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サリーム・アシュカール ピアノ・リサイタル|丘山万里子

サリーム・アシュカール ピアノ・リサイタル

2019年4月2日 浜離宮朝日ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目>
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 「悲愴」Op.13
ブラームス:2つのラプソディ Op.79
〜〜〜〜
シューマン:子供の情景 Op.15
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第26番 変ホ長調「告別」 Op.81a
(アンコール)
ショパン:ノクターン 第9番 ロ長調 作品32-1

 

パレスチナ系ナザレの生まれと知ったのは、聴いた後。
そうか、と思った。
アシュカールの演奏に、独特の動き、旋回舞踊的動力を一貫して感じたから。
音楽を推進してゆく、その時、彼の体内に渦巻くエネルギーは、普通の波、あるいはここからそこへと流れてゆく線的なものでなく、ぐるぐる旋回する回転性のもので、とりわけ左の打鍵でそれを巻いてゆく力動の強さに、筆者は生来のものを見る気がしたのだ。
それはイスラエルやエジプト、トルコなどで目にした、男がぐるぐるひたすら回転する民俗舞踊に似て、ふと、アラブの血ではないか、と。
ナザレはアラブ系の街だ。そしてむろん、受胎告知教会の街。教会前にはナツメヤシが茂り、内部にはローマ帝国のモザイクが遺る。イスラエルの地の複雑は語りようもなく、それはエルサレムや聖墳墓教会の混沌渾然に端的に示される。
アシュカールの描く音楽の螺旋構造は、昨今のグルーブ系とも全く異なりひどく独特で、聴後、端正流麗叙情派美音ピアニストとの評判を散見、ええっと驚き自分の耳目を疑ったが、そう感受したのだから仕方あるまい異様であっても、書く。筆者は筆者なり腑に落ちたゆえ。

『悲愴』は当初予定の『第3番』を変更して。序奏、冒頭のガツンとした打鍵和音は鋼鉄線コイルのような硬質の響で(縦ラインでなく)、ゆったり遅め、その溜めを鬱陶しく感じる寸前にすくい上げる。言い淀む、口ごもる的イレギュラーさで、思い入れ、とは違う重力が働くようだ。アタッカからアレグロに飛び込むと、上述の旋回動力が目覚ましい勢いで発動する。
左オクターブトレモロはぐりぐり俊速巻きでその上を上行音形が飛び跳ね、下降音形は一気に墜ちる。第2主題も装飾音付きフレーズの連なりを微妙に言い回す。対旋律のバスの鳴らし方、右トレモロに左が駆け上る勢い、こういうところでぐいっと巻きがかかる。繰り返すが、その回転の独特さが全楽章、いや、この夜のすべての演目にあちこち見られたのだ。
それは彼の中にある自然な動力に従ったもののようで、誰とも何(なに)とも異なり、解釈云々でなく、これだ、と彼が捉えたところで起動し全体を推進してゆく。
弾きながら彼は口をもごもごさせるのだが、おそらくそれは彼の裡なる発語、語彙、イントネーションであり、第2楽章もまた、序奏での不規則な溜め語調、さらに突然現れる不思議なアクセントに驚くことになる。響は弱奏であれ変わらず硬く、ニュアンスも乏しい。
つまり彼には、こう弾かずにおれぬ強い力が働きそこに疑問を挟む余地はない、みたい。

ブラームスはというと、アジタート強打から3連符つきフレーズで駆け下りるさまは、崖から岩石をバラバラ投げ落とす勢い(放物線でなく回転なのだ)。そのアジテート(煽動)ぶりというか荒ぶるさまはもちろんアルペジオで縁取られたpp旋律で凪ぎはするのだが、ここでも抒情が滲むそぶりはない。
第2番の持つ変化に富む起伏、ブラームスらしい揺れ動く心情のようなものも聴こえてこない。筆者は、灼熱の陽射しにじゅっと姿が地に消えそうなユダの荒野の風景を思い出し、思わず身を固くしたのだった。

シューマンには何があったか?子供の情景?こんなにモノクロの情景を見たのは・・・記憶にない。ここに至って筆者は、ああ、これがあなたに見える世界なのね、と耳を傾けるほかなかった。気になる溜めや言い淀みがほぼ消え、その独り語りはかなり極端な明暗(ディナミーク)と内声の強調に浮沈する。巻きは<満足>の左オクターブの動きなどに顕著、<トロイメライ>はあっさり通り過ぎ、<こわがらせ>は劇画風タッチの対比で。続く<眠る子供>にいくばくの寂寥を見せるものの<詩人は語る>の最後の和音の足取りにさしたる気負いなく、粛々と終わった。
いわゆるツボにはまらせない何かがあって、筆者はなんとも落ち着かないのだ。
『告別』のあと席を立たなかったのは、どんなアンコールが?という興味で、ショパンを聴き終えた時、そうか、でも・・・と筆者の聴取が上塗りされただけであったのを少し残念に思ったのだった。

「アラブ?」という1点から、想像を膨らませ全体を受け取ってしまったのは否めない。そうして、故郷や騒乱地での様々な活動を知り、いろいろな思いにとらわれたのも事実。
40歳を過ぎたこの人の演奏の特異について「腑に落ちた」と書いたが、あくまで個人的了解だ。
弾き終えて挨拶に両手を胸の前でそっと手を合わせる姿に、改めて「私たちがそれぞれに、音楽に向き合う、ということはどういうことなのだろう」と考える一夜となった。

(2019/5/15)