Books|鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史|齋藤俊夫

鬼子の歌  偏愛音楽的日本近現代史
片山杜秀著
講談社
2019年
3200円(税別) 

text by 齋藤俊夫(Toshio Saito) 

「このような本を一冊でも書いてみたいものよ」と思わされつつ、「このような本を書いてはいけない」とも思い汗ばみつつ542頁を読み切った。

なにしろ、この大著には「脚注が1つたりともない」のである。全13章ある各章の主要参考文献・音源も多くて1章につき9つだけ。本文中にも資料情報はほぼ皆無。従って読者はどこまでが検証可能な史実でありどこからが筆者の意見・評・連想・憶測なのかわからない。この本を参考文献として論文等を書く後世は資料の源ソースを探すのに苦労することいかばかりか……。

では内容はつまらないのかというと、そうではなくすこぶる面白い……というか、片山杜秀でなければ書けないし、また色々な意味で許されないであろう「評論」であり「伝記」であり「歴史書」である。

三善晃の合唱オペラ『遠い帆』を語るのに彼が主題歌を担当したアニメ「赤毛のアン」から始まるのは流石ながら、ではそこからこの三善論が松本清張を経由する必要があるのかというと……評者には正直よくわからない。
諸井三郎の交響曲第三番論で『ウルトラセブン』の合体ロボット・キングジョーが出てくる所など、片山にしかできない芸当だとは思うが、キングジョーは特にその後の論で活躍しない。なぜ登場した?
深井史郎論(実質、戦前から戦時中の日本西洋音楽論)において延々と述べられる「西洋的二元論」「東洋的一元論」という図式、西洋にもライプニッツのモナド論のような一元論はあるのだが。また、この二つの単語はどこの誰が言い始めたものか……実際、評者は学生時代に片山が其処此処で多用する「東洋的一元論」なるものの正確な意味と初出を相当に調べた所、「どこにも見つからなかった」という経験がある。

しかし、この文体・文章を読むべし。
(以下引用)
「理屈っぽく制度と集団を重んじる中国の向こうに、ひたすら自由と個人を重んじるインドがあったのです。このインドが見えると、アジア像は組み直されます。より自由な日本とより厳格な中国とのスタティックな対比で考えられていた東アジア像は、インド→中国→日本のダイナミックな弁証法的運動の起きている場としての大アジア像に取って代わられるのです」(第8章「深井史郎の交響的映像『ジャワの唄声』、275頁)

……ホンマかいな、と心からの納得はできなくとも読まさせられるこのノリ、テンポ、スピード感、これぞ余人には誰も真似できぬ片山杜秀節と言えよう。なにしろダイナミックな弁証法的運動な大アジア像なのである。中国には道教があったりインドにはカースト制度やジャーティの別があっても構わないのである。評者には真似できない、いや、真似したくとも自分の中の大切な何かがこのような書きっぷりを拒んでしまう。

実証的に定かではない連想に次ぐ連想と憶測と臆断、それらがまさにマシンガントークと言うべき話体文によってまくしたてられる。すこぶる博覧強記な人物と飲み屋で酒を飲みながら話しているような気分にさせられる実に500頁以上のこの「奇書」、圧倒的な怒涛の「語り」の向こうに見えてくる、聴こえてくるのは音楽や思索というより、むしろ片山杜秀という稀有な「語り手」の存在感である。

(2019/8/15)