五線紙のパンセ|自分の音楽的カルテでも書いてみようか その1)|鈴木治行

自分の音楽的カルテでも書いてみようか その1)

text & photos by 鈴木治行(Haruyuki Suzuki)

この度3回に渡って自由にエッセイを書く役目を仰せつかった。文章を書くのは好きは好きで、ことあるごとにそれなりに書いてはきたが、書く場合は評論的なものが多く、自由にと言われるとさてどうしようと戸惑ってしまう。考えた結果、今に至るまでの道のりを駆け足で、ただし要所要所で立ち止まりつつ振り返ってみることにした。音大に進んで作曲を専攻して、というコースを辿らなかったある作曲家人生の収支を考える一つのサンプルにでもなればいいと思う。

そもそも僕は幸か不幸か音楽家の家系には生まれなかったし、両親も音楽家どころか音楽愛好家ともいえないような普通のサラリーマン家庭だった。ただ、母親は歌うのが大好きで、親戚の間でも有名だったようだ。とはいえ、特に声楽を本格的に学んだというわけではない。ただ単に好きだったのだ。そんな毋親の元で、物心つかないうちから歌の洗礼を浴びて育ったのは、人生最初の音楽的影響という意味では大きかっただろう。そんな訳で、歌という音楽の形態はもう問答無用で善であり、それがどんなに暗い歌であったとしても歌であるというその一点でそれは幸福のオーラを纏っている。僕に歌の作曲家というイメージはないだろうが、それはそういう方向の作曲の機会が多くはなかったというだけの理由による(といっても実は歌はそこそこ書いてはいる)。

10代の頃

長じて音楽をやりたいと思うようになってからは、小さい頃からピアノを習っていた人が羨ましく、そのような家庭に生まれなかった自分の境遇が悔しかった。幼い頃から音楽教育を受けるかどうかというのは、大抵の場合本人の意思というより親の意向で決まるものだろう。何となく作曲のようなことをやるようになったのはクラシックに目覚めた中学の頃からだが、家にピアノがなかったのでギターで音を出していた。和声を勉強したかったがどうしたらいいのかわからず、本を自分で買ってきてギターで音を確かめてはみるものの、わかったようなわからないようなで、実際に作曲に役立てられるようにまでなる道程は遠いように思われた。そもそもギターなので鍵盤和声はやりにくいことこの上なかった。やがて都立高校に入ったが、幸運なことに音楽の浅井先生が音楽教育に熱心で、和声やりたい人は週に1回昼休みに見てあげるからおいで、とのことで、渡りに船とはまさにこのこと。待ってました!で、突進する闘牛のような感じで毎週通った。そこで芸大の赤本を始めた訳だが、しばらくの間は先生の本を貸してもらって常に持ち歩いて読んでたらボロボロにしてしまって申し訳なかった。

やがて大学進学のことを考えねばならない時期になる頃には漠然と音大に行きたいと思うようになっていたのだが、ではどうしたらいいのか皆目見当がつかない。今だったらネットで検索できただろうが当時はそんな手段もない。親にその希望を伝えたが取り付くしまもなく望みは絶たれた。音楽なんて食えないからダメだ、という訳である。ああ、なんて正論なのだろう。うちの父親はいかにも父権主義的な昭和一桁の頑固親父な上、そもそも芸術への理解など全くないので、説得しようとしても埒が明かないのだった。むこうも、僕の希望などは一時の熱に過ぎず、やめさせればじきに熱は冷めるくらいに思っていたのだろう。しかしそんな一過性の軽い思いつきなどではないことは自分が一番よく知っていた。ダメと言われても、こちらもはいそうですかと引き下がる気など毛頭なく、音大に行かせてくれないなら自力で音大生相当の勉強をやってやる、と闘志を燃やし、その時間を作るために一般大学に進むことにしたのであった。
後から思うに、もし当時僕が音大を出ないと作曲家になれない!と強く思っていたとしたら、人生は違っていただろう。例えば一般大学を卒業してから自分で学費を稼いで音大に入り直すという道もあった。しかし、今でもだが経歴などの「外枠」に価値を見る習慣がなかったので、そういう経歴に書ける項目を増やして箔を付けることに全く関心が向かなかったのだった。「外枠」よりむしろ中身を磨けば道は開けるに違いない、と単純に考え、結局自分で独立独歩の道を進む道を選んだのである。誤算があったとすれば、音楽の勉強そのものよりも、人間関係の構築という点における音大の意義に気づいてなかったこと、また、当時はわからなかったしわかる由もなかったのだが、思ってたよりこの世界って権威主義なんだな、ということ。それでだいぶ人生遠回りしたことは否めないが、今となってはもはやどうでもよくなった。

