなったインファンティリスムス。いまや大人になるということが誰にでも可能ではなくなった時代状況に合致してはいるものの、それとは別に現代音楽において内在的に生じている問題の解決法でもあるがゆえに、妙に真に迫っているところもある。つまり娯楽を忘れたことに現代音楽の罪があったとすれば、娯楽と調停しようとしている点にこのイベントの徳の高さがある。もちろんそもそも、作品は罪を犯したりはしないのだろうし、こうしたイベントを開催すること自体が罪を贖うことになるのかどうかはわからない。なんにせよ、作品・作曲家の選定に、なるだけ多くの人にとって聞き入れやすい演奏会にしようとする確固たる意志を感じずにはいられない。イベントのコンセプトに反して、開催する側はなんて大人っぽいのだろうと思う。

その作品の選定において留意している点は、ローブローへの気配りを忘れずハイブローの気品も纏うといったところのようだ。最初のフェルドマンの作品には耳を疑った。こんな気の抜けたジムノペディみたいな作品があったのか。これじゃなんとなく気のきいた、ともすれば神曲などと評されるようなゲーム音楽ではないか。ループで使用する用途でもあるのかというくらいに没個性的で、プログラムノートの紹介文を読めばなおさら、確かにラジオから聞こえてくるという出会い方の方がこの作品には相応しいように思えて仕方がなかった。

次の挾間美帆「颯」も、できれば何か映像と一緒に楽しみたかった。これだけ伝統的なカルテットの範疇におさまっている作品なのに、なぜ閉じた感じがしないのか不思議である。後期ロマン派めいた抒情性、よく調和した声部の掛け合い、そして最後は首尾よく長調で締められる。ひょっとして、あのゴーストの件を思い起こさせるような曲調だったからかもしれない。

八木美知依の「通り過ぎた道」は、アンプリファイド・筝による弾き歌いの音楽である。間奏部分でサンプリングされた筝のシークエンスが反復されて、さらにそこに筝の即興的なパッセージが加わったりするので、重層的な音響を楽しむことができる。筝のライブエレクトロニクスというのは、なんとも視覚的にかっこいいのであるから、大ホールの真ん中にぽつねんとセットされると、もう少し間近で見たいという欲求が生れてくるのであった。

この後演奏されたライブ・リミックス版も同様である。ここではトランペットによる声部の模倣のようなものや、シンセサイザーによって生み出される狭い音域がぶつかってできるもやもやした音響体が、弾き歌いに対する応答をなしている。先の2つの、フェルドマン、挾間の作品と同じく、ここにも何か映像化への欲求が感じられてしまうのだった。

この日のテリー・ライリー「In C」は、なんといってもノマドキッズの活躍に支えられていた。彼らは打楽器、歌、はたまた指揮などもこなす。背後の大人たちがうまくアンサンブルしてくれるので、学芸会になることもない。子供の歌声は美しい。大人になったら絶対になくなってしまうから美しいのだ。人間性来の創造性について、最も雄弁に語るような演奏だっただろう。

坂本龍一の三味線ソロ作品は、この演奏会の1曲目に比べればむしろこっちの方がフェルドマン的なのでは、と思わせるようであった。壁紙の水玉模様のような、規則的でまばらな音の配置。トレモロや強い連打で荒ぶるシーンが中間部にあったけれども、また壁紙模様に帰着する。

大友良英の作品は、もっと長く聞いていたいと思った。パイプオルガンと電子音のノイズ、それからバスドラムでつくられた音響は、その楽器の組み合わせの意外さをふっとばすほどに、必然性で満ち満ちている。パイプオルガンの端の高音とノイズがぶつかりあって、豊かなうねりを含んだ糸になる。反対の端の息を吐くようなオルガンの低音とバスドラムが重なり合う。これらの楽器はみな大友の作法により、自分に課せられた仕事を自発的に放って、工業製品としての過去の自分を思い出しているのだ。なるほど、子供への回帰は子供には不可能ということか。

演奏会最後の2作品は藤倉大によるもの。「春と修羅」は間もなく公開される映画の劇中音楽であるとのことで、今までの藤倉のピアノ作品とも共通して、抒情的な響きの作品。こまかい縦横無尽に駆け巡るパッセージは色砂のように繊細。続く「ホルン協奏曲」のソリストも繊細さを要求されている。ミュート付きのホルンは、ほわほわ、ゆるゆると語る。オーケストラとホルンの応答関係がきっちり把握できるような作品だったと思う。

大人になったインファンティリスムスは、なにかにつけ、他のものへ広く連帯を呼びかけている。創造性を何か過激なものから切り離そうとしているのだろうか。連帯ありきの創造性。アナーキズムなどを子供っぽいなどと断罪するのにも抵抗があるが、なんにせよ、本当に子供になるということを叶えるのは難しいということはよくわかった。もし子供でも大人でもいられないとすれば我々は一体何者なのだろうかと、ワークショップでもらった電子工作楽器をもてあましながら考えあぐねている。

(2019/10/15)


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<Artist>
Ensemble NOMAD
Nobuaki Fukukawa (Horn)
Michiyo Yagi(Koto)
Hidejiro Honjo (Shamisen)
Jan Bang (Electronics)
Erik Honoré (Electronics)
Eivind Aarset (Guitar)
Nils Petter Molvær(Trumpet)
Yoshihide Otomo
Mami Hagiwara (Piano)
Dai Fujikura (Electronics)

<Program>
Morton Feldman: Something Wild in the City: Mary Ann’s Theme, for horn, celesta and string quartet
Miho Hazama: Hayate
Michiyo Yagi: “The Road Not Taken”
PUNKT Live remix of “The Road Not Taken”
    by Jan Bang, Erik Honoré, Eivind Aarset, Nils Petter Molvær and Dai Fujikura
Terry Riley: In C
Ryuichi Sakamoto: honj Ⅰ~Ⅲ (Japan premiere)
Yoshihide Otomo: New work (world premiere)
Dai Fujikura: Spring and Asura
      Horn Concerto No.2 (World premiere of complete ensemble version)