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フェスタサマーミューザKAWASAKI2019 仙台フィルハーモニー管弦楽団|藤原聡

フェスタサマーミューザKAWASAKI2019
仙台フィルハーモニー管弦楽団
Festa Summer MUZA KAWASAKI 2019
Sendai Philharmonic Orchestra

2019年8月4日 ミューザ川崎シンフォニーホール
2019/8/4 MUZA Kawasaki Symphony Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>        →foreign language
指揮:高関健
ヴァイオリン:郷古廉
ゲスト・コンサートマスター:三上亮

<曲目>
ストラヴィンスキー:サーカス・ポルカ
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
(ソリストのアンコール)
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第5番~第1楽章
チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 作品36
(オーケストラのアンコール)
チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74『悲愴』~第3楽章より

今年2019年のサマーフェスタミューザにおける話題は仙台フィルの登場だろう。今後は毎年地方オケを1団体ずつ招聘していくようだが、これは大歓迎である。理由は単純で、在京オケに勝るとも劣らぬ素晴らしい演奏を聴かせてくれる団代が沢山あるからだ。
中には定期的に東京公演を行なうオケもあるが、そうではないオケはこちらから地元へ出向いて聴くしかない。もちろんこれにはオケが勝手知ったる本拠地ホールでの演奏を聴いたり、はたまた音楽と関係ないところでは観光をも兼ねた楽しみがあるのは言うまでもないけれど、しかしそこまでするのはもはや相当なファンでありマニアであろう。そうではなく気軽に低料金で地方オケを聴く。これで在京オケにしか意識のなかったファンが日本各所の名オーケストラのファンになったならしめたもの、その情報を拡散するであろうし次は地元にまで遠征するかも知れない。
と言う訳で仙台フィル。筆者が同オケを実演で聴くのは今回で2度目(最初は2016年4月、パスカル・ヴェロの指揮による幻想交響曲とレリオの組み合わせ)、指揮はレジデント・コンダクターの高関健。12型のオケの配置が変わっていて、コントラバスを舞台奥に並べて正面を向ける形(ウィーン・フィルがニューイヤーコンサートでよくやりますよね)。

最初には「オードブル」としてストラヴィンスキーの『サーカス・ポルカ』が演奏されたが、これがいかにも高関らしいカッチリとした生真面目な演奏で好感が持てる。そもそもストラヴィンスキーの音楽は余計な演出効果を付け加えないことによって作曲者のポスト・モダニズム性(もはやこの言葉自体が陳腐化しているが…)が露になるという側面があるが、この日の演奏などまさにそれであって指揮者の体質とストラヴィンスキーは相性が良いと感じる。とは言え、オケはまだエンジンが掛かっていないようなある種の粗さがあったけれども。

今やめきめきと頭角を表している郷古廉をソリストに迎えてのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が2曲目に演奏されたが、恐らく郷古はこの余りに人口に膾炙した名曲を(昔は「通俗名曲」などという嫌な言葉がしばしば用いられたものだ)慣習的な表現を敢えて意識的に避けて演奏したのではないか。楽曲の抒情性に寄り添うよりも骨太な造形を前面に出し、旋律はレガートで歌わせるよりももっと短いスパンでのアーティキュレーションで歯切れの良い表情を生む。弦は概ね力強く弾かれ、その意味では若干の一本調子さを感じないでもなかったが、しかしいかにも慣習的、安心して聴けはするものの意外性に乏しい演奏を聴かされるよりは遥かによい。それにしても終楽章のテンポの速さはどうだ。表現が上滑りする瀬戸際でアグレッシヴに攻め込む郷古、演奏の完成度、というような観点からは荒削りではあるが、この攻めの姿勢は大いに買いたいと思う。高関のサポートは過不足のない模範的なもの。鳴り止まぬ拍手にアンコール、イザイの無伴奏、こちらも烈しい意志の力に満ちたいかにも郷古的名演。

いよいよ後半はチャイコフスキーの交響曲第4番だが、ここでもストラヴィンスキーの項で述べたことが概ね当てはまり、刹那的な感情表現や即興性は排除され、音楽の各部分のテンポ設定や音響バランスなど(この演奏、随所で面白いパートバランスが聴かれたがこの手の再構築は高関の得意技だ)、予め作成した設計図通りにロジカルかつ緻密に攻め進むかのような演奏。これ自体は驚嘆に値するのだが、ここでは『サーカス・ポルカ』と違って物足りなさも付いて回る。贅沢な話だが、整然とし過ぎている。交響曲においてロジックを追い求めた(追い求めざるを得なかった)チャイコフスキーだが、しかしそれと同時に極めて感傷的/感情的な側面もまたあり、これもこの作曲家の本質的な部分だろう。ここが高関の演奏からは伝わりにくい。
あるいはこうも言えようか、「正しいが面白くない」。もとより高関の演奏傾向は概ねこういう方向性であるから、その意味では一貫してブレがないのだが、曲による向き・不向きははっきりとあるようだ(付言するが、チャイコフスキーの感情と論理の相克という側面を「論理」へのパラノイアックな渇望という面で前景化したこの演奏を高く評価する人はもちろんいるだろうし、それは筆者も理解している)。
極めて魅力的であると同時に物足りなさもある演奏、しかしこれもまた1つのやり方を追求したからこその不満である。何事も徹底すれば何らかの要素は抜け落ちよう。尚、言うまでもないことだが仙台フィルはその実力を十二分に発揮した。このオケの献身的な演奏がなければこの「チャイ4」、もっと生煮えの凡演になっていたに違いない。

特別な機会ゆえ何らかのアンコールを演奏するとは思っていたけれど、それが『悲愴』のスケルツォの前半をカットして途中から、で仰天。知将・高関にはこういうショウマンシップ的側面もまたあるのが面白いが、最後は2人でシンバルを炸裂させたりとこの明快な「ウケ狙い」に笑うしかない。演奏終了後は盛大な拍手が沸き起こったが、全曲の実演では(知らずに間違って拍手した人は別として)そうは行かないのでここぞとばかりの喝采である。

高関の指揮にはいくらか難癖を付けたし、オケも常に万全、とは言い難い面はあったが、それを考慮してもこのコンビは十分に魅力的な演奏を聴かせてくれた。サマーフェスタ来訪に感謝。

(2019/9/15)


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<Artists & Program>
Conductor= Ken Takaseki, Resident Conductor of the SPO
Violin= Sunao Goko

Stravinsky: Circus Polka
(soloist encore)Ysaÿe:Violin Sonata in G Major, Op. 27, No. 5, 1st mov.
Tchaikovsky:Violin Concerto in D major, Op.35
Tchaikovsky:Symphony No.4 in f minor, Op.36
(encore)Tchaikovsky:Symphony No. 6 in b Minor, Op. 74, “Pathétique”, 3rd mov.(extract)