入野賞受賞の時、
審査員の湯浅譲二、松平頼暁両氏と

そんな訳で、大学時代は、親の理解に恵まれた音大生を一方的にライバル視しつつ、自分の専攻は最低限に済まし、何より音楽の勉強に注力していたのは最初からのプラン通りだったのだが、やがて大学に非常勤講師として増本伎久子さんが来られていることが判明。既に秋山邦晴「日本の作曲家たち」で増本さんのことも知っていた。そこである時授業時に押しかけていって、実は作曲やってます、と自己紹介し、近くの喫茶店でその頃の書きかけの曲などをいくつか見ていただいたのは忘れられない。

リュック・フェラーリとパリの自宅にて

ちなみに当時の僕が書いていた音楽は今とはかなり違っていた。既に無調的な方向に足は踏み入れていたのだが、当時の関心と共感はリゲティやクセナキスといった音群作法による音響エネルギーの物理的推移をコントロールする音楽にあり、しかし瞬間的な響きは作れるもののそれを持続させて一つの完結した世界を作るところまで持っていくことがまだできずにいた。そして、この話はこれまでにも何度か書いたり語ったりしているので詳細は省くが、当時日本人作曲家で最も心酔していた湯浅譲二に師事したいと決意し、長い手紙を書いた。はたしてそれと増本さんに見てもらったのとどっちが先だったか定かではない。増本さんの方が先だったような気がする。この手紙によって人生は大きく転回することになる。ここまで書いてきて人様の何か参考になるようなことは全く書いてない気がするが、いいことにしてこの項続く(気が変わらなければ)。

【公演情報】
◆8月20日(火)19時開演、会場:両国門天ホール
門天サマーアカデミー/コンサート
鈴木治行/句読点 I(1992)
演奏:山澤慧(チェロ)
入場料:2000円
https://www.facebook.com/events/2252788228384398/

◆8月31日(土)15時開演、会場:サントリーホール大ホール
サントリー・サマー・フェスティバル2019、第29回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
鈴木治行/回転羅針儀(2018)
演奏:杉山洋一指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団
一般:2000円、学生:1000円
https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20190831_M_2.html

◆9月1日(日)20時開演、会場:Ftarri
SHIDA 3rd LIVE Performance
即興演奏:波多野敦子(ヴァイオリン、電子音)、鈴木治行(電子音)
予約2000円、当日2500円

【CD情報】
◆語りもの(HEADZ 120)
鈴木治行/陥没ー分岐(2000)、沈殿ー漂着(2003)、前兆ー微光(2007)、伴走ー齟齬(1999)、浸透ー浮遊(1998)
演奏:太田真紀(ソプラノ)、原みどり(ヴォーカル)、今井和雄(ギター)、梶原一紘(フルート)、多井智紀(チェロ)、河合拓始(ピアノ、キーボード)、清水友美(ピアノ)、大谷能生(サックス)、守屋拓之(コントラバス)、秋山徹次(語り)、佳村萠(語り)

◆24 Preludes from Japan(stradivarius/STR 37089)
鈴木治行/偏心輪
演奏:内本久美

(2019/8/15)

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鈴木治行(Haruyuki Suzuki)
東京生まれ。1990年、若手作曲家グループTEMPUS NOVUMを結成。1995年、『二重の鍵』が第16回入野賞受賞。同年2度目の個展「記憶の彫刻/超克・鈴木治行の音楽宇宙」を開催。1997年、衛星ラジオ「Music Bird」にて鈴木治行特集。2005年9月にはガウデアムス国際音楽週間に招待され、Orkest De Volhardingによって『Expand And Contract』を初演。2006年5月、イタリアのサンタマリア・ヌオヴァ音楽祭にて、ロベルト・ファブリツィアーニらによって新作初演。2007年9月には3回目の個展を開催(「語りもの」シリーズ全作公演)。同年、ボルドーの音楽祭”Les Inouies”に招待され、Proxima Centauriによって委嘱作初演。2010年3月、ニューヨークの”Experimental Intermedia”に出演し、飯村隆彦の映像とともに電子音楽を自作自演。2011年8月、サントリー・サマーフェスティバルにて『Film Strips 2(生演奏版)』初演。2013年2月、<鈴木治行「句読点」シリーズ全曲演奏会~脱臼す、る時間>開催。2016年2月、ニューヨークのMusic From Japanにて作品が紹介される。作品は国内外で演奏、またNHK-FM、CSラジオスカイ、ラジオ・フランス、ベルリン・ドイツ・ラジオ、DRS2、ラジオ・カナダなどで放送され、他ジャンルとのコラボレーションにも関心を持ち、演劇、美術、映像などとの共同作業を行っている。