第9回シアター・オリンピックスより『世界の果てからこんにちは』ほか|能登原由美

第9回シアター・オリンピックスより『世界の果てからこんにちは』ほか
9th THEATRE OLYMPICS “Greetings from the Edge of the Earth” et al.

2019年9月7, 8日 富山県南砺市利賀村上百瀬 野外劇場ほか
2019/9/7,8  Toyama Pref., Nanto City, Togamura Kami Momose, open-air theater
Reviewed by 能登原由美
写真提供:SCOT

〈演目〉
『世界の果てからこんにちは』

〈構成・演出〉
鈴木忠志

〈出演〉
老人|竹森陽一
娘・早香|中村早香
僧侶|長田大史
   竹内大樹
   飯塚佑樹
   江田健太郎
   守谷慶二
花嫁|ビョン・ユージョン
紅白幕の女|齊藤真紀
      佐藤ジョンソンあき
      木山はるか
      鬼頭理沙
      リュー・シン
車椅子の男|イ・ソンウォン
      加藤雅治
      藤本康宏
      平垣温人
      平野雄一郎
      平山貴盛
      リ・ジュン
      ジャオ・ジャ
      シャオ・ヤン
花火師|前田徹、高橋保男、高橋光久、須藤優、村松秀隆、吉田倫哉、
    植木陽祐、榎本昌弘、村井智紀、根岸佑佳、塩川和典

 

9月に入り1週間を過ぎるというのに、真夏の日差しが容赦なく照りつける。それでも日が陰ると川のせせらぎや草むらの虫の声が耳についてきて、秋の気配を感じるようになった。やがて月や星の光が浮かび上がると、大気は湿り気を帯びながらも冷んやりとしてきた。実に心地の良い月夜である。

私がこの「シアター・オリンピックス」に参加したのは今回が初めてだ。特に演劇ファンというわけでもない。が、鈴木忠志が主宰する劇団SCOTの活動に興味をもつとともに、彼らが40年以上にわたって拠点としてきた富山の寒村、利賀で毎年行われている演劇祭が素晴らしいと聞いたのである。とりわけ今年は「シアター・オリンピックス」が開催されるという(日本とロシアの共同開催)。特急と新幹線を乗り継ぎ富山へ。その富山駅からさらにバスで高速と山道を2時間余り。片道6時間半の長旅を敢行することにした。

着いたその夜に最初の観劇である。その作品、《世界の果てからこんにちは》は鈴木の代表作の一つで、初演は1991年。その後、何度も再演されるとともに若干の改訂も行われてきたようだ。ただし、この作品では壮大な花火が大きな役割をもつが、池を張った野外劇場、それも人里離れたこの場所だからこそ上演可能なのだという。まさにこの地に辿り着いた者しか観ることのできない特別な演目なのである。そうした希少性が花火のスペクタクルとともに評判を呼んで、一層人々の関心を集めているのであろう。私もその一人なのだけれども…。

いずれにせよ、今さらこの上演について書いても仕方がないのかもしれない。ましてや私は演劇の素人だ。感想文程度にしかならないだろう。けれども、鈴木の発した言葉が躊躇する私の背中を押すのである。つまり、鈴木の舞台を美しいと感じた観客が「鈴木にとって美とは何か?」を問うた際、彼が質問者に投げ返した言葉である。「あなたはそこで何を美しいと思ったのか?」。これは観るもの全てに返された言葉であろう。いや、あらゆる批評はここから始まるのではないか。よって、勇気をもって書いてみたい。

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箒で舞台を掃く僧侶らしき男たち。車椅子に乗り列をなして登場する男たち。紅白の衣装に身を包み優雅に舞う女たち。花嫁衣装の女。一場ごとに登場するこれらのキャラクターは一見すると脈絡があるようには見えない。登場する度に男たちが放つ言葉の矢も断片的ではじめは意味をなさない。けれども、どうやらそれらは戦争と敗戦の記憶の延長にあるらしきことが徐々に明らかになってくる。僧侶も、車椅子の男たちも、舞うだけで言葉を発しない女たちさえ、その記憶を呼び起こすモチーフなのだ。一貫して全体を貫く軸となるのは老人。冒頭から最後まで舞台上にいるただ一人の人物だ。男たちの言葉に応答しながらそれらを繋ぎ合わせていくようでもある。傍らにやってきた娘が入れる合いの手とともに。

注目した花火は場面ごとに突如乱入してくる。しかも無数の打ち上げ花火だ。途端に舞台は祝祭的な空間へ。ただし、老人の話が進むにつれ、火の放つ意味合いは少しずつ変化していく。現代から戦時へ。祝祭から葬送へ。過去から歴史へと…。花火同様、突然始まる歌。《夜の訪問者》、《からたち日記》、《海ゆかば》、《船頭小唄》といった大正、昭和の古い歌謡。部分的に捉えられる歌詞や曲調が、滑稽さや物悲しさ、古めかしさといった印象を与える。ただし、これらの曲に馴染みがない者(私もその一人だが)にとっては、歌の内容やそれがヒットした当時の文脈は捨象されてしまう。がゆえに、共感を誘うよりもむしろ、舞台を客観化させる。

このように、脈絡のない要素の配置がそれぞれをより立体的に浮かび上がらせるが、同時に、老人と男たちの言葉によって社会に眠る記憶が少しずつ呼び覚まされていく。一方、冒頭で男たちは食べ物の過剰摂取から消化不良に陥った仲間の不節制を非難するが、トートロジーのように繰り返されるだけのこうした会話も徐々に胸に突き刺さってくる。というのも、その消化不良の最たる原因は食べ物でも、あるいは(私自身が途中で想像したような)氾濫する物質や情報の過剰摂取でもない。過去の歴史や記憶の「消化不良」、あるいは「未消化」ではなかったかと。それが花火や華麗な衣装、池や背後の山も含めた壮大な舞台装置によって一大スペクタクルとして繰り広げられるのだ。圧倒的な興奮を覚えるとともに、体の奥には強い苦味が残った。

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翌日の午前には鈴木によるトーク・イベントが開かれた。客席からの質問に答える形。その一部については先に触れた。鈴木は同様に、ほとんどの質問を質問者自身に投げ返した。あなたは何をしているのか、あなたはどう思ったのか、あなたはどうしたいのか…など。全ては「あなた」次第。観る側、聴く側次第なのだ。

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その日の午後、インドの劇作家で演出家のラタン・ティヤムによる《マクベス》を観劇した(利賀大山房)。「字幕がないから事前に配布されるプロットを頭に入れておいた方が良い」とは、前日の午後の上演を観た人々から受けたアドバイスだ。というのも、英語による上演でもないらしい。実際、あれは中国語ではないか、いや韓国語に聞こえる、といった様々な声も耳にした。もちろんティヤムの母語の可能性もあるが、どこにも書いていなかったためにどの言語だったのか、いまだに不明だ。

だが、そうしたことは大した問題ではないのかもしれない。もちろん、セリフは全くわからないが、シェイクスピアの原作とほぼ同じ筋であるから大体の場面を予想することはできた。逆に言葉がわからない分、視覚と聴覚を一層働かせる。王位を狙って数多くの殺人を犯すマクベスと彼をそそのかす夫人の悪意に満ちた嘲笑、やがて襲われる慚愧と不安など、表情やしぐさ、声のトーンなど様々なコミュニケーション・ツールから感じることができる。インドの伝統的な要素も取り入れたと見られる衣装や小道具、音楽にもあれこれと想像を働かせた。言葉が頭に入らない分、感覚と想像力がひときわ冴えるのだ。無論、心を患ったマクベスが現代の病院へとワープする場面など、いまだに私の中で咀嚼できていない部分もある。言葉が解れば別の楽しみ方になっただろうけれども。

さて、《マクベス》観劇の後、再び長い旅路を経て自宅にたどり着いたのはほとんど日付が変わる頃だった。今にして思えば、この長い道中も一連の観劇の一部だったような気がする。これだけの時間と距離は、私を日常から引き剥がすのに十分であった。もちろん、いくつかの劇場が点在する以外にはほぼ川と山だけに囲まれたその特別な場所も、非日常的な世界にどっぷり浸る環境をもたらしてくれた。

まさに、「世界の果てから」呼びかけられた、観劇の旅であった。

(2019/10/15)